アマチュア哲学者で

日記か評論か意見表明か感想文かノンフィクションかエッセイか暇つぶしのレポートか

革命を捨象する

2024年08月15日 23時22分42秒 | 日記
 午後8時にいたり、ついにこの存在が面白くなくなった。連休もあと4日間だ。直後3連日勤労がひかえている。この人生が腐っているようなすえた匂い。ほとんど何もかもに飽きている。どこにも情熱がわかない。
 漢詩も英詩も小説も一生懸命に関われない。
 わかった。要するに感じ方と考え方の問題なのだ。その感じ方を真実としない。その感じをとりあえず、偽りとして考え方をあらためる。感じの真実を他のところに求める。その感じ方は真実とはされない。これは宗教信仰と同じ心理操作だ。その時の感情と感覚は二の次で、生きる価値のある永続的な理知性が支配しなければならない。
 ぼくの場合、エチルアルコールを飲むしか救いの道がなかった。現在では日本革命は捨象されている。しかしあきらめるべきではないのはわかりきっている。
 

2024/08/16

2024年08月15日 21時35分23秒 | 日記
 

政治の脱構築

2024年07月29日 21時52分42秒 | 日記
 政治を脱構築する。すべてのことを脱構築する、これが哲学的立場となる。とりわけ政治活動を脱構築しないと現状維持が続く。選挙も脱構築しないと既成政党をのりこえられない。むしろ既成政党と候補者の選挙活動が脱構築するのを奨めたい。
 現代日本の社会構造を脱構築する。この硬い構造を崩さないと元のままである。プロの哲学者は脱構築を哲学プロパーだけで述べている。それが専門バカの愚かなところだ。
 この概念を文字どおり世界に普遍化現実化する。新しい政治と日本社会を実現するには対象を脱構築するにしくはない。  
 ところで脱構築とは何か。これを皆で検索、追及していってその真理を明らかにしよう。そして実践する。400文字がこの記事だ。
 

アマチュア哲学者として

2024年07月07日 12時07分14秒 | 哲学
 もうこの年とこの境遇だと、哲学的に生きるしかないと思うようになってきた。思想的に生きるといっても良さそうだが、哲学的に生きるほうが柔軟に生きられるような気がする。
 哲学的に生きるとは音楽的にはパンクロッカーのような者だ、くだいていえば。ある哲学に基づいて行動するのだが、自分の場合その哲学は不変じゃない。コロコロ変わる。パンクロッカーはそのスタイルが変わるのか、結論は変わる。変転していく。
 財産と性の充足だけが人生ではない。それらとは直接つながらない思想があるだろう。そんな思想を目指そうではないか。そんな思想を拠り所に生きようではないか。名声と評判が大事だ。
 例えば純粋にあるジャンルの知識を獲得、拡大していく生き方、(そのためにはカネ、財産が必要なんだが)それは学者だな。芸術でも可だが、自分には向いてないのか、その種の才能がない。これで424文字だ。

C・G・ユングの性別論

2024年04月15日 21時26分34秒 | 社会
 ユングは云わずとしれたスイス人の精神分析学の大家。フロイドの弟子にして、後年たもとをわかっている。
 ユングは数あまたの著作を遺している。全集も日本で翻訳出版されていた。筆者はその幾ばくかを若い頃、親しんでいたのでこのブログを作成する。
 結論からいって、人間も動物だから雌雄の差異がある。しかしユングは個人の中に本来的両性具有をとらえた。男性には女性的要素が備わっているし、女性にも男性的要素が備わっている。その強度の表象がその人の性別を決定する。これは心理学上の見解である。
 男性内の女性的要素をア二マ、女性内の男性的要素をアニムスと名付けた。すみません、逆かも知れないです。
 だから女性的な男もいるし男性的な女もいるのは当然だ。そして中性的人間もいても不自然ではない。ア二マとアニムスが個人内でほぼ半半の勢力を保っている。これらはあくまで性格上の論点です。
 性的本能としては男は女と交わりたいし、女は男と交わりたいのは生殖のため正常です。この本能はその人の性格とは別次元に発生してくるのではないかというのが筆者の推定です。動物的本能として異性に対する性欲が発生する。しかし女性的男はそれを世俗的に満足させられない。