窓辺びより

毎日が平凡だなんてとんだ勘違い。カーテンを開けよう。ほら、今日も窓辺びより

(空想) 11/17

2010-11-17 21:54:42 | 空想

不忍通りの路面は雨で濡れている
歩道の傍らに群がる10人程度の野次馬
一人、痩せた男が携帯を握り締めたまま、ただ呆然としていた
僕はその男の隣で、血まみれの白いコートを着て電信柱にもたれている
道路の上には若い女の轢死体があった

轢死体の手前には男の運転していたワンボックスカーが停まっている
バンパーが外れ、車体前面が大きく凹んでいた

この男は何も悪くなかったのだ
突然女が歩道の手すりを乗り越えて車道に飛び出した
ただそれだけの事だ
そしてたまたまその瞬間、僕はそこに居合わせた
今僕の身なりは異様だが、それとて僕のせいではない

車から飛び出して事態を知った男は
すぐさま自分で警察と消防に電話をかけようとした
真面目で、気の弱そうな男で
声が震えて何も言葉が発せていなかった
僕は彼の携帯を奪い取り、警察と消防に事情を話した
自殺です、と強調して付け加えておいた
可哀想にこんな赤の他人のせいでこの男の人生は歪むのだろう
初めから自殺の線で捜査が進めば
少しは男の今後もましになるに違いない
せめてもの思いやりだ

それにしてもなんと酷い日々だろう!
仕事はどれ一つとしてうまく行かずやりがいも無く
同僚たちは最近影で互いの悪口を言い合っている
昔の友人はどれも皆成功して
たまの機会に一緒に飲めば
本人も悪気など毛頭無いのだろう
自然ななりで彼らは僕のことを見下してくる

ぱっとしない毎日を生きるだけでもうこりごりなのに
更にこんな事に巻き込まれるなんて!
自分が電話をかけた以上現場を去る訳に行かず
僕はふてくされた顔で血まみれコートのポケットに手を突っ込んでいる

この女には一体何があったのだろう
そんなに死にたくなるほど絶望していたのか?
「ぼんやりした不安」で死んだ作家が明治にいるじゃないか
そんな理由で死ななければならないなら
毎朝電車のホームの端は志願者の列でごった返すだろう

どうせしょうもない出来事の積み重ねに過ぎないんじゃないの?
死んでみたからって悲劇のヒロインなんて、馬鹿馬鹿しい
お前のせいでこの優しそうな男が一人、人生を狂わされるんだぞ

集まった野次馬達は案外静かだった
助かりそうな様子なら正義心ある人たちが応急処置などするのだろうが
助かりっこないのは一目瞭然だった
夜と雨のおかげで路面に散っているであろう血ははっきり見えなかった
ただ、野次馬に混じっていた数人の女子高生のうち一人がつぶやく
「人の体ってこんなに曲がっちゃうんだ」

はじめは呆然と立ち尽くしていた男は、次第に肩を小刻みに震わせはじめた
男の目は虚ろなまま、車道に向けられている
携帯電話を落としてもなお、男の目は少したりとも動かなかった

反対車線を、パトカーと救急車が走ってくる
やっと来たのか、とまた野次馬の中の誰かが言う
でもここは東京のど真ん中
きっと時間にすれば数分なのだ

そして警察や消防にとってみればごくありふれた事なのだ
一体この街で毎日何人が自殺するんだろう

案外その大半は死ぬほどでもない理由なんじゃないか
「ぼんやりした不安」で死んでいくんじゃないのか
何よ、それ
なんか、もう馬鹿馬鹿しいじゃない
生きるのも、死ぬのも
ぜんぶ
ぜーんぶ

次の瞬間、男はいきなり駆け出した
さっき女がしたのと同じように、歩道の手すりを乗り越えて
僕はその男のしようとする事が、その瞬間だけ手に取るように分かった

野次馬が途端に騒ぎ出す
「誰か止めて!」と誰かが叫ぶ

気付かぬうちに僕は駆け出していた
彼の後を追って、そして彼の腕をぐいと掴んだ
しかしそれは彼を引き止めるためではなかった
路上でためらい速度の落ちた彼を、逆に僕は反対車線まで引っ張っていた

どうしてどいつもこいつもすぐ死のうとするの?
さっきの女だってそうだ
そんなに生きたくない世の中なの?
そんなに世の中腐ってるの?

あはは、ホント馬鹿みたい
馬鹿みたいだわぁ
馬鹿みたいだわぁ……

パトカーの前を走るトラックが、迫っていた
急ブレーキをかけているが間に合わないだろう

背後で女子高生たちが悲鳴を上げた





僕にはもう、その後を知る術はない


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