姫路界隈ポタリング

ぴゅんぴゅん丸が自転車こいで、今日は何処の路地へやら

生い茂る夏草の陰に

2011-08-28 18:40:45 | Weblog
苔むした五輪塔群が散在しています。

姫路近辺をポタリングしていますと、あちこちこのような風景が見受けられます。

豊臣秀吉が播磨を攻めた時、播磨の各地域の領主は地元の平和を保持するために、秀吉と戦いことごとく打ち負かされ落城してしまいました。

滅ぼされた領主と思われる五輪塔も月日を経て崩れてしまいあたりに散乱し、ものの哀れを増幅させます。

昭和30年代に兵庫県知事を務められた金井元彦氏は、ここ神東郡太尾城主(現在の姫路市豊富町太尾)太尾兵庫興次の十数代目の子孫だそうです。

落城して400数十年、夏草が生い茂る中に苔むした石塔群、今も当時と変わりなく夏風が吹いていました。

この可愛らしい武将は誰でしょうか

2011-08-27 17:43:58 | Weblog
身体をわずか右に傾け、大小の刀を腰に差し、右手に扇子、左手に菊の花を一枝を持って、畳の上に座す童子の姿。

この肖像画の上に画賛があり、わずかしか年寿を保つことが出来なかった薄命の童子を、父母が悲しみにくれてこの肖像画をつくり、高僧に賛を請うに至ったことが推察されます。

着衣は、肩衣に五七の桐から、当時の姫路城主木下家定公(高台院の兄)の孫が早世したのを嘆き悲しみ、妙心寺南下和尚に画賛を請われたものと伝わっています。

南下和尚は慶長9年(1604年)に亡くなっていますので、この童子もそれより以前、天正年間から関ヶ原の戦いが始まるまでの時期に、病気もしくは生まれてすぐに亡くなられたと思われます。

もし生きていたら、この肖像画のように凛々しい武将姿に育っていることだろうとを思い、両親が画せたのだろうことを思うとき、400年を経た今でもその心中は私達にも伝わってきます。

お夏清十郎で有名な、姫路市野里の慶雲寺に伝わる、桃山時代の可愛らしい武将の童子姿 「宗夢童子」の肖像画です。

この村で

2011-08-14 11:04:21 | Weblog
今から670年前に大変悲しいことがありました。
塩冶高貞公の妻、早田姫を横恋慕しょうと企て、それを断られた高師直は激情し、幕府に逆心ありと因縁をつけ、山名時氏に討伐を命じて、京から出雲へ逃げ帰る早田姫をここ蔭山まで追って来ました。
伴われて逃げて来た一族郎党と山名軍がこの村で壮絶な争いが繰り広げられ、ついに早田姫は討たれて死ぬのなら、草堂に火をかけて死ぬことを望み果てました。
そのような壮絶な出来事を村人はひと時も忘れず今に伝えてきました。
現在の姫路市豊富町酒井での出来事です。
夏の盛り、火をかけた草堂が焚堂と呼ばれて今はただ、せみ時雨の中です。

戦国時代の武将の

2011-08-07 20:00:23 | Weblog
立派な五輪塔をイメージして村の中を探し回りました。
たつの市揖保町中臣の田んぼの中の土盛りの上に立っていた小さな小さな墓でした。
此処中臣界隈を治めていた領主、赤松則勝公のお墓です。
1mにも満たない墓で、則勝の名前の下に院号と亡くなった明応の年号が刻んである500年近く昔のお墓でした。
地元の方に場所を尋ねましたが知らない方もおられました。
「この村に戦国武将の名残あり、何事もなき青田の眺め」
実は、此処から程近い、現在のたつの市門前に生まれた大燈国師(赤松円心の姉の子)が生まれたお寺をを訪れた洋画家中川一政画伯が「この村に、大燈国師の生まれたる、何事もなき青田の眺め」と詠まれており、それをパクリました。

書写山の麓にある

2011-08-06 21:18:16 | Weblog
阿弥陀寺へ行ってきました。
大根炊では姫路近辺ではちょっと有名なお寺です。
足利4代将軍義持が訪れたお寺です。
住職さんが出てこられ丁寧に説明していただきました。
物腰が柔らかい住職さんで、私が間違って『満祐さんの弟さんですね」と言えば、間違いを指摘せずに「そうですね」と返事していただきましたが、道々考えておりますと赤松満祐が暗殺した6代将軍足利義教のお兄さんでした。
しまったと思っても後の祭りでした。

書写山の麓にある

2011-08-06 21:18:16 | Weblog
阿弥陀寺へ行ってきました。
大根炊では姫路近辺ではちょっと有名なお寺です。
足利4代将軍義持が訪れたお寺です。
住職さんが出てこられ丁寧に説明していただきました。
物腰が柔らかい住職さんで、私が間違って『満祐さんの弟さんですね」と言えば、間違いを指摘せずに「そうですね」と返事していただきましたが、道々考えておりますと赤松満祐が暗殺した6代将軍足利義教のお兄さんでした。
しまったと思っても後の祭りでした。