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武士は食はねど高楊枝

主に野球のことを書きます。時事ネタ、軽い話題から、自分なりに研究した野球史の話題…。たまに出る野球以外の話題も注目です!

小さな大投手

2005年03月16日 02時52分31秒 | 野球 昔話
松家の話をしたついでに、東京大学の野球選手の話をしましょう。
今年の松家の入団で、東大出身のプロ野球選手は通算で5人。

新治伸治(小石川高、昭和40年大洋入団)
井出峻(新宿高、昭和41年中日入団)
小林至(多摩高、平成3年ロッテ入団)
遠藤良平(筑波大附高、99年日本ハム入団)

の4人と、今年の松家卓弘(高松高)
の計5人です。
過去の四人はいずれもプロでは花開くことなく引退しています。松家投手はどうなるのでしょうか。

さて、ここで問題です。東大野球部史上、六大学リーグ戦での通算勝ち星第一位は誰でしょう。
答えは、岡村甫(はじめ)の17勝。
この17勝という数字を見て、みなさんはどう思いましたか?多いか、少ないか。
参考までに、他大学の最多勝利投手を挙げてみましょう。

早稲田 末吉俊信 44勝
慶應  宮武三郎 38勝
明治  藤本英雄 34勝
法政  山中正竹 48勝(リーグ最多)
立教  杉浦忠  36勝

上に挙げた投手たちと較べると岡村の17勝はいかにも頼りないもののようですが、戦力補強のできない東大ということを考えるとその価値は倍以上だと言えます。

岡村が東大に入学したのは昭和32年のことです。高知県の名門土佐高校から現役で工学部に合格しました。身長は170cm、体重59kg。野球選手としては身長は、ともかく相当細身の選手だといえます。彼は下手投げで、ホップする直球とシンカー、今で言うSFFを駆使して大活躍しました。

近藤唯之の「背番号の消えた人生」の大橋勲の章に岡村のエピソードが出てきます。大橋は土佐高で岡村の二級下、卒業後は慶應大から巨人に進んだ捕手です。
岡村が野球部に入部したのは高校三年になってから。なぜ急に入部したのかというと、なんと二年までで勉強を終え、東大合格間違いなしという学力に至ったからだそうです。そんな秀才岡村の学習のコツを盗もうと、大橋らが岡村の授業風景を観察したところ、岡村は机の上に教科書もノートも出さずに、話を聴いているともいないともとれる表情で黒板の方を眺めていました。むろんこれでは参考になるはずもありません。
そして、現実に岡村は現役で東大に合格しています。大橋らの間では、岡村は生きながらにして伝説の人だったそうです。

松尾俊二「神宮へ行こう」には、岡村伝説とは違った岡村のキャラクターが紹介されています。土佐高1年のときに岡村は一度入部した野球部を退部してしまいます。「練習に耐える自信がない」とのことでした。その後彼は3年次に再入部したというものです。
その後、岡村の噂を聞いた東大神田順二監督の誘いで東大に入学します。神田は、体力のない岡村を変則投法で育てるために、東大OBで当事日立製作所のエースだった蒲池信二に弟子入りさせます。
こうして素質が開花した岡村は毎シーズン勝ち星を挙げる活躍をします。その中でも、昭和32年秋に早稲田から野球部結成以来初の勝ち点を奪った活躍が特筆されます。

小柄で細身、体力の差をテクニックと努力で埋めた秀才。水島新司の名作「ドカベン」に登場する明訓高校の下手投げエース里中智は「小さな大投手」と呼ばれていますが、現実の野球界ではこの岡村甫こそ「小さな大投手」の名に相応しい投手でしょう。

私は以前、ひょんなことから元東映の捕手の種茂雅之さん(静岡高→立教大)に直接お話を伺う機会がありました。そのときに種茂さんは、岡村投手について「球が速いわけではなかったが打ちづらい投手だった」と振り返っていました。当時のライバル校の選手から見ても、岡村は小さな大投手だったのです。

松尾氏の著書によると、大学卒業後の岡村は学問の道を歩んだそうです。土木工学を専攻し、特にコンクリート開発の分野では日本を代表する学者とのことです。研究をする一方で、野球部の監督も務めました。東大工学部の教授になり、後に地元高知の高知工科大の教授、副学長になりました。
さて、岡村が今何をしているのかというと、彼はなんと学長になっています。
高知工科大学 岡村甫
努力する秀才「岡村伝説」はまだまだ健在のようです。

天覧本塁打

2005年02月09日 23時33分22秒 | 野球 昔話
NHK総合「その時歴史が動いた」を見た。今日二月九日は長嶋茂雄の天覧ホームランであった。野球の特集というだけでつい見てしまう。
長嶋茂雄
むろん僕は長嶋の現役時代など見ていないが、話に聞くだけでゾクゾクしてくる。生まれながらのスター体質なのであろう。天皇陛下御観戦の試合で、サヨナラ本塁打を打ってしまう。ただの野球の天才ではない。
今長嶋本人は病気療養中だが、心から回復を祈ります。そしてまた、誰にもまねのできない天然ボケを見せてほしい。僕が今まで見た芸人で一番おもしろいのもチョーさんではなかろうか。インフルエンザのことをインフレ、インフレと連呼していたあなたは立教大学経済学部経営学科の卒業生。おもしろかったなあ。
復活したときには、もうあの天然ボケも笑えなくなっちゃうのかな。

戦後日本の国民的スターといえば、美空ひばり、長嶋茂雄、田中角栄ではないでしょうか。もちろん僕は誰の全盛期も見ていません。
長嶋茂雄は、プロスポーツ選手としては最上位にいる人です。また後日、プロスポーツ選手のあり方について、語る機会を設けたいと思います。
今回は軽いジャブです。

大投手 沢村栄治

2005年02月02日 22時45分27秒 | 野球 昔話
いまさら書くのも気が引けるが、昨日二月一日は、沢村栄治の生誕の日である。
http://www.ffortune.net/social/people/nihon-mei/sawamura-eizi.htm

今の若い人は知らないかもしれないが、沢村栄治とは、プロ野球創設(*1)の伝説的人物である。
とは言うものの、死後すでに半世紀が経過した今となっては、その雄姿を知るものもほとんど残っていないだろう。
そして、最近のファンの風潮として、沢村伝説への反論が勢力を増しているように思う。当時の球界はレベルが低いから、沢村程度の選手でも大投手になれたのだという。


私がここで言いたいのは、沢村伝説の真偽ではない。沢村の球界にたいする一番の貢献は、その実力以上に、残した伝説そのものにある。
沢村が米大リーグ選抜相手に見せた一世一代の快投が職業野球の歴史の1ページ目である。欧米諸国に追いつき追い越せが近代日本のコンセプトであるから、実際にアメリカの象徴であるベーブ・ルースから三振を奪った沢村の名はその時代における日本人の夢を現実に投影したものであった。その後も沢村は巨人軍のエースとして活躍し、そして、例の大戦で帰らぬ人となった。
そのような沢村の伝説が人から人へ伝わることで現存のプロ野球組織は日本野球の正統の系譜に連なったのである。

ここまで簡単に私の考えを書いてみたが、言葉足らずなせいかなかなか理解していただけないと思う。伝説といったって結局嘘っぱちじゃ仕方あるまいという人が少なからずいるだろう。

大切なのは事実ではなく、心の事実であるとは、誰が言ったことであろう。私は田恆存の本で読んだと思うが、たしかその本の中での引用は丸山真男だった。その本の中で、田が主張していたのは、戦後一時期祝日から外れていた紀元節(建国記念日)についてである。
当時、紀元節のような旧態依然としたものは排除して、新しい日本を造りましょうという論者が多くいて、それらの言うには、実際に二月十一日が建国の日かどうか疑わしいから認めないというものであった。
それに対する田の反論が、事実よりも心の事実である。二月十一日を建国の日だという共通の意識を持って代々の国民はこの国を造ったのである。二月十一日が建国の日であるかないかはこの際問題ではなく、それを信じて造られた国の歴史を大事にしようというものであった。

日本の話だとまた卑屈な輩が文句を言い出すだろうから、キリスト教で考えてみてもよい。クリスマスは、キリスト教圏最大の祝日である。そもそもなぜクリスマスがめでたいのかというと、その日がキリストの誕生日とされていたからである。クリスマスをめでたいと思う共通認識を持った人たちが、現在まで続くキリスト教の歴史を築いたのである。しかし今ではキリストの生誕の日がクリスマスでないことがわかっているし、紀元前にすでに生まれていたこともわかっている。
だが、クリスマスや西暦が前後にずれることはなかった。

それが歴史なのだと思う。キリストの生誕の日は、事実のレベルではなく意識のレベルの話なのである。紀元節も同様である。

そして、沢村栄治の伝説も全く同じものであると私は思う。沢村が何をしたかという事実も興味深いことではあるが、沢村の伝説が日本プロ野球界の歴史をリードしたことが何より重要なことではなかろうか。


今日の話は、今後いろんな方向に延ばしていこうと思う。日本野球論にもつながるし、読売史観の話もしたいし…。

(*1)プロ野球創設:実際には、巨人以前にプロ野球チームがあったのだが、今ではほとんど忘れられている。そのうちネタにするかもしれない。このあたりは読売史観との関連で書きたい。