姫路界隈ポタリング

ぴゅんぴゅん丸が自転車こいで、今日は何処の路地へやら

昨日の続きで

2011-06-22 21:29:33 | Weblog
高室の村はずれの墓地入り口に珍しいものを見つけました。
今から600年ほど前,応永8年(1402年)と刻まれたの逆修塔です。生前者が自分の亡き後も平穏でありますよう祈念することを石に刻んだものです。
やはりこの近くで産出された石材を用いて製作されました。
この近辺に、弘安、建治、建武・・の年号が刻まれた石仏がたくさんあり興味がわいて来ます。これらの石仏は非常に巧みな石工集団により製作されたことは明らかです。
ここからそう遠くないところに五百羅漢もあります。
私の推理は、江戸時代中期(享保)~後期(天保)頃に多発した飢饉で亡くなった人々を供養するため、素人町衆が製作したと言うより刻み込んだものと考えます。
羅漢さんとは後世の人が適当に名前を当てはめたもので、作った人はそんなことは全く意図していません。
この彫刻の拙さといい、石仏の風化といい、今彫刻したかのようです。
明治時代の凝灰岩のお墓でさえ、もろもろと風化が始まっているというのに、雨風にさらされ続けた仏さんの細い線がいまだ摩滅せず残っており、これが慶長期の石造物だと言われてもちょっと信じることは出来ません。
せいぜい150~180年前(天保期が中心)の製作で、当時でもプロの石工がこんな拙い石仏を彫刻をしているようでは、民衆は誰も注文する者はおりません。
人それぞれ物の見方もそれぞれです。ゆがんだ茶碗が芸術と言う人もありますが、物の見方を人に押し付けてはいけません。
それは所謂、失敗作なのです。400体近い石仏が失敗作とは言ってません。
巧みな石仏なら、古来から口伝され保存されて来たのでしょうが、これらは作られて順次、そもまま見捨てられて放置されて来たと考えても、何ら矛盾、不都合はないと考えます。

梅雨の中休みの日曜日に

2011-06-22 06:57:21 | Weblog
加西市の石材産地界隈を走ってきました。
長(おさ)、高室(たかむろ)加西市にはまだまだ多くの石材産地が点在しており、ここで切り出された石材が、石棺や五百羅漢に用いられています。
大村町で見つけた古墳、この中の石棺もこの地域で産出された石材を用いられ、その後、発掘されてどこかの路傍で石棺仏として信仰の対象になっているのでしょう。