基本条例の名称が「(仮称)まちづくり基本条例」とされ、当然の如く、条文中にも「まちづくり」という言葉が使われており、用語の定義の中にも定められているようですが、一般的には都市計画とか施設などのハード面のイメージがあるかと思ひます。飛鳥田市政時代の横浜市のブレーンでもあった田村明氏によってソフト的な発想も出てきましたが、学術的にキチッと定義されたものではありません。
ポピュラーで親しみやすい言葉ですが、概念が模糊としています。そういった言葉を基本条例の柱とするのはどうかなと思います。自治基本条例の方がフィットしますね。
ま、それはさておき、
自治基本条例の制定が全国各地で始まっている。それらは市民と力を合わせて住み心地の良いまちを作ろうとする先進自治体の動向です。ようやく、「国家の地方団体」から「市民の自治政府」へと自らを脱皮する蠢きが自治体に生じてきた。それが「自治基本条例制定」の動向です。
憲法が定めている自治制度は二元代表の民主制度です。つまり「議決機関の議員」と「執行機関の長」を住民が直接選挙で選出します。自治基本条例はこの代表制度に「介入する」「対立する」のではないのか、という批判がありますが、そうではありません。自治基本条例は「代表制度を充実発展させる」のです。
首長と議会の代表権限は市民が信託した権限です。
したがって、首長・議会が信託に背反したときには「市民の信託解除権」の発動となる。すなわち「解職請求」と「選挙」です。選挙は信頼委託契約であって白紙委任ではない。これが「市民自治の論理」です。
ところが、首長や議員にも、行政職員にも、そして住民にも、旧来の「統治思想」が染み付いている。
例えば、選挙のときの演説や発言は民主主義ですが本心は「権威主義」で「白紙委任」の行動心理です。住民の側にも「お任せ」があります。選挙が終われば「市政に無関心」になります。議会で「どんなことが議論されているか」も知らない。議員も当選した後は「白紙委任」されたかのように行動して有権者への議会報告は少数。重大なことが「市民の知らないところで」決まっていく。
自治基本条例がなければどうなるのか。
きっと、その地域は衰退していくのでしょう。通達と補助金の中央政策に依存する時代は終わり、「解決しなければならない地域課題」が噴出しています。この地域課題を解決するには、住民が「自分たちが選んだ首長や議会がしっかりやっているかどうか」を制御する。これが不可欠に重要なことではないでしょうか。
市民が地域の未来を「お任せにしない」という意味は「市民が何事にも口を出す」ということではありません。それは「お任せの無関心」でなくて「市民制御(コントロール)です。首長や議員を「信頼しないで監視をする」というのでなく「信頼して一緒にやっていく」です。それが「市民自治」です。
これからは「地域の方々がまちの将来に関与するか否か」で「地域が良くなるかどうか」が決まります。自治体は多様な自治制度をつくりましたが「主体鈍磨」と「状況追随思考」が広がっています。旧来のやり方に従っているのが保身には有利だとの考え方が増えています。
憲法の原理は「市民自治」であるのですが現状は「統治支配」です。でありますから「市民自治」を明示した最高条例が必要になるのです。いくら「情報公開条例」を制定しても、行政職員には旧来の統治思想が根強くあります。統治思想とは住民は行政の客体であるとの考え方です。行政職員は役所内部では上下意識であり住民客体の統治行政です。住民の側にも権威従属意識が根強く残存し自治意識は劣弱です。
公務員は知らず知らずのうちに「自分達は行政の専門家である」「我々の裁量で処理してよいのだ」と考える「役人意識」が芽生えます。「自治制度」は作られても「市民と政治」「市民と行政」の関係は変わっていません。 ですから「市民参加」「市民と協働」と言っても言葉だけになりがちです。このようなことが「自治基本条例を制定する」の背景にあるのです。
自治基本条例の論議で「気をつけなければならないこと」は、条例は作ったが「機能しない」「働かない」になりはしないかです。それを考えながら論議しなければなりません。条例案を作文して議会で決議をすれば「自治基本条例」ができたと言えるのか、これが問題です。「制定手順」が重要です。いかにすれば基本条例が「自治体の憲法」としての「最高規範意識」を市民の心の内に醸成することができるかです。市民の心に「自分たちがつくった最高条例なのだ」との「規範意識」が伴わなければ「市民自治基本条例」とは言えません。
最大の問題は市民が基本条例を「最高条例」として受け入れるか否かです。
流行りだから制定するという○○市のような自治体も少なくはない。つまり基本条例の策定が目的になっています。 例えば、首長のマニヘストに諂った策定手順、あるいは、首長のお飾りのための基本条例づくり。そこには「市民と政治・行政の関係」を変革しようとする志しは見えません。
「最高規範の意識」を地域に醸成する工夫と実践こそが「自治制度創設」の営為であるのです。 「受動的な住民」から「能動的な市民」へ。これからの地域課題は地域の方々が地域の主人公にならなければ解決しません。「最高条例の規範意識」を醸成する才覚・工夫のない「自治基本条例の制定」は単なる作文行為です。市民自治力が高まらなければ自治基本条例は「絵に描いた餅」になります。残念ながら、全国各地の情況も「最高条例の規範意識」の醸成を避ける安直思考が漂っているように感じられます。
自治基本条例の制定に「賛成しない勢力・考え方」もあり得ます。
議員も行政職員も地域の方々にも伝統的な「統治・支配の考え方」が根強く浸透しています。市民参加、市民自治、自治体の自律、政策自立、自治制度、などは「言葉」では知っていても「統治の思想」が強固です。日常の慣例や手順それ自体が統治の思想で形成されているからです。
例えば「これまでのやり方でなぜいけないのか」との役所の管理職であったりもします。「地方自治法が改正されないと出来ない」と考えないで「自治基本条例でそれを定めてそのように運営する」で良いと思います。そのようにすることに何の問題があるのか、です。
もっと大きな抵抗勢力は地域の人々であるのかもしれません。「これまでのどこが悪いというのだ」との言い方です。「市民自治」とは「自分たちでルールを決める」「地域の未来を自分たちで決めて実行する」です。
でありますから、「自分自身の考え方」が変わらなくては「本当の自治基本条例」はつくれない。慣例や考え方を自覚的に克服しなければ「自治基本条例」はつくれないと考えることが大切です。
では「自分自身が変わる」とはどういうことか。
意識の革新、価値観の変革は自身の内部にいかにして生じるのかです。自身が辛い立場・切羽詰まった立場にならなければ人は変わらない。自分の意識と考え方は簡単には変わらない。
自分自身をも巧妙に欺くのが人間です。
自分が変わるというのはとても難しいことですね。ですから、挫折し逆境に立った人は「ものが見えてくる」と言います。人に出合って聴き自分も勉強して半歩前に出て「自身の価値観や習慣」を変えていく。それを通して「地域の変革」を考えることができるようになる。
その克服の過程こそが「市民自治基本条例を創る」営為です。
そしてまず何よりも、自治基本条例の問題意識を共有することです。ご自身がこれまで当然と思っていた考え方や価値観を問い直してみることが重要です。
ポピュラーで親しみやすい言葉ですが、概念が模糊としています。そういった言葉を基本条例の柱とするのはどうかなと思います。自治基本条例の方がフィットしますね。
ま、それはさておき、
自治基本条例の制定が全国各地で始まっている。それらは市民と力を合わせて住み心地の良いまちを作ろうとする先進自治体の動向です。ようやく、「国家の地方団体」から「市民の自治政府」へと自らを脱皮する蠢きが自治体に生じてきた。それが「自治基本条例制定」の動向です。
憲法が定めている自治制度は二元代表の民主制度です。つまり「議決機関の議員」と「執行機関の長」を住民が直接選挙で選出します。自治基本条例はこの代表制度に「介入する」「対立する」のではないのか、という批判がありますが、そうではありません。自治基本条例は「代表制度を充実発展させる」のです。
首長と議会の代表権限は市民が信託した権限です。
したがって、首長・議会が信託に背反したときには「市民の信託解除権」の発動となる。すなわち「解職請求」と「選挙」です。選挙は信頼委託契約であって白紙委任ではない。これが「市民自治の論理」です。
ところが、首長や議員にも、行政職員にも、そして住民にも、旧来の「統治思想」が染み付いている。
例えば、選挙のときの演説や発言は民主主義ですが本心は「権威主義」で「白紙委任」の行動心理です。住民の側にも「お任せ」があります。選挙が終われば「市政に無関心」になります。議会で「どんなことが議論されているか」も知らない。議員も当選した後は「白紙委任」されたかのように行動して有権者への議会報告は少数。重大なことが「市民の知らないところで」決まっていく。
自治基本条例がなければどうなるのか。
きっと、その地域は衰退していくのでしょう。通達と補助金の中央政策に依存する時代は終わり、「解決しなければならない地域課題」が噴出しています。この地域課題を解決するには、住民が「自分たちが選んだ首長や議会がしっかりやっているかどうか」を制御する。これが不可欠に重要なことではないでしょうか。
市民が地域の未来を「お任せにしない」という意味は「市民が何事にも口を出す」ということではありません。それは「お任せの無関心」でなくて「市民制御(コントロール)です。首長や議員を「信頼しないで監視をする」というのでなく「信頼して一緒にやっていく」です。それが「市民自治」です。
これからは「地域の方々がまちの将来に関与するか否か」で「地域が良くなるかどうか」が決まります。自治体は多様な自治制度をつくりましたが「主体鈍磨」と「状況追随思考」が広がっています。旧来のやり方に従っているのが保身には有利だとの考え方が増えています。
憲法の原理は「市民自治」であるのですが現状は「統治支配」です。でありますから「市民自治」を明示した最高条例が必要になるのです。いくら「情報公開条例」を制定しても、行政職員には旧来の統治思想が根強くあります。統治思想とは住民は行政の客体であるとの考え方です。行政職員は役所内部では上下意識であり住民客体の統治行政です。住民の側にも権威従属意識が根強く残存し自治意識は劣弱です。
公務員は知らず知らずのうちに「自分達は行政の専門家である」「我々の裁量で処理してよいのだ」と考える「役人意識」が芽生えます。「自治制度」は作られても「市民と政治」「市民と行政」の関係は変わっていません。 ですから「市民参加」「市民と協働」と言っても言葉だけになりがちです。このようなことが「自治基本条例を制定する」の背景にあるのです。
自治基本条例の論議で「気をつけなければならないこと」は、条例は作ったが「機能しない」「働かない」になりはしないかです。それを考えながら論議しなければなりません。条例案を作文して議会で決議をすれば「自治基本条例」ができたと言えるのか、これが問題です。「制定手順」が重要です。いかにすれば基本条例が「自治体の憲法」としての「最高規範意識」を市民の心の内に醸成することができるかです。市民の心に「自分たちがつくった最高条例なのだ」との「規範意識」が伴わなければ「市民自治基本条例」とは言えません。
最大の問題は市民が基本条例を「最高条例」として受け入れるか否かです。
流行りだから制定するという○○市のような自治体も少なくはない。つまり基本条例の策定が目的になっています。 例えば、首長のマニヘストに諂った策定手順、あるいは、首長のお飾りのための基本条例づくり。そこには「市民と政治・行政の関係」を変革しようとする志しは見えません。
「最高規範の意識」を地域に醸成する工夫と実践こそが「自治制度創設」の営為であるのです。 「受動的な住民」から「能動的な市民」へ。これからの地域課題は地域の方々が地域の主人公にならなければ解決しません。「最高条例の規範意識」を醸成する才覚・工夫のない「自治基本条例の制定」は単なる作文行為です。市民自治力が高まらなければ自治基本条例は「絵に描いた餅」になります。残念ながら、全国各地の情況も「最高条例の規範意識」の醸成を避ける安直思考が漂っているように感じられます。
自治基本条例の制定に「賛成しない勢力・考え方」もあり得ます。
議員も行政職員も地域の方々にも伝統的な「統治・支配の考え方」が根強く浸透しています。市民参加、市民自治、自治体の自律、政策自立、自治制度、などは「言葉」では知っていても「統治の思想」が強固です。日常の慣例や手順それ自体が統治の思想で形成されているからです。
例えば「これまでのやり方でなぜいけないのか」との役所の管理職であったりもします。「地方自治法が改正されないと出来ない」と考えないで「自治基本条例でそれを定めてそのように運営する」で良いと思います。そのようにすることに何の問題があるのか、です。
もっと大きな抵抗勢力は地域の人々であるのかもしれません。「これまでのどこが悪いというのだ」との言い方です。「市民自治」とは「自分たちでルールを決める」「地域の未来を自分たちで決めて実行する」です。
でありますから、「自分自身の考え方」が変わらなくては「本当の自治基本条例」はつくれない。慣例や考え方を自覚的に克服しなければ「自治基本条例」はつくれないと考えることが大切です。
では「自分自身が変わる」とはどういうことか。
意識の革新、価値観の変革は自身の内部にいかにして生じるのかです。自身が辛い立場・切羽詰まった立場にならなければ人は変わらない。自分の意識と考え方は簡単には変わらない。
自分自身をも巧妙に欺くのが人間です。
自分が変わるというのはとても難しいことですね。ですから、挫折し逆境に立った人は「ものが見えてくる」と言います。人に出合って聴き自分も勉強して半歩前に出て「自身の価値観や習慣」を変えていく。それを通して「地域の変革」を考えることができるようになる。
その克服の過程こそが「市民自治基本条例を創る」営為です。
そしてまず何よりも、自治基本条例の問題意識を共有することです。ご自身がこれまで当然と思っていた考え方や価値観を問い直してみることが重要です。