松家の話をしたついでに、東京大学の野球選手の話をしましょう。
今年の松家の入団で、東大出身のプロ野球選手は通算で5人。
新治伸治(小石川高、昭和40年大洋入団)
井出峻(新宿高、昭和41年中日入団)
小林至(多摩高、平成3年ロッテ入団)
遠藤良平(筑波大附高、99年日本ハム入団)
の4人と、今年の松家卓弘(高松高)
の計5人です。
過去の四人はいずれもプロでは花開くことなく引退しています。松家投手はどうなるのでしょうか。
さて、ここで問題です。東大野球部史上、六大学リーグ戦での通算勝ち星第一位は誰でしょう。
答えは、岡村甫(はじめ)の17勝。
この17勝という数字を見て、みなさんはどう思いましたか?多いか、少ないか。
参考までに、他大学の最多勝利投手を挙げてみましょう。
早稲田 末吉俊信 44勝
慶應 宮武三郎 38勝
明治 藤本英雄 34勝
法政 山中正竹 48勝(リーグ最多)
立教 杉浦忠 36勝
上に挙げた投手たちと較べると岡村の17勝はいかにも頼りないもののようですが、戦力補強のできない東大ということを考えるとその価値は倍以上だと言えます。
岡村が東大に入学したのは昭和32年のことです。高知県の名門土佐高校から現役で工学部に合格しました。身長は170cm、体重59kg。野球選手としては身長は、ともかく相当細身の選手だといえます。彼は下手投げで、ホップする直球とシンカー、今で言うSFFを駆使して大活躍しました。
近藤唯之の「背番号の消えた人生」の大橋勲の章に岡村のエピソードが出てきます。大橋は土佐高で岡村の二級下、卒業後は慶應大から巨人に進んだ捕手です。
岡村が野球部に入部したのは高校三年になってから。なぜ急に入部したのかというと、なんと二年までで勉強を終え、東大合格間違いなしという学力に至ったからだそうです。そんな秀才岡村の学習のコツを盗もうと、大橋らが岡村の授業風景を観察したところ、岡村は机の上に教科書もノートも出さずに、話を聴いているともいないともとれる表情で黒板の方を眺めていました。むろんこれでは参考になるはずもありません。
そして、現実に岡村は現役で東大に合格しています。大橋らの間では、岡村は生きながらにして伝説の人だったそうです。
松尾俊二「神宮へ行こう」には、岡村伝説とは違った岡村のキャラクターが紹介されています。土佐高1年のときに岡村は一度入部した野球部を退部してしまいます。「練習に耐える自信がない」とのことでした。その後彼は3年次に再入部したというものです。
その後、岡村の噂を聞いた東大神田順二監督の誘いで東大に入学します。神田は、体力のない岡村を変則投法で育てるために、東大OBで当事日立製作所のエースだった蒲池信二に弟子入りさせます。
こうして素質が開花した岡村は毎シーズン勝ち星を挙げる活躍をします。その中でも、昭和32年秋に早稲田から野球部結成以来初の勝ち点を奪った活躍が特筆されます。
小柄で細身、体力の差をテクニックと努力で埋めた秀才。水島新司の名作「ドカベン」に登場する明訓高校の下手投げエース里中智は「小さな大投手」と呼ばれていますが、現実の野球界ではこの岡村甫こそ「小さな大投手」の名に相応しい投手でしょう。
私は以前、ひょんなことから元東映の捕手の種茂雅之さん(静岡高→立教大)に直接お話を伺う機会がありました。そのときに種茂さんは、岡村投手について「球が速いわけではなかったが打ちづらい投手だった」と振り返っていました。当時のライバル校の選手から見ても、岡村は小さな大投手だったのです。
松尾氏の著書によると、大学卒業後の岡村は学問の道を歩んだそうです。土木工学を専攻し、特にコンクリート開発の分野では日本を代表する学者とのことです。研究をする一方で、野球部の監督も務めました。東大工学部の教授になり、後に地元高知の高知工科大の教授、副学長になりました。
さて、岡村が今何をしているのかというと、彼はなんと学長になっています。
高知工科大学 岡村甫
努力する秀才「岡村伝説」はまだまだ健在のようです。
今年の松家の入団で、東大出身のプロ野球選手は通算で5人。
新治伸治(小石川高、昭和40年大洋入団)
井出峻(新宿高、昭和41年中日入団)
小林至(多摩高、平成3年ロッテ入団)
遠藤良平(筑波大附高、99年日本ハム入団)
の4人と、今年の松家卓弘(高松高)
の計5人です。
過去の四人はいずれもプロでは花開くことなく引退しています。松家投手はどうなるのでしょうか。
さて、ここで問題です。東大野球部史上、六大学リーグ戦での通算勝ち星第一位は誰でしょう。
答えは、岡村甫(はじめ)の17勝。
この17勝という数字を見て、みなさんはどう思いましたか?多いか、少ないか。
参考までに、他大学の最多勝利投手を挙げてみましょう。
早稲田 末吉俊信 44勝
慶應 宮武三郎 38勝
明治 藤本英雄 34勝
法政 山中正竹 48勝(リーグ最多)
立教 杉浦忠 36勝
上に挙げた投手たちと較べると岡村の17勝はいかにも頼りないもののようですが、戦力補強のできない東大ということを考えるとその価値は倍以上だと言えます。
岡村が東大に入学したのは昭和32年のことです。高知県の名門土佐高校から現役で工学部に合格しました。身長は170cm、体重59kg。野球選手としては身長は、ともかく相当細身の選手だといえます。彼は下手投げで、ホップする直球とシンカー、今で言うSFFを駆使して大活躍しました。
近藤唯之の「背番号の消えた人生」の大橋勲の章に岡村のエピソードが出てきます。大橋は土佐高で岡村の二級下、卒業後は慶應大から巨人に進んだ捕手です。
岡村が野球部に入部したのは高校三年になってから。なぜ急に入部したのかというと、なんと二年までで勉強を終え、東大合格間違いなしという学力に至ったからだそうです。そんな秀才岡村の学習のコツを盗もうと、大橋らが岡村の授業風景を観察したところ、岡村は机の上に教科書もノートも出さずに、話を聴いているともいないともとれる表情で黒板の方を眺めていました。むろんこれでは参考になるはずもありません。
そして、現実に岡村は現役で東大に合格しています。大橋らの間では、岡村は生きながらにして伝説の人だったそうです。
松尾俊二「神宮へ行こう」には、岡村伝説とは違った岡村のキャラクターが紹介されています。土佐高1年のときに岡村は一度入部した野球部を退部してしまいます。「練習に耐える自信がない」とのことでした。その後彼は3年次に再入部したというものです。
その後、岡村の噂を聞いた東大神田順二監督の誘いで東大に入学します。神田は、体力のない岡村を変則投法で育てるために、東大OBで当事日立製作所のエースだった蒲池信二に弟子入りさせます。
こうして素質が開花した岡村は毎シーズン勝ち星を挙げる活躍をします。その中でも、昭和32年秋に早稲田から野球部結成以来初の勝ち点を奪った活躍が特筆されます。
小柄で細身、体力の差をテクニックと努力で埋めた秀才。水島新司の名作「ドカベン」に登場する明訓高校の下手投げエース里中智は「小さな大投手」と呼ばれていますが、現実の野球界ではこの岡村甫こそ「小さな大投手」の名に相応しい投手でしょう。
私は以前、ひょんなことから元東映の捕手の種茂雅之さん(静岡高→立教大)に直接お話を伺う機会がありました。そのときに種茂さんは、岡村投手について「球が速いわけではなかったが打ちづらい投手だった」と振り返っていました。当時のライバル校の選手から見ても、岡村は小さな大投手だったのです。
松尾氏の著書によると、大学卒業後の岡村は学問の道を歩んだそうです。土木工学を専攻し、特にコンクリート開発の分野では日本を代表する学者とのことです。研究をする一方で、野球部の監督も務めました。東大工学部の教授になり、後に地元高知の高知工科大の教授、副学長になりました。
さて、岡村が今何をしているのかというと、彼はなんと学長になっています。
高知工科大学 岡村甫
努力する秀才「岡村伝説」はまだまだ健在のようです。