市川稔の米(マイ)情報

東京大空襲

1945年3月10日、アメリカ軍のB29が東京の下町を焼夷弾の嵐で焼き尽くした日です。あれから60年。10万人の一般国民が一晩で殺されたのです。以下は、あるホームページからの抜粋です。




花があったら

 昭和二十年三月十日の(東京)大空襲から三日目か、四日目であったか、私の脳裏に鮮明に残っている一つの情景がある。

 永代橋から深川木場方面の死体取り片付け作業に従事していた私は、無数とも思われる程の遺体に慣れて、一遺体ごとに手を合わせるものの、初めに感じていた異臭にも、焼けただれた皮膚の無惨さにも、さして驚くこともなくなっていた。午後も夕方近く、路地と見られる所で発見した遺体の異様な姿態に不審を覚えた。

 頭髪が焼けこげ、着物が焼けて火傷の皮膚があらわなことはいずれとも変りはなかったが、倒壊物の下敷きになった方の他はうつ伏せか、横かがみ、仰向きがすべてであったのに、その遺体のみは、地面に顔をつけてうずくまっていた。着衣から女性と見分けられたが、なぜこうした形で死んだのか。

 その人は赤ちゃんを抱えていた。さらに、その下には大きな穴が掘られていた。母と思われる人の十本の指には血と泥がこびりつき、つめは一つもなかった。どこからか来て、もはやと覚悟して、指で固い地面を掘り、赤ちゃんを入れ、その上におおいかぶさって、火を防ぎ、わが子の生命を守ろうとしたのであろう。

 赤ちゃんの着物はすこしも焼けていなかった。小さなかわいいきれいな両手が母の乳房の一つをつかんでいた。だが、煙のためかその赤ちゃんもすでに息をしていなかった。

 わたしの周囲には十人余りの友人がいたが、だれも無言であった。どの顔も涙で汚れゆがんでいた。一人がそっとその場をはなれ、地面にはう破裂した水道管からちょろちょろこぼれるような水で手ぬぐいをぬらしてきて、母親の黒ずんだ顔を丁寧にふいた。若い顔がそこに現れた。ひどい火傷を負いながらも、息の出来ない煙に巻かれながらも、苦痛の表情は見られなかった。

 これは、いったいなぜだろう。美しい顔であった。人間の愛を表現する顔であったのか。

 だれかがいった。

 「花があったらなあ――」

 あたりは、はるか彼方まで、焼け野原が続いていた。私たちは、数え十九才の学徒兵であった。



抜粋終わり。

涙なくして読めませんね。

昨今は、親殺し、子殺しのニュースがよくあります。人類最低の事件です。

上記の情景を考えて見てください。わが子を守るための母親の気持ちはどんなだったでしょうか?

戦争は殺し合いですが、戦場でないところ、しかも一般国民が殺されるということは、やりきれない思いです。

沖縄も悲惨なものでした。広島、長崎の原爆でも、多くの一般の人々が殺されました。

戦争は絶対に避けなければならない。そして、今の平和は多くの先人達の犠牲の上に成り立っていることを忘れてはいけませんね。

合掌!

ランキングに参加中。クリックして応援お願いします!

コメント一覧

米爺
戦争のこと
 ありがとうございました。戦争というものは結局、最も弱い人たちが犠牲になるものだ、という認識を、我々はもっと厳しく持つ必要があると思います。戦後六十年経って、世相は再びきな臭くなっていますが、日本人は何百万もの無辜の人たちが無残に死んで行ったことを、決して忘れてはならない。
名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

※ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「Weblog」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事