芝居の外題は、昼の部「身代わり道中」、夜の部「心模様」。いずれの舞台も、すでに見聞済み。今日は、役者相互の「かかわり」(絡み合い)に注目して観た。まず、座長、誰と絡んでも面白い。次に春日舞子、誰と絡んでも面白い。つまり、どの役者も、座長、舞子との「絡み」(胸を借りる)によって、本来の「持ち味」が引き出されているのである。言い換えれば、座長、舞子が登場していない舞台、蛇々丸、花道あきら、春大吉、三代目虎順だけの舞台で、どれだけ客を惹きつけられるかが問われることになる。「身代わり道中」では、春大吉と虎順、「心模様」では蛇々丸と春大吉の「絡み」が中心、どちらにも登場するのが春大吉であるとすれば、彼の「役割」(責任)は大きい。虎順に対しては「胸を貸す」、蛇々丸に対しては「胸を借りる」(とはいえ役柄は年上、至難のことではあるが)演技が要求されるのである。「男はつらいよ」の主人公・フーテンの寅(渥美清)が、大先輩のおいちゃん(森川信)、おばちゃん(杉山とく子・テレビドラマ)、おふくろ(ミヤコ蝶々)の「胸を借りて」こそ、迫真の演技ができたことと同様に・・・。
役者の修業に終わりはない。懸命に精進している春大吉のこと、その「役割」を果たす日も遠くはないであろう。
次に、「舞踊ショー」の感想。「舞踊ショー」の眼目は、「歌謡絵巻」とでもいおうか、芝居では演じ切れなった「大衆のドラマ」(流行歌の世界)を、役者一人一人が文字通り「独り舞台」で演じるところにある。座長の舞踊(歌謡)は一級品で、特に、坂田三吉、桂春団冶、藤山寛美を踊り分ける「浪花花」、女形舞踊「おかじ」、「桂春団冶」、「俵星玄蕃」、歌唱の「北の蛍」「ああ、いい女」「無法松の一生」等々、至芸の数々を数え上げればきりがない。春日舞子の舞踊も同様、とりわけ「深川」「車屋さん」など芸者の風情は絶品、座長との相舞踊では光彩が倍増する。蛇々丸、「股旅者」「侍」「町人」等々、なんでも「器用」にこなすが、「勧進帳」「忠臣蔵」のような長編歌謡(浪曲)を踊らせたら天下一品、右に出る者はいないであろう。以下、花道あきら、春大吉、三代目虎順、梅乃枝健、いずれの舞踊も、他の劇団と比べて遜色ない。今後は、それぞれの役者が、「自分しかできない」舞踊を追求すべきだと思う。柏公演では、客のカラオケで踊る試みを取り入れたが、その企画は素晴らしい。客と一体になって舞台を作ろうとする姿勢は貴重である。三十年前、「梅澤武生劇団」が客の舞踊を舞台に取り入れたことがあった。その演目は「チャンチキおけさ」(三波春夫)、役者以上に踊りこなした姿は、今でも私の眼に焼き付いて離れない。聴いただけでは「どれだけのもん?」と思われる流行歌でも、舞踊が加わることによって、全く別の歌に「変身」してしまうのである。そのような舞台を、「鹿島劇団」にも期待する。客が選曲(歌唱)し、「御所望」の役者が踊る、というような企画が定着すれば、「舞踊ショー」の内容は、より魅力的なものになるだろう。柏では、見事に、虎順がその役割を果たした(「人生桜」)。その姿も、私の眼に焼き付いている。客は、鑑賞者であると同時に批評家でもある。役者の個性を当人以上に「見抜いている」。時には、客の「いいなり」になって自分を磨くこと、それも必要不可欠な「役者修業」ではないだろうか。どの「劇団」の「舞踊ショー」でも、鳥羽一郎、大月みやこ、林あさ美、堀内孝雄、吉幾三、島津亜矢、神野美伽、氷川きよし、天童よしみ等々、聴いただけでは「どれだけのもん?」と思われる流行歌で溢れている。それを「えっ?こんな名曲があったのか!」と感じるまでに「変身」させた舞踊には久しく出会わないが、虎順の「忠義桜」などを観てしまうと、「鹿島劇団」なら「やってくれるのではないか」と、秘かに期待しているのである。
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芝居の外題は昼の部「遊侠流れ笠」、夜の部「関取千両幟」。「遊侠流れ笠」の主役は三代目虎順、病弱な親分(座長)の三下だが「うすのろ」のため、子分衆の中では半人前。しかし、窮地に陥った親分のために、本当に働いたのは「うすのろ」の三下だったという筋書。見せ場は、三下の「変身ぶり」だと思われるが、虎順の三下は「別人」になりすぎた。三年間の旅修業を終えたとはいえ、どこかに「うすのろ」時代の「面影」がほしい。「関取千両幟」は、大衆演劇の定番、座長の「関取」、蛇々丸の「新門辰五郎」が絶品で、抜群の出来栄えだった。芝居は、開幕直後の景色が肝腎、花道あきら、春日舞子の艶姿が効を奏したと思われる。
舞踊ショーでは、昼の部、座長の「風雪流れ旅」、夜の部、座長の歌唱をバックに虎順が踊った「舞姿」が印象に残った。
昼の部の幕間で耳にした客の話。「初めてのところだから、いつまでもつかしらね」「座長の歌はうまいよ、でも心がこもってないよね」「あたしたちは、毎日来ているんだから」
小岩の客は「目が肥えている」とでもいいたげな様子だったが、「客に媚びる」劇団ばかり見ていると、そう感じるかも知れない。「人気」と「実力」は比例しない一例といえるだろう。
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芝居の外題は、昼の部「月夜の一文銭」、夜の部「情け川」。前者は、「勧善懲悪」を眼目としたスリ三人組の話、大衆演劇の定番。後者は、初めて見る人情喜劇(現代劇)、座長(婆さん役)の、博多弁が「立て板に水」、蛇々丸(大工)の東京弁との「対比」が面白かったが、話の中に出てくる「良子」が実際には登場しないので、物足りなかった。とはいえ、出来栄えは「水準」以上、昼夜「大入り」の客は「それなりに」満足したに違いない。舞踊ショーは、昼の部、座長の「花と龍」「瓦版売り」(忠臣蔵・清水一角と中山安兵衛の話)、夜の部「安宅の松風」(富樫・弁慶・義経の踊りわけ)は「至芸」そのもの、まことに幸運だった。昼の部の口上で、花道あきらが、「おかげさまで、今日は大入りを頂きました。今日は何か(ランドの催しが)あるんですか?」と客に尋ねていてが、客の入りなど「歯牙にもかけぬ」座長の姿勢が座員にも浸透している様子が窺え、さわやかな印象を受けた。また、座員の舞踊衣装も「相変わらず」(いつも目にする、お馴染みの代物)だが、「芸」そのものは着実に「変化」している。衣装の豪華さ、着物の多さを「目玉」にしている劇団が多い中で、まさに「劇団・火の車」だが、その不足を「芸」の力で補おうとする誠実な姿勢(襤褸は着てても心の錦)に脱帽したい。
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芝居の外題は「月とすっぽん」。登場人物は「すっぽん」の兄・平太郎(座長)と「月」の弟(三代目虎順)、「すっぽん」の下女・おなべ(春日舞子)と「月」のお嬢さん(生田春美?)という取り合わせ。病弱な親分(花道あきら)は、子分のうち、律儀で素直な弟をたいそう気に入っており、自分の娘を嫁がせたうえ、跡目を譲ろうとした。しかし、弟は辞退する。「まだ兄貴が嫁をもらっていないのに・・・。ましてお嬢さんなど・・・。身分が違います」人のよさそうな親分「心配はいらねえ、お前の兄貴には俺がよく言って聞かせる、娘が誰よりもお前を気に入っているんだから、この話をうけてくれまいか」度重なる説得に、「それなら・・」と弟も応じた。大喜びの娘、その手を取って弟も欣然と退場。そこへ、ほろ酔い機嫌の兄、ふらふらと登場。「おりいって親分に話がある」と言う。親分が応じると「もうこのへんで身を固めたい。親分のお嬢さんを嫁にいただきたい」びっくりする親分、「そうだったのか!だが平太郎よ、お前は一舟乗り遅れたぜ」「どういうこってす?」「娘は、さっきお前の弟に嫁がせることに決めてしまったんだ!」「なんですって?私とお嬢さんとは、とっくの昔に夫婦約束をしていたんですよ!」「本当か?それはいつのことだ」「忘れもしねえ、お嬢さんが三つ、あっしが花も恥じらう十の時でござんす!」あきれる親分。「バカを言うな、そんな話にのれるもんか」娘の代わりにいい女を見つけてやるからあきらめろと説得。平太郎「どこの女ですか?小岩ですか、川越ですか?それとも柏ですか」親分、花道あきらになって(役から現実に戻って)笑いが止まらない。平太郎、「わかりました。盃を水にしてください。親子の縁もこれっきり・・・」待て!と留めると思いきや、意外にも「おお、そうか、それでいいだろう。お前との盃は水にしてやる」拍子抜けして、落胆のまま平太郎退場。後へ来たのが対立する親分(春大吉)とその一党(蛇々丸、梅乃枝健、金太郎、赤銅誠)、「縄張りをよこせ」と迫る。断る親分を惨殺、一味は、その娘まで連れ去った。その様子を見て驚いた「すっぽん」のおなべ、平太郎に知らせようと一目散に退場。
二景は平太郎宅。跡目相続とお嬢さんとの結婚、その吉報を知らせようと弟は、兄・平太郎を待つ。まもなく、平太郎、落胆を通り越し、ふて腐れの風情で登場。吉報を報告する弟に、そっけない。「兄貴、祝ってくれねえのか?」という弟の問いかけに、「あたりめえだ!後から生まれてきたくせに、俺の大事なお嬢さんを横取りしやがって!勝手にするがいい」と、ふて腐れる。弟「兄貴、どうして祝ってくれねえんだ?まだガキの頃、俺が川でおぼれそうになったとき、カゼをひいているのに、そのうえカナヅチなのに、俺を助けようと飛び込んでくれたじゃあないか、あのときのやさしい兄貴はどこへいっちまったんだ」じっと瞑目して聞いていた平太郎、「そうだったよな、俺も大人げなかった。おめでとうよ」と優しい言葉を投げかけたが、それは芝居。「なんでえ、照明や裏方まで味方につけるなんて卑怯だぞ。舞台を暗くして、悲しそうな音楽をかけ、泣き落とそうとしたって騙されねえ。だれが何と言おうと、お前とお嬢さんが夫婦になるなんて、俺はがまんできない」「そういわずに兄貴・・・」と言い合っている最中に、突然、楽屋裏でバタンと大きな音(大道具が倒れたに違いない)、平太郎(一瞬、座長に返って)、楽屋裏を覗いたまま10秒間沈黙、舞台、客席は凍りついたように静まりかえった。そして、つぶやくように話し出す。「客が騒ぐのはがまんできるが(そういえば前景で、頓狂な声で騒ぎ、従業員に注意された客がいたのも事実であった)、楽屋裏が芝居を邪魔するとは、許せねえ・・・」このアドリブこそ座長・鹿島順一の真骨頂なのである。舞台で役者を演じながらも、つねに座員の動静、客席の雰囲気に気を配り、責任者としての苦労を重ねているからこそ吐いた「つぶやき」(本音)ではないだろうか。「大丈夫か?誰も怪我はしていないか?」という心配が、手に取るように私にはわかった。さらにまた、その10秒間沈黙の間、凍りついたように「固まった」(ストップモーション)弟役の三代目・虎順も「さすが」の一語に尽きる。突然生じたハプニングにどう対応すればよいか、「とまどう」のではなく、じっと(父であり師でもある)座長の「出(方)」を待ち続ける、弟子(子)の姿に私は感動した。「下手なアドリブ」でその間を取り繕うことはできるかも知れない。しかし、師の前で、弟子がそれをすることは(たとえ親子であっても)絶対に「許されない」のである。そうした不文律が徹底していることが、この劇団の真髄なのだ、と私は思う。
座長のアドリブが客の笑いを誘い、舞台は本筋に戻る。息を切らし、あわてて飛び込んでくるおなべ、「大変だ!親分が殺された。お嬢さんも、敵方の親分に連れ去られた!」「何だって?」仰天する弟。「兄貴!お嬢さんを助け出す。親分の敵も討つ。力を貸してくれ」しかし、平太郎は応じない。「どうとでも、勝手にするがいいや。俺はとうに親分との盃は水にしている。お前ひとりで助けにいけ、俺は関係ない!」とふて腐れる。「そうか、わかったよ、もう兄貴には頼まねえ」、弟は「押っ取り刀」で、単身、敵地に駆けだして行く。それを見ていたおなべ、「平さん、何してるんだ、早く助けに行かないか!」
「俺は関係ない」「関係ないことがあるもんか。お世話になった親分の敵を討つのは当たり前、兄として弟のために命をはってこそ『男』じゃないか。見損なったよ。あんたは『男』じゃない」「何だと?おれは『男』だ。じゃあ、助けに行けば『男』になれるのか?」「ああ、なれるともさ!」「よーし、助けに行くぞ」「そうこなくっちゃ!だからあたしは、平さんに惚れてんだ。およばずながら、このおなべも助太刀するよ!」「よしてくれ、足手まといだ」「邪魔になってもためにはならない」という絶妙なやりとりが、楽しかった。
かくて、敵地に乗り込んだ、平太郎とおなべ、孤軍奮闘する弟に近づき「助っ人するぞ!後は任せろ」「兄貴、すまねえ」しかし、相手は多勢、一瞬、背中を見せた平太郎に敵の親分が斬りかかる。「危ない!」とっさに平太郎を守ろうとしたおなべ、肩口から大きく切り込まれた。それに気づいた平太郎、おなべを助けようとして自分も脇腹を刺される。
弟の登場でどうにか敵を討ち果たすことはできたが、舞台は暗転、愁嘆場の景色となった。
深手を負った平太郎、おなべを抱き寄せ「やっぱり、すっぽんにはすっぽん、俺にはお前がお似合いだあ」「だから言っただろう、あたしたちは『割れ鍋に閉じ蓋だって』・・・」「ちげえねえや」「平ちゃん、どうせ死ぬんなら、ぱっと明るく死のうよ。あの歌、唄っておくれよ」「いいともさ。エイヤアー、会津磐梯山は・・・宝の山よ」「笹に黄金がええまた成り下がる」苦しい息の中で、でも楽しそうに唄いながら、ふらふらと踊る「すっぽん二人」(絶品の相舞踊)、生まれたときは別々でも「死ぬときは一緒」、至上の幸せを手にした風情の臨終に、「月二人」(弟とお嬢さん)が合掌する、浮世絵かと見紛う艶やかな場面で、終幕となった。この劇団に数ある「名舞台」の中でも「屈指の出来映え」だったといえるだろう。
舞踊ショー、座長の佐々木小次郎、「物干し竿」(長刀)を一瞬に抜き放つ「離れ業」は、まさに「至芸」、感嘆に値する。ラストショー、「のれん太鼓」(群舞)では新人・赤胴誠、舞踊の初舞台(?)、彼を見守る座長・座員一同の「暖かい眼差し」が、えもいわれぬ景色を作りだしていた。
あらためて、この劇団の「隙のない舞台」「客に対する誠実さ」が感じられ、深い感銘を受けた次第である。
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昼の部、芝居の外題は「紺屋高尾」、舞踊ショーは「女形大会」、夜の部、芝居の外題は「忠治御用旅」、舞踊ショーは「人生劇場」、いずれも特選狂言と銘打っていた。観客は「大入り」、以前「どこまでもつか?」とほざいていた客も顔を見せていたが、「友也(紫鳳)だって、これくらいは集められる。ここに出入りできないなんて、組合のやり方がおかしい」などと「八つ当たり」する始末。騒然とした雰囲気の中だったが、かえって座員の気持ちは引き締まり、舞台は今まで以上の「出来映え」であった。
「紺屋高尾」の夜鷹・鼻欠けおかつ(蛇々丸)は「絶品」で、三条すすむと「肩を並べている」。特に、セリフの出番がないときの、何気ない「所作」が魅力的で、客の視線を独占してしまう。この役は、「鼻欠け」という奇異感を超えた「あわれさ」「可愛らしさ」を漂わせることができるかどうか、が見所だが、十分にその魅力を堪能できる舞台であった。「女形大会」、座長の話では、めったにやらない(やろうと思ってもできない)演目とのこと、化粧・着付けを支援する、専門の「裏方」がいないためだ。今日は、春日舞子が「裏方」に徹したのだろう。普段見られない、蛇々丸、梅乃枝健の「女形」を観られたことは幸運であった。蛇々丸の「舞姿」は格調高く、「地味」に徹していたことが素晴らしい。「妖艶さ」を追求しないのは、「男優としてのプライドが許さない」(客に媚びを売らない)というモットーからか・・・。梅乃枝健の「女形」は、春日舞子と見紛うほど、「さすが」「お見事」の一語に尽きる。柏(昨年11月)、川越(2月)、小岩(3月)と通い続けて、ようやく二人の「女形」を目にすることができ、大いに満足した。
夜の部、歌謡ショーで唄った座長・鹿島順一の「瞼の母」は、「天下一品」。彼の「歌唱」の中でも、抜群の「出来栄え」であった。番場の忠太郎は、ヤクザとしてはまだ「若輩」、どこかに「たよりなさ」「甘え」を引きずっている風情が不可欠だが、その「青さ」をもののみごとに描出する、座長の「実力」は半端ではない。「こんなヤクザに誰がしたんでぃ・・・」という心情が、言葉面だけでなく「全身」を通して伝わってくる。他日、どこかで聞いた座長の話。「私の歌をCDにしないか、というお話がありましたが、私は歌手ではありません。役者風情の歌など余興(時間つなぎ)にすぎません。おそれおおいことだとお断りしました」。その「謙虚さ」こそが、彼の「実力」を支えていることは間違いないだろう。
とはいえ、鹿島順一の「芝居」「舞踊」「歌唱」が、その日その日の「舞台」だけで、仕掛け花火のように消失してしまうことは、何とも残念なことではある。
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芝居の外題は、昼の部「春木の女」、夜の部「仲乗り新三」。いずれも特選狂言、特に「春木の女」は「鹿島順一劇団十八番の内」と銘打っている。さもありなん、この芝居は、これまで私が観た大衆演劇の中でも「最高傑作」といっていい舞台であった。
春木の浜の漁師夫妻(夫・梅乃枝健、妻とら・鹿島順一)には二人の娘がいた。姉(お崎・春日舞子)、妹(お妙・三代目虎順)である。お崎は利発、男勝りな気性で働き者だが、お妙は育ち遅れが目立ち、歩き始めたのが四歳、言葉遣いもまだたどたどしい。はじめは寛容だった村人たちも、今では後ろ指を指したり、白い眼でひそひそ話をするようになっていた。妻・とらは、そんなお妙が不憫でならず「猫かわいがり」、反対にお崎には冷たく「当たり散らす」。しかし、お崎は「じっと堪え」、とらの言い出す無理難題に黙々と従う毎日であった。舞台は一景、ある時、浜で村の若者たち(春大吉、金太郎、赤胴誠、春夏ゆうき、生田春美)が祭り太鼓の稽古をしていると、そこに京都の人形問屋(京や・大手)の次男坊(清三郎・蛇々丸)が「魚釣り」にやってきた。兄(慎太郎・花道あきら)から「暖簾分け」をする時期になり、嫁取りの見合いをさせられ、その煩わしさから逃げてきたのだ。いささかノイローゼ気味で、言葉にも力が入らない。そのなよなよした風情で「釣り場所」を若者(春大吉)に尋ねる「やりとり」が絶品であった。清三郎が退場、そこへお妙が登場、「おとう」(父・梅乃枝健)を迎えに来たのだ。しかし父は先刻、風向きを読んで、「これから時化になる。海へ近寄るのは危ないぞ」と若者たちに警告、帰宅していた。若者たち、「おとうか、おとうならあっちにいるぜ」と言って、お妙を騙す。通り過ぎようとするお妙の前に立ちふさがった。お妙「そこ、のけ」と言うと「裸になったら通したるわ」とからかう。「裸になったら寒い」「寒くないから脱げ」と押し問答しているところに、姉・お崎登場、「あんたたち、何してるねん。お妙のこといじめたらどついたる」とたしなめる。「いや、あんたが、おとら婆さんにこき使われて可哀想と思ったから、ちょっと、からかってみただけや」と弁解するところに、とら登場。「なんや、お前たち、また寄ってたかって、お妙をいじめていたんやな」、すかさずお妙が訴える。「あんな、おかやん、おねやんがうちの頭どつくねん」「なんやて、お崎がぶった?こら、お崎、なんてことするんや!」、「いえ、私は・・・」と絶句するお崎。あっけにとられる若者たち。とら「はよ、貝採りに浜へ行かんかい」と睨みつける。「今日、海は時化る。浜になんか近寄らんほうがええって、あんたんとこのおとやんが言ってたぜ」と抗する若者に、「フン、そんなことぬかしおったか、あの宿六が。意気地がないから、いつまでたっても貧乏暮らしをせなあかん」。直後に猫なで声で「お妙や、こんなアホな連中の中にいると、こっちまでアホになってしまう。はよ帰ろう」と、お妙と共に退場。その途端、浜の方から大きな声、「おおい、誰やら海に落ちたぞ・・・。手を貸してくれ・・・」一同、びっくり。尻込みする若者たちを叱咤して、お崎は浜に駆けだした。やがて、先ほどの清三郎、若者たちに背負われて登場。釣りの最中、波にさらわれたが、命だけはとりとめた。息を吹き返して「ここは地獄か、極楽か?」見上げると、そこにはお崎がすっくと立っていた。「わてを助けてくれたんは、あんたはんでっか?」、「みんなで一緒に助けたんや」、いつのまにか、舞台は清三郎とお崎の二人きり。会話を交わす内に、清三郎の心は決まった。「あんたはんは、素晴らしいお人や。わての女房になってもらえへんやろか」「あほらしい、身分が違います」全く取り合わないお崎、それでも清三郎はあきらめない、約束の証に自分の「守り札」を無理矢理、手渡して退場した。「守り札」をしげしげと見つめるお崎、しかし「こんなもの持ってたら、またおかやんに何言われるかわからへん、ややこしゅうならんうちに・・・」と言いながら、背負い籠に投げ入れたが、実は道の上、知ってか知らずか、さわやかに退場した。一部始終を見ていた風情のとらとお妙、再登場。お妙が拾い上げた「守り札」を手にして破顔一笑のとら、「しめしめ、どうやら、お妙に幸せが舞い込んできたようだ・・・」とつぶやく。そして「お妙や、これは大事なものだから、大切になおして(しまって)おきなはれ」
舞台は二景、三月後(夏祭り当日)のことである。祭りだというのに、お崎は相変わらず「働きづめ」、とらから言われた用事を全部済ましたつもりだったが、油の買い物を忘れていた。とらにどやしつけられて、そそくさと退場する。そこへ、来客。「押し売り」だろうと無愛想に応対していたとら、京都の大店・京やの長男・慎太郎だとわかると態度が一変した。「これは、これは、京都で一、二を争う大店の旦那はんでっか、ようこそおいで下さいました」「はい、慎太郎と申します」「ああ、あの石原さんでっか」「いえ、石原ちがいます、京やでおます」あいさつが終わり、「今から三月前、京都から来た若者が海に落ちて溺れていたところを助けてくれた娘さんを探しているのですが、御存知ないでしょうか?」「ええ、ええ、よーく知っていますよ。それは、私の娘で『お妙!』と申します」、違う違う、お妙ではないという素振りの夫を「床を叩いて」制する。驚いた慎太郎に向かって「いえね、フナムシがはい上がって来たんですよ」。慎太郎、下座の夫に注目し、「あちらのお方はどなたはんでいらっしゃいますか」とら「ああ、あれでっか。あれはわての、連れ合いです」「へええ・・・。では、この家の御主人でっか?」「ええ、まあ、よそではそういうことになりましょうな。でも家は女尊男卑ですから、私がが主人です」あきれる慎太郎。でも気を取り直して「そうでしたか、実はその若者とは私の弟。今日はその御礼に伺ったわけです。それに、もう一つ、お願いがあるのですが・・・」。待ってましたという表情のとら。「弟がその娘さんに一目惚れして、嫁にほしい」というのです。「はいはい、大店の暖簾わけしたお嫁さんになれるなんて、願ってもないこと、よろしくおたの申します」「そうですか、それはよかった。では、その娘さんに会わせていただけますでしょうか」一瞬、躊躇するとら、しかし意を決してお妙を呼び寄せる。「さあ、粗相のないように御挨拶しなさい」。何も知らずに平伏している慎太郎の背後に立ったまま挨拶するお妙。「コンニチワ」という大きな声に、慎太郎は顔を上げ、様子を一目見て仰天した。「えっ?・・・・・・」思わず出た言葉「これ、人間でっか?」とら、少なからず衝撃を受けたが、平然と「まあ、あんたさんも冗談がきつい。人形屋さんでいつも人形ばかり見ているから、『人間でっか』などというお褒めの言葉がでたんでしょう」と言い放つ。慎太郎、「わかりました。疑うわけではありませんが、弟は約束の証に『守り札』を渡したと言っております。それを見せていただけますでしょうか」「ええ、ええ、いいですとも。これお妙、あの大事なものを見せてさしあげなさい」お妙、大切にしまっておいた「守り札」を取り出し、慎太郎に手渡す。なるほど、本物に間違いない。動揺をかくせない慎太郎「たしかに、弟の『守り札』です。御主人、疑うわけではありませんが、ここに弟を呼んで確かめてもよろしいでしょうか」またも、躊躇するおとら、しかし、またも平然と「ええ、ええ、かまいませんとも。でも会ったのは三月前、その時とは少しばっかり、様子が変わっているかもしれませんよ」大急ぎで弟を呼びに行く慎太郎。なよなよと登場する清三郎に向かって「おい、清三郎、おまえだいじょうぶか?よりによってあんな・・・」「どういうことでっか。美しい娘さんだったでしょ?」「おまえ、一度、眼医者に行った方がいい」「なにを言っているのやら・・・」要領を得ぬまま二人は家内へ、清三郎いよいよ対面の場となった。憧れの人を前に、緊張のためか、感激のためか、相手の顔をよく見ようともせず、お妙を抱き寄せる。しかし、「・・・?」様子が違う。あらためてお妙の顔を直視して、驚き飛び退いた。「違う!違う!」あの時の娘とは似ても似つかぬ顔、形。
そこへ、お崎が買い物から帰ってきた。一目見て、清三郎が狂喜する。「兄さん、私を助けてくれたのは、この娘さんです!」畜生!もう少しでうまくいったのに!と悔しがるとら。「あいつは家の使用人。私の娘ではありません」何が起きているのか、とんと解せぬ様子のお崎。子細をのみこめた慎太郎、今度は高飛車に出た。「わかりました。この家の人たちは、みんなで私たちを騙そうとしています。助けていただいた御礼はいたします。でも、嫁取りの話はなかったことにして下さい。これで失礼いたします」清三郎をせき立てるように立ち去った。がっくりするとら、それでも夫とお崎に当たり散らす。「間の悪いときに帰ってきやがって!せっかくお妙が『幸せ』をつかめるというのに、お前たちは邪魔ばかりしくさる。もうお崎の顔なんか、見とうもない!どうせ、岬で拾ってきた子やないか!あんた!拾ってきた場所に捨てて来なはれ!」その言葉に夫は激高した。「何だと!もう許さん!お前は決して言ってはならぬことをほざいたな。お崎が『捨て子』だなんて!それを言わないことは、オレとお前の固い約束ではなかったんか!」いつのまにか、お妙の姿はなく、夫婦とお崎、三人の愁嘆場(修羅場)となった。
とらに殴りかかろうとする父親を必死に止めるお崎。「おとうちゃん、おかあちゃんを殴るのだけは止めて。わたしはおかあちゃんをうらんでいない。これまで大きくしてくれて心からありがたいと思っている。もし、おとうちゃんがおかあちゃんをなぐったら、世間の人はどう思う?私がおかあちゃんをうらんで、おとうちゃんに殴らせていることになるじゃないの。だから、お願いだからおかあちゃんを殴ることだけは止めてちょうだい!」と懇願する。じっと、聞いているとら。思わずお崎の顔を見ようとするが、再び背を向ける。あきれた夫、「これだけ言ってもわからない。見下げ果てた奴だ。お崎、おとうちゃんは決心したぞ。おまえと一緒にこの家を出て行く。さあ、二人で出ていこうなあ」表情は晴れ晴れとしていた。最後にお崎「おかあちゃん、私たち家を出て行くけど、身体を大事に長生きしてね。お妙にお婿さんもらって『幸せ』になってね。これまで、本当にありがとう」と、別れの言葉。とら、石のように黙って動かない。
そこへ、慎太郎、清三郎の兄弟、再登場。「途中まで帰りかけましたが、清三郎がぜひあの娘さんに会いたいというので戻ってきました。今、聞いていれば、娘さんを捨てるとのこと、どうでっしゃろ、その娘さん、京やで拾わせてもろうてもよろしゅうおまっしゃろか」父「いいですとも、いいですとも。京やさんい拾ってもらえるんやったら・・・。よろしゅうおたの申します」「では、おとうさんも一緒に拾いましょ」
そのやりとりを聞いていたおとら、ついに口を開いた。その長ゼリフは一話の「人情噺」。
要するに、夫婦は子宝に恵まれず寂しい思いをしていたが、ある日、夫が岬に捨てられていた女児を拾ってきた。夫婦は天からの授かり物としてわが子のように育てた。発育も人並み以上で、申し分ない。五年経ったとき、思いもよらず実子が宿った。喜びも倍増、姉妹仲良く、健やかな成長を期待したが、なぜか妹は育ちそびれ、私は不幸のどん底に。こんな妹がいるかぎり、姉は幸せになれない。この家と縁を切って「家出でも、してくれれば」と思い、わざと冷たく意地悪な仕打ちを重ねてきたが、姉はますます尽くしてくれる。妹は妹で発育が滞る。そんな繰り返しの中で、私の心には「鬼」が棲みついてしまった。ああ、恐ろしい!でも、でも今気がつきました。妹のことばかり考えたのは、私の間違い、姉が幸せになれないのに、妹だけ幸せになれるわけがないということがわかったのです。
そして慎太郎に言う。「貧乏暮らしはしていても、我が家はもと網元。我が家の娘として京やさんに嫁がせたいと思います」
姉に言う。「これまでのこと、許しておくれ。決してお前が憎かったわけじゃあないんだよ」
夫に言う。「ごめんなさい。これからは男尊女卑、あなたのために仕えます」
かくて大団円となるはずだったが、突如、舞台に表れたのは「花嫁衣装」を身につけたお妙の艶姿(?)、一同「ずっこけたまま」大笑いのうちに閉幕となった。
この「ずっこけ」が、「春木の女」の眼目(主題)であることは間違いない。お妙は、何のために登場したのだろうか。自分の「嫁入り」を確信しているのか、姉の「嫁入り」を寿いでいるのか、それは観客の判断に任せるという「演出」であろう。いずれにせよ、「育ちそびれた」人も「かけがえのない」一員であり、その人と共に、どのように生き、どのように「幸せ」を追求すればよいか、という私たちの課題が、「義理」(理論)ではなく「人情」(愛)の視点から問いかけられていることはたしかである。観客の多くが涙を流していたが、その涙で、どのような心が洗われたのだろうか。
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今後、私が注目するのは、金太郎の「変化」である。彼は20歳で初舞台、およそ20年間舞台を務めた(かどうか詳細は不明だ)が、未だに「脇役」、遅々とした「変化」である。しかし、それこそが彼の「個性」であり、その「個性」が劇団の中で受け容れられ、必要とされているところが凄い。まさに、劇団の「実力」なのだ、と私は思う。
新人女優だった香春香は、劇団との縁が切れたが、新たに3人の新人が入団した。彼らの活躍、「変化」に期待したい。
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