市川稔の米(マイ)情報

外食王の飢え

城山三郎さんが書いた小説の題名です。その主人公のモデルが、株式会社ロイヤル 創業者 江頭匡一さんであることは知られているところです。その、江頭さんが82年の生涯を閉じられました。

日本の飲食業を近代化された、第一人者であると思います。

小生もお世話になったひとりです。

外食産業などと言う言葉すらありませんでした。

思い起こせば昭和52年にロイヤルさんが東京進出!というニュースを聞き、福岡の本社に、米の売り込みに行ったのでした。

当時は食管法が厳しい時代で、米の販売は隣接市町村までという、信じられない制度でした。

博多の本社、出来上がったばかりの階段教室で、店長、料理長が揃う中、美味しいご飯にするにはどうするかという話しをさせて頂いたことを思い出します。

そして、東京都三鷹市に東京進出1号店を開店した際に、米を任されたのです。

開店前から、来る日も来る日もスタッフの訓練をされていました。
お客様が来店されたら、席まで案内するというような、当時では画期的なサービスも取り入れていました。

ご飯も最高の状態で出せるように、当時の弊社スタッフがつきっきりで現場に入っていました。

飲食業が産業として認められるよう、孤軍奮闘されていました。

当時、日本興業銀行というところは、大企業中心で、飲食業など融資先としてまったくありませんでした。それを、粘りに粘り、取引を開始したことも有名です。
(今や、興銀もありません)

また、株式上場ということも飲食業では最初であったと思います。

そういう、素晴らしい先輩経営者のおかげで、今日の外食産業があることを忘れてはいけないと思います。

陰ながら、ご冥福をお祈り申し上げます。

合掌

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コメント一覧

市川 稔
コメント有難うございます
詳しいコメントを有難うございます。



飲食業を産業にするべく、自社のことだけでなく、業界全体のことを考え、実行されておられましたね。



小生も思い出がたくさんありすぎるほどです。



感謝!
Unknown
外食産業の誇り忘れず 故江頭匡一氏
ご冥福をお祈り申し上げます。

江頭匡一氏は戦後の焼け野原から裸一貫で、飲食業を外食産業に育て上げた第一人者でした。

終戦後、米軍に没収された板付飛行場内基地見習いコック、米軍指定商人としてハイカラな米国消費文化と英語を身に付け、「これからは航空機の時代になる」と信じ、ロイヤルを設立。最初の民間定期便が飛び立った日航「もく星号」の17人分の機内食を皮切りに、ファミリーレストランの展開、セントラルキッチン(集中調理工場)の導入、1970年の大阪万博の出店成功など高度経済成長とともに事業規模を拡大し、外食近代化を自ら体現した。

 「ベンチャーの草分け的存在」外食業界では初めて福岡証券取引所に株式上場。東証、大証でも上場を果たした。かつて「水商売と揶揄(やゆ)された飲食業」を外食産業に押し上げた。

大物建築家の助言を受け入れ自ら店舗設計に携わり、関東進出もけん引した。いったん社長を退いたが、経営再建のため93年から一年間は再登板。その後も料理を手掛けるコックの削減には手をつけなかった。

本社工場の従業員に「お疲れさま」と、気さくに声をかける姿も忘れられない。

胃かいようなどで開腹手術を繰り返し、二人の息子の死など苦難を乗り越えてきた。一創業者に退いた後も、一日数回の新商品の試食を続け「ロイヤルの味」の継承に全力を尽くした。外食産業の先頭を走り続け、自らの夢を託した「味」にかけた壮絶な生涯だった。

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