最終時限。20:45。
路上から場内に到着し、一日の役目を終えた一台の教習車は車庫に入った。
エンジン音が止まって初めて安堵の表情を浮かべ、「ふーっ」と深く長い息を吐いたのは運転席の教習生Hくん。第一段階からずっと一緒に乗っているボクの第一担当だ。
彼は今日、無事に最短教習時限で修了検定、仮免学科試験に一発合格した。
ボクは運転席の彼に向かって喋り出した。
「Hくん、初路上お疲れ様。無事に生きて帰りついたな!」
それは、ボクが彼に言った初めての冗談だったのかもしれない。
ボクたちの関係は決して生ぬるいものでは無かった。
彼は第一段階は最初から最後まで苦労した。
彼は少しばかし不器用な所があったが、とても真面目なタイプだった。
だからボクも彼の頑張りに応えようといつも必死だった。
そして今回の夜間の初路上も勿論、気を抜くことは許されなかった。
今までお互いに冗談を言う余裕など無かったのだ。
「正直、キミは第一段階は延びてしまうかもしれないと思っていたよ。でも後半の巻き返しはすごかった。本当に良く頑張ったな。今日の初路上も最初はアクセルやブレーキの使い方が悪かったけど、帰る頃にはなかなかスマートに踏めていたよ。余裕のある、他者を意識した速度調節が出来ていた。細かい話と思うかもしれないけど、これはすごく大切なことなんだ。路上で大切なのは、車間距離や加減速を工夫していかに焦りを無くし、余裕をつくり、周りの車とうまく付き合うかだ。第二段階も細かいことを少しずつ良くしていって、ストレートで卒業まで行こうな。まぁとにかく今日は早く寝て、明日からもまた一緒に頑張ろう。」
ボクはいつものシリアスな表情に戻ってクールな口調でそう言った。
教習生が運転に余裕が無いのは当たり前のことだ。
しかし指導に余裕が無ければ、教習指導員失格だろう。
彼ばかりに余裕を求めるのはおかしな話だ。
明日からは焦らずに余裕のある教習をしよう。
そう自分に言い聞かせるように、ボクはクールな口調でそう言った。
そして教習原簿にハンコを押そうと、うしろポケットから教習印を取り出したその時だった。
「え!?…うわぁぁぁ!なんじゃこりゃあぁぁぁぁ~ッ!!」
薄暗い車庫内に大きな叫び声が響いた。
その声の主はボクだった。
取り出した教習印の先っぽに、マッタリとした茶色い物体がベットリと付着していたのだ。
もうどっからどう見てもウンコ。
色、艶、形、感触に至るまで、4拍子そろったウンコ。
お食事中の方には大変申し訳無いけどさーだって他に表現のしようが無いもん!
って逆ギレするくらいの絶対的なウンコ。絶望的なウンコ。
ハンコにウンコ付いてた。
え?え?
漏れたのか?
いつの間にか漏れていたというのか?
過労により体がおかしくなって、ウンコ漏らした事にさえ気付かなかったのか俺は!?
青ざめた。
今まで生きてきて、「俺は漏らしたことなど一度たりとも無い」と言ったら嘘になる。
イケメン俳優だって清純派アイドルだって、必ず漏らしてきてる。逆に言えば、漏らしたからこそ今がある。お漏らしは誰もが通る道であり、そして誰もが戻る道である。
確かにね、年を追う毎に、なんか緩くなってるな、というのは強く自覚していたし。
でもね、さすがにね、漏れた事に気付かないってのはまずい。昆虫とか魚類とかと同じ生態レベル。
ボクはこのまま死ぬんじゃないかと一瞬目の前が真っ暗になった。
さっきの余裕の話はどこ行った?ってくらい、ボクはパニックに陥っていた。
まずい!これはまずいぞ!
教習中にウンコを漏らす。それこそ教習指導員失格じゃないか。
とにかくHくんに気付かれないうちに、こっそり何かで拭い取ろうと思ってチラリと彼のほうを見たらね、Hくん、がっつり見てた。ボクの持つ教習印の先っぽをこれでもかってくらい凝視してらした。
で、その後は、名刺と間違えてロト7を差し出した柳葉を見る妻夫木くんみたいに「部長…」みたいな顔で、ボクの顔を恐る恐る見て来て目が合った。彼ね、脅えてた。何かが、音を立てて崩れていくのが聞こえた。
「いや、違うんだよ!」
多分、ボクはこの時、もの凄い怖い顔をして彼に言ったのだと思う。
浮気でも何でも、疑惑の目を向けられた男は取り合えずこう言う。こう言いながら必死で言い訳を考える。全然違わないのに。全然浮気してんのに。全然ウンコなのに。
で、どうしよどうしよどうしよって疲れた頭をフル回転させてたら、ある映像が浮かんできた。
さかのぼる事6時間前、ボクは教習所の売店にいた。
ペットボトルのジャスミン茶が空になったので、休憩時間の僅かな間にまた新しいジャスミン茶を買いに来ていた。これを切らすと
禁断症状が出るかもしれないんでね。
で、小腹が空いてたんでついでにその時お菓子をひとつ購入した。
急いでフタを開け、冷えたジャスミン茶を口に流し込み、さてお菓子を食べようかと外装を少し剥がした所で、教習開始の音楽が鳴り始めた。
うん、確かに、あの時咄嗟にうしろポケットに入れたね。
豆大福を。
うん、忙しくてうしろポッケに入れたまますっかり食べ忘れてました。豆大福。
うわー。やっちゃったなー。あれから6時間も教習車の助手席に座って揺られていたわけだから、もはや豆の部分もこしあんみてぇになってるかしら。と思って意を決してそろりとポッケに手を入れて確認してみたら、ボクの想像を遥かに超えた世界観がそこにはあった。グチャグチャヌチャリ!って。ホラー映画かエイリアン映画みてぇな、それはそれはおぞましい世界がすごいスケールで広がっていた。ボクのうしろポッケに。
それでもボクは平静を装って、先ずは動揺しているHくんを安心させなきゃだなと思い、すぐに事情を説明して誤解を解いた。
ほぉーら、もう大丈夫だよーって。
怖がらなくてもいいよー。って
ハンコのウンコはアンコだったよーって。
いやーしかし焦った焦った。ついに体がバカになったのかと本気で己の身を案じたよ。
まあ一番焦ったのはボクの横で固まっていたHくんの方だったと思うけど…。
「ほんと、ビックリさせてごめんねー!あははー!」
苦笑いしながらボクたちは教習車から降りた。
途端に爽やかな秋の夜風が車庫内を通り抜けていった。
この時初めてボクは背中に大量の汗をかいていたことに気付いた。
楽しみにしていた豆大福は台無しになっちゃうわポッケの中は餅とアンコでグチャグチャになっちゃうわで最悪な一日の終わりとなったけど、今日は彼の笑顔が沢山見れたんでまあ良しとするか。
背中の汗が次第に引いて行くのが分かった。
自然とボクも爽やかな気分になっていた。
ウチの教習所は教習の最初と最後に“アームハグ”といって握手をする決まりになってる。お互いの事を信頼し合い、讃え合うためだ。今日は彼といつもより力強く手を握ろう。そう思って「仮免合格本当におめでとう!お疲れ様でした!」とボクはぐっと手を差し伸べた。そしたら彼、
「あの…あれって本当にアンコだったんですよね…?」
って思いっきりアームハグをためらってらした。
Hくん、こんな余裕の無いボクだけど、明日からもどうかよろしくお願いします。