文藝春秋オピニオン
「2021年の論点100」
に、作家の佐々木俊尚さんの「Twitter15年 自由で公正な言論空間は実現したのか」
という記事が載っています。
丁度、町田市の自由民権資料館から
「紀要 自由民権34」を送ってもらいまして、合わせて読んでいました。
明治期に福地源一郎が新聞に何を求めたか。
もちろん正しくスピーディーな情報もありますが、それ以上に、福地は新聞を自由な言論の場として、多くの人が参加する事を目指しました。
福地は一見して官の側の人に見えますが、
まずは政府広報としてでも新聞の地位を向上させたい気持ちはあったと思います。
そんな時代から130〜140年位。21世紀の我々は確かに、
自由なツールを手にしたかにみえます。
佐々木俊尚さんの意見は、Twitterは玉石混交であり、
今この巨大な言論空間は2つの世界に分離しつつある、
使い方次第では冷静で真っ当な議論の場になる可能性もあるが、一方で罵声の応酬にもなる、
「それはあなたがTwitterをどう見てどう参加しているかによる」
だ、そうです。
自由な天国か修羅場か?
私はどう捉えるか。ならば書きますが、あれは2(5)ちゃんねるの掲示板より劣るのではないかと思います。
なぜならまず、議論するにもテーマ、論題が無い。ハッシュタグ?
他のツイートとの差別化はどうすれば。
別アカウント?
(いくつアカウント作らせる気だ)
日々膨大な知識は流れてきます。雑学知識なら私も負けじと流せます。
もしくは推しの宗教画、個人創作のリンク…
Twitterは今何しているかの報告から、15年経過してすっかり個人広告の場になりました。
私は仕事で広告を手掛けてますが、広告に論点を求めるのはお門違いです。政治的なプロパガンダでもない限りはありえません。
広告に議論はあってはならない。
一方的に、「よいサービスを提供します」以外無いのです。
全て、好かれない広告は広告として失格です。早い話、買います、以外の意見を持たれちゃ困るわけ。
その「広告として機能すべし」という仕組みがTwitterにあります。
いいねのボタン、RTのボタン、それから
気に入らないならブロック、リムるという仕組みです。
しかしそれは一方で、人を脅します。
お前余計な事を言ってみろ、気に入らないなら、即さようならだ
だとしたら。
そんな脅迫は自由な議論の場にはあってはならないじゃないですか。気に入らない商品のチラシならば捨ててかまわない。
けれど、意思という中身をもち、何らかについて考える人の言葉をポイポイ捨てていれば、人は考える事自体やめていくのではないかと思います。
そりゃ白痴化しますわな。
Twitterでは。
日常マッタリを共有する所で、政治論なんかは嫌でしょう。
「あ、この人面倒な人だな」でしょうよ。
日本人は日常の場で政治的な考えを語ったりすると嫌われがちで、仲良く場を保ちたいなら常に感覚的でいるべきなのです。
その前提には、明治のジャーナリストも苦労しています。
考えを言い、特に争っているつもりはなくても、140字の制限の中では見る側にはイライラしているのかと勘違いされがちでしょうし、
何より
難読漢字や専門用語、横文字を多用した文体よりは、ひらがなで
ラーメンたべたよー
ぬこかわいい♡
おしがてぇてぇ
描きましたー
などとやってる方がよほど
穏やかな安心感の共有さえあればよいという場、
Twitterでは効果的なんではないですか。
あれを議論の場にするには、公式が
いいねを非表示にしない限りムリです。
数を稼いだ意見が常に正しい、正義であり、支持されない意見は言う事すら阻まれる、
そのどこが自由な場なんだろう。
結論、自分としては
議論の場にはしてません。できそうにないから。
まあ、全てがTwitterで賄えるようなら
オフで本出すとかやってないです。