※ちゅうい:この記事のカテゴリは「空想」です。
……ある夏の日の早朝。JR中央線車内でじっと切符を見つめている少女の声。
――本当に変わるんだろうか。 変わるんだろうか。私の生活は。 握り締める切符。遠く知らない街までの1620円。 大金だった。えいやと注ぎ込んだ千円札2枚。券売機で買える最高額の切符を買った。 この切符で、一体どこまで行けるのだろう。頭上の路線図に目を遣る。見覚えのない路線と駅名を順番に辿っていく。 1620円は路線図の一番端にあった。どんな街なのか私は知らない。もしかしたら街じゃなくて山かも知れない。 行ってみたい。行ってみよう。行って見る。だってほら、切符はもう買ったんだから。後戻りはできないじゃないか。 知らない土地に降り立つ自分を想像する。あらゆる事が、起こりそうな気がする。 何も知らないその土地を私は一人で探検する。 あたかもその土地の地理に詳しいふりをして辺りをぶらぶら歩く。 初めて知った地名を何度も舌の上で転がし、その新鮮さにうきうきする。 もしかしたら同じような事をしている人に出会うかもしれない。 だって路線図の一番端にある駅だもの。他の誰かも探検を思いつくかもしれない。 ほとんどの人が押さない値段のボタンを押しただけで、一瞬のうちに胸はざわめいていたから。 その人と出会うことで何かが起こるかもしれない。1620円のさらにその先の探検。具体的には想像できないけれど、いやむしろ想像を許さないほどの急展開。だって子供の頃読んだ物語はみんなそんな感じだった。いつもと違うことをすると、とんでもなく素晴らしいことがはじまる。みんな、そうだった。 ホームに上がり、やってきた快速電車に迷わず乗り込んだ。 さむい冷房車。スーツ姿の男が2,3人。私の向かいに座っていた。 滑り出すように電車が動き始める。慣れた風に車掌が次駅の名を告げる。 さあどんどん速度をあげてくれ。私を日常からさらってほしいんだ。 見なよ神様。今日の私は逃亡する権利を持っている。 えいやと注ぎ込んだ千円札2枚。遠く知らない街までの1620円。握り締める切符! 握りしめる切符。 握りしめる切符―― ――本当に変わるんだろうか。 こんな事で変わるんだろうか。私の生活は。 知らない土地に降り立ち、周りを見ても何もなくてまた帰ってくる自分を想像する。 たとえ誰かに会っても、特に何もおきないまま終わる一日を想像する。 ポケットに残るあと2枚の千円札を私は嫌悪している。 命綱のように日常の中へと続いている。 小説の中なら私は今すぐその千円札を窓の外へ投げ捨て、私の街に座り込んで動かない神様に向かってけらけら笑ってやるのに。ざまあ見ろって言ってやるのに。それができない。私にはできない。 だからきっと山なんだ。 1620円の行き先はきっと山なんだ。 行ったみんながみんな、結局そこに残れなくて日常へと帰って行くから。だからそこには誰もいない。街なんかない。山なんだ。 途端に気持ちがしおれていくのが分かる。 それは私の弱さだと、今朝ボタンを押した勇敢な私が叱咤する。 だから今はただ切符を握りしめている。 きっとこんな事がこれからも、生きていて何度も何度もあるのだろうと予感しながら。 順調に上がる速度。車窓から消えていく私の街。 私の不恰好な冒険の旅は、なんとかはじまろうとしている。 |
……ある夏の日の早朝。JR中央線車内でじっと切符を見つめている少女の声。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます