ちょっと風邪でダウン。
ガンダムAGE最終回見ました。
やたらまた叩かれていたのですが。
これとか、ドラクエ10もそうで
不景気だから、新しいのを出しても誰も見ない。
確実に数字の取れるブランドタイトルだと手堅い、と上が言い
ファンは「昔の熱さ」を期待して、
作り手はそれでも「自分らは新しいものを作りたいし、自分等の声を手放すなら
もうそれは表現でなく、ただの生産と消費」
そんなミスマッチが現場にあります。
更に、ファンというのはどこもデリケートで
大人の事情よりは、理想を求めたり。
ブログを書きながら思うのですけど
昔、創作概論の先生がしょっちゅう「何を書くかでなくて、何を書かざるか」だと言っていたのがよくわかります。
ブログにツイッター、人は便利なツールのおかけで便利にも饒舌にもなりましたが
その反面、不特定多数の数に監視され、絡み合わないどころか気分が悪ければすぐに去ってよい、というふうに
人間関係もサービスになってしまいました。
そうすると表現も、結局は何を考え、自分はどう思うかよりは
大多数がどう言えば気に入るのか、単なるサービスになってしまいます。
多くの人が、戦争しようと意気込んでいる時、与謝野晶子みたいに「君死に給う事なかれ」と言えるのかどうか。
今なら、与謝野晶子のフォロワーがガーッと減るとか、炎上するんじゃないかな、なんて思ってました。
ガンダムAGE
あんまりモビルスーツにマニアックに詳しくないので、メカに関しての楽しさは皆無でしたが
3世代に渡って描かれたこの世界の物語は
フリット1人の孤独な戦いを描いていた気がします。
それも、自分ではとても美しいと思っている正義があって
仮に自分は本当にそれで良かったのか揺らいでしまっては
今までの全てがゼロになる。
例えば父のアセムが飲んだくれてアル中になるまでグレて落ちぶれてるとか
嫁が「この結婚は失敗だったわ。お金はあっても幸せじゃない」と愚痴るとか
ちょいダークな部分があっても面白かったかなとも思いますが
…それはあくまで大人の私の個人的意見だからね…。
物語に、成功/不成功はないのです。
ただ、時と場合によって人の方が成功/不成功の認定をしてしまう。
この物語が、商業的サービスの裏をかいたサブカルとしてのサービス(例えば「銀魂」のような)
をやっていたなら、批判もひどくなかったのかも。
結局はそれもまたサービスなのかもしれないけど
認めていいもの、認めたくないものがあって
物語に対して「これは失わずにいてほしい」という、純粋な部分が
あるんですよ、多分。
これはそういう物語にすぎない。けれど受け取る側がいろんなものを期待してしまう。
自分の理想、自分の正義、そういうものが大活躍できる舞台を望んでしまう。
宇宙はあんなにも広いのに、コクピットはなんであんなに狭いんでしょう。
人間同士の絡みをさらりとやりすぎているので
なんだか、すぐ人が死ぬけど誰だったか…というかんじはしました。
ドラマを求める側は、未だけっこうアナログなものを求めてしまうのかもしれません。
これ、「ガンダム」の枠でなかったら
ちゃんと描くとけっこういけたテーマではあったと思います。
最初に、「ガンダムだからできる事」もあったとは思いますが
ガンダムでないからできる部分も見てみたいかも。
ガンダムはガンダムとして「サービス」しなきゃいけない。
既得ファンを利用する時のお約束、それは「新しい事をやってはいけない」
のかもしれませんね…
脚本の中に、大人から今の子供達へのメッセージかなと受け取れる部分もありました。
それが心に残るありがたい言葉になるのか
「大きなお世話だ」になるのかは
これまた、受け取る側かもしれないし。
サービス化してしまったものは、もう表現にはならない。
なぜなら、サービスにおいては、お客様が不快に思われる事は全て失敗になるわけですが
表現、影響力というのは「全ての人を満足させるもの」とは真逆で
自分の意志を貫いた時から、多くの人に「もうやめようよ」と言われるのを覚悟しなきゃいけないのかも。
私は特にガンダムはファンでもアンチでもないので、「それはそれ」ですけど
一方向のバイアス力かかってると、「多くの人が叩いているのに」認めれば敵とみなすだろうし
客観的に何か言えば「だったら語るな」と口を封じるだろうし
ネガティブな時って、やる事なす事イライラするので、
みんなでイジメのように何かを叩いて盛り上がるって、それはそれですごく楽しいんですよね…。
そんな中で表現でなく「サービス」って難しい。本当に。
1年間お疲れだったなと思います。
ガンダムAGE最終回見ました。
やたらまた叩かれていたのですが。
これとか、ドラクエ10もそうで
不景気だから、新しいのを出しても誰も見ない。
確実に数字の取れるブランドタイトルだと手堅い、と上が言い
ファンは「昔の熱さ」を期待して、
作り手はそれでも「自分らは新しいものを作りたいし、自分等の声を手放すなら
もうそれは表現でなく、ただの生産と消費」
そんなミスマッチが現場にあります。
更に、ファンというのはどこもデリケートで
大人の事情よりは、理想を求めたり。
ブログを書きながら思うのですけど
昔、創作概論の先生がしょっちゅう「何を書くかでなくて、何を書かざるか」だと言っていたのがよくわかります。
ブログにツイッター、人は便利なツールのおかけで便利にも饒舌にもなりましたが
その反面、不特定多数の数に監視され、絡み合わないどころか気分が悪ければすぐに去ってよい、というふうに
人間関係もサービスになってしまいました。
そうすると表現も、結局は何を考え、自分はどう思うかよりは
大多数がどう言えば気に入るのか、単なるサービスになってしまいます。
多くの人が、戦争しようと意気込んでいる時、与謝野晶子みたいに「君死に給う事なかれ」と言えるのかどうか。
今なら、与謝野晶子のフォロワーがガーッと減るとか、炎上するんじゃないかな、なんて思ってました。
ガンダムAGE
あんまりモビルスーツにマニアックに詳しくないので、メカに関しての楽しさは皆無でしたが
3世代に渡って描かれたこの世界の物語は
フリット1人の孤独な戦いを描いていた気がします。
それも、自分ではとても美しいと思っている正義があって
仮に自分は本当にそれで良かったのか揺らいでしまっては
今までの全てがゼロになる。
例えば父のアセムが飲んだくれてアル中になるまでグレて落ちぶれてるとか
嫁が「この結婚は失敗だったわ。お金はあっても幸せじゃない」と愚痴るとか
ちょいダークな部分があっても面白かったかなとも思いますが
…それはあくまで大人の私の個人的意見だからね…。
物語に、成功/不成功はないのです。
ただ、時と場合によって人の方が成功/不成功の認定をしてしまう。
この物語が、商業的サービスの裏をかいたサブカルとしてのサービス(例えば「銀魂」のような)
をやっていたなら、批判もひどくなかったのかも。
結局はそれもまたサービスなのかもしれないけど
認めていいもの、認めたくないものがあって
物語に対して「これは失わずにいてほしい」という、純粋な部分が
あるんですよ、多分。
これはそういう物語にすぎない。けれど受け取る側がいろんなものを期待してしまう。
自分の理想、自分の正義、そういうものが大活躍できる舞台を望んでしまう。
宇宙はあんなにも広いのに、コクピットはなんであんなに狭いんでしょう。
人間同士の絡みをさらりとやりすぎているので
なんだか、すぐ人が死ぬけど誰だったか…というかんじはしました。
ドラマを求める側は、未だけっこうアナログなものを求めてしまうのかもしれません。
これ、「ガンダム」の枠でなかったら
ちゃんと描くとけっこういけたテーマではあったと思います。
最初に、「ガンダムだからできる事」もあったとは思いますが
ガンダムでないからできる部分も見てみたいかも。
ガンダムはガンダムとして「サービス」しなきゃいけない。
既得ファンを利用する時のお約束、それは「新しい事をやってはいけない」
のかもしれませんね…
脚本の中に、大人から今の子供達へのメッセージかなと受け取れる部分もありました。
それが心に残るありがたい言葉になるのか
「大きなお世話だ」になるのかは
これまた、受け取る側かもしれないし。
サービス化してしまったものは、もう表現にはならない。
なぜなら、サービスにおいては、お客様が不快に思われる事は全て失敗になるわけですが
表現、影響力というのは「全ての人を満足させるもの」とは真逆で
自分の意志を貫いた時から、多くの人に「もうやめようよ」と言われるのを覚悟しなきゃいけないのかも。
私は特にガンダムはファンでもアンチでもないので、「それはそれ」ですけど
一方向のバイアス力かかってると、「多くの人が叩いているのに」認めれば敵とみなすだろうし
客観的に何か言えば「だったら語るな」と口を封じるだろうし
ネガティブな時って、やる事なす事イライラするので、
みんなでイジメのように何かを叩いて盛り上がるって、それはそれですごく楽しいんですよね…。
そんな中で表現でなく「サービス」って難しい。本当に。
1年間お疲れだったなと思います。