新聞社をクビになった女性記者・アンは、腹いせに“一市民ジョン・ドーからの投書”として世相への批判を込めたコラムを書くが、その記事が話題となり市長や知事まで動き出す騒ぎとなる。この機に新聞の人気向上を計ろうとする新聞社は復職を条件にアンに架空の記事を書かせる。そんな中、自分こそジョン本人だと多数の人間が名乗りをあげ、アンたちは元野球選手のウィロビーという男をジョン・ドーとして仕立て上げる事にする。
マスコミに登場し、隣人愛を説くジョンのメッセージは全国で共感を呼び、国民的な英雄となってゆき、やがてアンを愛するようになる。しかし、自分を隠して演技し続ける罪悪感に悩むジョンは・・・。
『群衆』
1941年/米/フランク・キャプラ
どうしてもキャプラを観たい気分の今日・・・。
『群衆』の怖さが感じられる、ちょっぴり切ない作品だった。
「隣人を愛せよ」というジョン・ドーの言葉に感動し集まった人達の背景には、救世主を望むことよりも、やり玉に挙げる標的、と、祭り上げる“何か”が欲しかったのかもしれない。そして、その全ての鬱憤を発散すべく集まった人達、それが『群衆』。
最初は嬉々として誰もが喜んだヒーローにも、サワサワサワ~~~と悪い空気が広がり始めると、「やっぱりね・・・」と簡単になびき、当然のように“危機”とみなす。人はヒーローよりもやり玉が欲しい生き物なんだと思わずにはいられない。醜い。
持ち上げて落とす、これも群衆なのでしょうね。
考えを改めることはもちろん必要だけど、落とし方が気に入らない。そこに一貫した意思はあったのか??落とすなら、最初から持ち上げるな!って感じ。
ジョンが偽物だと知った途端のあの散りよう。なんとも言いようがなかった。
ただ、そこで終わらないのがキャプラ。ラストにはきちんと救ってくれる。
そこには、やはり、人の心の優しさが表現されているんだと思う。
たとえ、それが偽善と思われても、現実的じゃないと思われても、敢えて、表現するのがキャプラなんだと思う。
でもって、1番感動したのが、ウィロビ-=ジョン・ドーの心の葛藤を見事に演じたゲイリー・クーパー。
素晴らしかったと思う。本当に凄かったよ。
1番印象に残ったのが、ラジオの公開演説終了後に会場から消えたジョンが発見され、とある街の市長室に通される。そこへ、ジョンの演説に感動した町の人々が押し寄せ、ジョンに「隣人に挨拶をしたよ」と懸命に話すシーンで、ジョンではなく、ウィロビー自身の素直な心を覗かせる表情にはグッときた。きっと、自分を責めていただろうと思うと、ちょっと辛かった。
これは、キャプラタッチてんこ盛りの作品だと思う。
他の作品のようにストレートではないだけに、こちらが思うところが多々あって、それでちょっぴり切なくなったんじゃないかなと思ったりする。
本来、人が持ち合わせているであろう正義の心や、人に対する優しい心を、“敢えて”、表現するF・キャプラ監督。
そのキャプラに共感する私はやっぱり、“キレイゴトばかりの甘ちゃん”なのかもしれない。
でも、現実的でも具体的でもなくたって、キャプラの心に素直に感動したい。
カチコチの頭や心で何が生まれるんだろう? 現実的な答えだけが答えじゃないと思う。
悪を悪と思う心、善を善と思える心、全ては人の心が基本だと思うし、そうであるべきだとも思うし。
世知辛い世の中、現実に追われる日々であっても、ふとそんな事を思える一瞬があったらいいな。
アホなことを・・・と思われても、現実的じゃないと思われても、無駄な事と思われても、もしかしたら、書く事によって枝葉が伸びていく事だってあるかもしれないと思うから、私は書く。
ついていけないよぉ~(笑)
私も何時も乍らのキャプラ・イズムに共感しますが、この映画では群集心理の恐ろしさにも「ぞっ!」としました。
過去の戦争は、国を問わず群集心理の弱さを巧みに利用した人物が、引き金を引いているような気がしました。
既に、アカデミー関連特集が始まっているので、どれもこれも観たい観たい!で大変です。欲張り過ぎです、私。
そうでしたね、この作品はちょっと暗い部分があったように感じました。
群衆の怖さでありながら、自分もその時がきたら群衆になるんだろうなという、そんな暗い気持ちにもなったりして・・・。
そうなんですよね、自分たちで祭り上げておきながら、巧く利用されてしまう愚かさもあるって事なのかもしれませんね。
私はキャプラ作品の中で、この『群衆』が特に印象に残った作品かもしれません。