いろはの「イ」

真理は語れるのですか?

進化の具合

2012-04-25 21:27:13 | Weblog
宗教にハマったたり、人と違う特別(勝手に思っている)な行法を行っている人で、まるで自分が人より進んでいると勘違いしている人がいますが

これ、最悪です(笑)

霊的な学びを始めると特にそうなのですが

自分が進化しているかが気になるのかもしれませんが

それを考えてはいけないです、てかわからないです(笑)

自分が進化しているかを考えるということは百パーセント「自我」をはたらかせます
また、ほとんどの人が人と比べ人を比べます。人と偉いや進化を比べるのは最悪の分離感です

誰が偉いとか正しいとかを比べた時点で進化はストップします、いや後退する?

自我をはたらかせず今の自分の状態を見極める方法がひとつあります

それは自分の周りが調和がとれているかです

周りが問題だらけ、敵だらけ、嫌いな人たらけの人と

周りが笑顔か周りが愛に満ちているか不調和な出来事が起きていない人とでは

大きな違いがあります

周りが不調和だらけ敵だらけなのに「特別な教え」を行っていても

なんにも進化していない

ということです


いろはの「い」

境界

2012-04-20 12:41:59 | Weblog
この地上には魂の進化に応じての境界はない

魂のレベルで幼稚園児から大学生までありとあらゆる魂が同じ空間で暮らしている

だから、進化しやすい

幽界には境界のようなものがある

余談ですが(笑)

上の方から下へ救いの手は差し延べることはできるけど

気楽に下へは行けない、なぜならちょっとやそっとでは帰れないから

地上で殺人犯を更正させようと説得に行って自分も仲間になるようなもの(たとえが極端、笑)

だから、この世は修行には適しているのです


いろはの「い」

多数決の原理

2012-04-17 22:54:15 | Weblog
不安や不満や怒りとかの否定的な心の根本のひとつは比べることですね

つねに「何か」と比べてる、そのまた根源は「分離感」

試すとわかります

病気もですね、自分がたとえば肝臓が悪くて悩んだり不安になるのも悪くない人がたくさんいるからですね

もしほとんどの人が同じように肝臓が悪ければ悩まないです

もうひとつつっこめば

肝臓が悪いのが特殊か?ですね

たとえば地上では目の見えない人は特殊となりますが

もし、ほとんどの人が見えなければ見えないのが普通となり見えるのが特殊となります

世の中のほとんどの人が過去生を知っていれば知らない人が特殊ですね

なにが言いたいのかって?(笑)

世の中の特殊や普通や常識は

「多数決の原理」がはたらいているだけ

ということです

どこかの国のある村では「盗む」といる概念がない村があります

村にある全てのものは村人全てのもの

したがって隣の家の冷蔵庫の中の牛乳を勝手に飲んでいても、普通なんですね

日本の普通では、警察署行きですね


いろはの「い」

ばかは風邪を、、、、

2012-04-14 21:04:58 | Weblog
私は一応いたって健康です。姉はよく病院へ行ってます(笑)

姉はとても健康に気をつけていますが私は全く気をつけていません(笑)

まぁたまたまかもしれないですがね

釈迦は生老病死が実在しないと悟りました、私はまだまだですが、この真理を当時の人達に説くなど不可能ですから「このまま次の世界へ行かせて下さい」と言ったのですが

指導霊達から使命だと説得させられたそうです

確かにそうですよね

誰が信じるか!の話です(笑)

むかしどこかで見たか聞いた言葉で
「私ここが悪いのかな?」と思いはじめた時から病気が始まると言った言葉があります

以前姉と二人一緒に健康診断を受けた時二人共胃に気をつけるように言われました

私は気をつけたのは二、三日でしたが姉はそれから食事やそのほか気をつけ始めた結果十年たった今は姉は胃薬を飲み私は一切順調です

もうひとつ私のおばあちゃんは病院嫌いで有名でした少しの熱や痛みでも病院へは行かない人でした

結果九十八才で老衰で苦しみもせず大往生しました

彼女の名言は病院へ行けと言う家族に向かって「病院なんか行ったら病気になるわい」でした(笑)

ほんと至言です

「健康になりたい」「健康でありたい」と想う想念も人間の観念であり、その時点で「健康でありたくない」というような念も生じます

健康食やサプリメントや体力作りも決して否定はしませんが

そこにたとえば人類はこれからこういう症状の病気が流行るから「自分だけは」そうならないようにサプリメントで予防しようなどといった意味不明の不調和な動機で行うと

自分だけがその影響で身体の不調になるという思いとは裏腹の結果になります

私は必要以上過激に宗教団体や健康にたいして躍起になっている人を見ると

正直「生きよう生きようとしてみっともないぞよ」と思います

今食べたいものが身体が欲しがっています、気にせず食べたい時に食べればいいし、歩かなければいけない時は指導霊がそう導きます

ばかは風邪をひかない、、ばかのいろはでした

いろはの「い」




大いなる調和

2012-04-11 09:23:22 | Weblog
桜が満開ですね

桜を見ると時間が戻る感覚を覚えます

日本語は覚者が関わったと言われています

たとえば素直は素にまっすぐ、大和は大いなる調和、人と人で人間、「お蔭さまで」は神のご加護で

日本に生まれてきたことに感謝でつ。。。



いろはの「い」

奇しき今

2012-04-09 08:09:40 | Weblog
もしも思考の根本である目の前の風景や出来事が影幻なら

そして、それが自分こ心の創作ならどうしますか

世間の全ての存在が敵の人はその通りの出来事が起き、全てが愛ならその通りの展開が起きる

ある霊能者が霊能者になる第一歩は「周りをきにしないこと」と言いました

私達はつねになにかに焦点を合わせています。焦点と言う言い方なら優しいですが、つねになにかを排除してその物質や人に焦点を合わせています
合わせていないときも過去や未来へ焦点を合わせています

もしもぼゃ~とピントを合わせず、過去や未来や不安や不満にも焦点を合わせないことが出来れば(良いとは思いません)どうなりますか?

休日に大自然の中気の合う仲間や家族と日常を離れると心がリラックスするのは
その状態

日常をそんな気分で送れると、目の前の展開も変わってくるかもしれないですね(笑)

今しなければいけない仕事、ここに心を込めて丁寧に、、、

これ私の修行であります


いろはの「い」

無限の表現

2012-04-07 21:04:46 | Weblog
真理という言葉があります

この言葉の意味も、人それぞれの捉えかたを持ちます

だいたいが、、「正しい考え」という感じに解釈されているように思う

これは違います

真理とは実相というか、真の本当の姿のこと

これを正しい考えと捉えたら話がややこしくなる

正しい考えとはと自我で考えるとそこに出てくる答は全てが観念、概念になる

たとえば海という真理があったとする、その海という真理を実際見たことのない人がいくら考えたとて結局心の中の創作物

いくら海についての情報が真実味を伴っていようとも心の中で造られた映像であって海そのもの真理そのものではない

この捉えかたが重要だと思う

人間の自我の解釈など無限に存在するので、つまりその人間の理解(自我)での真理も無限に存在する

つまり人間の理解(自我)で「真理とはこうだ」と定義するということは、ただの制約になる

制約するということは他を排除するということ

右と定義すれば左は排除ということで

超意識とはありとあらゆるものにあてはまる普遍的な意識である、つまり無限でなければならない真理を自分達の未熟な意識レベルへ引きずり下ろすことになる

人間はいったん心の中にこのような固定観念を造ってしまえば、その先全てをこの固定観念の枠組みを通して物事を判断して、真理の自由自在で無限の展開を妨げることになります

レベルが低いたとえですが、この指導者の言うことのみが正しいという固定観念を持った人は?言わなくても明らかですね

本来なら視野を広く広くなのに狭く狭くさせるのがほとんどの宗教団体ということですね




いろはの「い」

いろはの「い」

2012-04-05 08:04:55 | Weblog
思考を超越するとは具体的にどういうことか

思考とは思い考える(普通、笑)ですから、思って考えるです(普通、笑)

思うのは心とすれば考えるは頭となります

考えるまえに思うのですから、その課題に意識を向ける

つまり思考は意識のはたらきがおおきいです

つまり意識を向けてそれについて頭を巡らせるのです

それを超越するということは、その壁の向こうへ行くこと

では意識は普段意識しています?

ほとんど無意識に意識を対象に向けている

つまり意識はほっといてもどこかへ向く

その無意識にはたらく個人意識(自我)を超越するには?

単純なことで、それを取っ払えはその潜在されている普遍的な超意識が自ら現れるのです

思考を超越するという作業についてあれやこれやと外からの情報を詰めこむということは

思考という障壁を積み上げげているのではないでしょうかね

真理への道を思考の超越に置き換えると、思考の超越は思考自ら以ってなるのです

そのまえに外の世界の仕組みを徹底的に理解することが肝心だと捉えています

この外側の仕組みが「いろはの(い)」ということで。。。



いろはの「い」

超越

2012-04-03 12:24:41 | Weblog
「空虚を悟る為にも現象世界の物的、心理的領域を超越しなければならない。」鬼雷

そうなんですよね

そのために皆いろんなことを学ぶ

そのためにいろんな神社を巡ったり、適切な指導者をさがしたり書物を読んだりする

これって物的、心理的、つまり思考がはたらくので全てではないけど知識として心に残る

残ると表現すると「忘れたら残らない」と解釈しそうですから違う言い方をすれば自分の肉体(波動)に刻印されるのです

おおざっぱに言えばこれが観念と言われるものですね

たとえば「神」これは人それぞれの観念で解釈します

たとえば「神はどこにでもいる」

この表現だけで千人いれば千通りの解釈が生じる

言ってることはあってるんですが捉え方で大きく変わる

つまり思考で捉えているからです

こんなふうに学びを思考、知識、観念で捉えてしまえばだんだん視野が狭くなり

普遍的なものの見方ができなくなります

まぁ、この仕組みはほんとうに凄いとつくづく感じるいろはです(笑)

神の御業とは上手くいったものですね



いろはの「い」

超意識

2012-04-02 10:17:12 | Weblog
全ての錯覚はこの「個人」から始まるのではないでしょうかね

そこに他人が見えるのは確実に他人が存在しているのではなく、肉体という五感を通しているから

個人、あなたとわたしから、家族と他の家族、社会、国家、人種、民族、そして地球と他の星へと繋がる

神社なんかでよく見る「見ざる言わざる聞かざる」これは、どういう意味でしょうね

見ては駄目、聞いては駄目、言っつは駄目でしょうか?その通りですが、なぜか

私達は何も見えていない、聞こえていない、言っていないと捉えますね、つまり見るな聞くな、言うな、そうすれば真実は見えてくる

じゃあどうすればいいのか?

それはその全てを意識(自我)からなくす

鬼雷さんの言葉をお借りすれば、無意識の意識「超意識」で外の世界を見る聞く、触れることではないでしょうかね



いろはの「い」