アマチュア哲学者で

日記か評論か意見表明か感想文かノンフィクションかエッセイか暇つぶしのレポートか

ちゃんとした人生

2024年10月07日 18時53分19秒 | 哲学
 沢木耕太郎氏の「深夜特急ノート」を読んで思いいたった。ちゃんとした人生なんか無いのではないか。自ら選び取った人生は有る。
 どんな人生でも可とする。ドラグ中毒の人生、前科者の人生、障害者の人生、エリート人生、小市民の人生。どんな人間でも基本的人権は日本国憲法で保障されている。
 私はちゃんとした人生に憧れていた。しかし生まれた時から両親の条件に制ちゅうされていた。現代流行り用語では親ガチャという。
 典型的人生を長い間夢想していた。そんな人生は自分には縁遠い。
 たぶん遠未来において人間は全員神に成る。人類の究極目的は神に成ることだ。永遠の不死と永遠の今を獲得して永遠の青春を謳歌する。
 人類はこの地球を離れて近辺の恒星系地球型惑星に移住する。即ち人類と人間は永遠に存続する。この宇宙が消滅する以前に次の宇宙をデザインクリエイトする運命だ。この宇宙も前世代の人類が作ったと考えられる。これは米国作家アイザックアシモフの世界観を発展させた。
 

陰陽二元論の考察

2024年08月15日 21時35分23秒 | 哲学
 すべてに歴史があると以前ブログに書いた。何もかも時の経過によって変化する。人も町も道も国も。
 すべてに陽と陰があるというのは2元論だが、その中間に中という元素を設定しなかったのは腑に落ちない。仏教では中道思想があるから納得できる。
 すべての万物事象に陽と陰とその中間があるとする。すると問題が起こる。陽と中の間は何なんだ。陰と中の間は何なんだ。これは方位の名称と実態を連想させる。真北と真南は180度離れているが、その間の方位は無限にある。
 だから陽と陰といっても、しょせん温度と同じように程度の差異としてとらえられる。しかし実態として陽と陰の現象は見られるので無視できない。価値論的には陰より陽が優先されているのは言うまでもない。倫理的には平等だとしても。
 すべての基本を論ずれば哲学になると思っている。結論とすれば何もかも程度の問題なのだ。一般論でも極端に普遍化すれば哲学ができると思っている。

アマチュア哲学者として

2024年07月07日 12時07分14秒 | 哲学
 もうこの年とこの境遇だと、哲学的に生きるしかないと思うようになってきた。思想的に生きるといっても良さそうだが、哲学的に生きるほうが柔軟に生きられるような気がする。
 哲学的に生きるとは音楽的にはパンクロッカーのような者だ、くだいていえば。ある哲学に基づいて行動するのだが、自分の場合その哲学は不変じゃない。コロコロ変わる。パンクロッカーはそのスタイルが変わるのか、結論は変わる。変転していく。
 財産と性の充足だけが人生ではない。それらとは直接つながらない思想があるだろう。そんな思想を目指そうではないか。そんな思想を拠り所に生きようではないか。名声と評判が大事だ。
 例えば純粋にあるジャンルの知識を獲得、拡大していく生き方、(そのためにはカネ、財産が必要なんだが)それは学者だな。芸術でも可だが、自分には向いてないのか、その種の才能がない。これで424文字だ。

「死は存在しない」田坂広志著の読後感

2023年03月27日 20時25分10秒 | 哲学
 
  2022年12月25日6刷発行本を読んだ。光文社新書である。新書という形式上、内容量は限定的だ。主テーマの入門書的紹介しかできない。これが選書版なら内容ヴォリュームが2倍ぐらいになるのではないか。読みごたえがあって説得力も増す。いかんせん、これは新書だから一気に通読できるがその主張の皮相的理解にとどまる。
 著者は1974年東京大学卒業と奥付にのっていて、高い知性の持主と推定される。この著作で大胆な仮説が述べられていて、そこに現代的科学根拠があるのが示されている。
 わたくしの何か月前の読後感をありていにいえば、あの世は存在する事が説明されている。死後の個人の魂が物理性質を変えて存在する事が説明されている。その場がゼロポイントフィールドである。ここは無限大の許容量があり、永遠に存在し、実は過去と未来のすべてのこの宇宙の出来事が存在しているところなのだ。すべての未来もすでに存在している。この記録がアカシア記録であり、書中では引用されていないが心霊学で有名なブラヴァツキー夫人が19世紀に唱えていた。
 唯識仏教でいう阿頼耶識の実在も説明されている。量子科学の理論からゼロポイントフィールドが導き出されるのだが、人の魂のその存在根拠が科学的にどう説明されていたのかはわたくしは忘れていた。
 そうだ目次を見て思い出した。個人の意識がゼロポイントフィールドに一体として死後も残存するのだ、自律性をもって。しかしその個人の意識も永遠に存続するわけではない。ついには一つの宇宙意識に吸収されてしまう。だけどそれは極楽天国なのだ。
 あくまでこれらの説明は仮説なのだが、最先端の物理科学的根拠によっているので充分説得力がある。わたくしは無神論無宗教主義で死んだら永遠の無だと思っていたが、ひょっとしたら違うかもしれないと自己の死に、安堵感を少しもった。
 本当に量子物理学では常識外(因果関係に反する)の量子の様相が実証されている。



ヘーゲル哲学雑感その2

2023年02月13日 21時21分11秒 | 哲学
 自分の内面と外面の分離に悩んでいた時、職場の先輩S氏は本質は現象すると教えてくれた。どんな職場だ。そう左翼系の組織団体の職場だった。後から知ったが、これは内面の外化である。
 客観と主観の分裂に長い間、悩んでいた。職場の情況について上司に訴えるとそれはきみの主観にすぎないと一蹴された。客観を獲得するにはどうすればいいのか。
 その解答がやっと得られた。久々に有斐閣新書「ヘーゲル小論理学入門」を再通読して。
 主観を客観に一致させる過程が認識で、客観を主観に一致させる過程が実践とされる。という事は主観と客観の統一とは実践認識である。実践して得られた認識が真とされる。
 何せヘーゲルは対立するあらゆる観念を統一して概念化する。
 本質は不変だが、本質と現象が統一されて現実となる。必然性は可能性と現実性の統一です。理念は主観的概念と客観世界の統一です。家族と市民社会の統一が国家です。
 魂と肉体の統一が生命です。生命と認識の統一が絶対理念となる。意志は実践的理念です。
 毛沢東はその哲学として「矛盾論」「実践論」を著している。ヘーゲルマルクスレーニン主義の中国的適用発展として読むことができる。
 実践とは真理認識を獲得する道とされている。具象的に例えていえば、リンゴの味はいくら議論してもその真理は得られない。その目の前のリンゴを一口かじってはじめてその味が判る。それが実践的真理だと。
 ヘーゲルにたちかえらねばならない。
 運動と活動の違いについて若い頃わからなかった。運動の高次形態が活動だった。事柄を現実化する運動を活動という。
 思い出した。あの先輩S氏は、筆者が労働でしんどくてもう限界ですと嘆いた時、限界を制限として突破するとうそぶいた。これって弁証法だと解るが言葉遊びの気がする。この弁証法の法則を労働者に適用すると過労死する場合もあるのではないか。
 正反合の弁証法の内容として、きわまった量から質の転換がいわれているが、これはまさに核エネルギーの真理をとらえている。物体の質量という量が莫大なエネルギーという質に転換されるのだ。