身体をわずか右に傾け、大小の刀を腰に差し、右手に扇子、左手に菊の花を一枝を持って、畳の上に座す童子の姿。
この肖像画の上に画賛があり、わずかしか年寿を保つことが出来なかった薄命の童子を、父母が悲しみにくれてこの肖像画をつくり、高僧に賛を請うに至ったことが推察されます。
着衣は、肩衣に五七の桐から、当時の姫路城主木下家定公(高台院の兄)の孫が早世したのを嘆き悲しみ、妙心寺南下和尚に画賛を請われたものと伝わっています。
南下和尚は慶長9年(1604年)に亡くなっていますので、この童子もそれより以前、天正年間から関ヶ原の戦いが始まるまでの時期に、病気もしくは生まれてすぐに亡くなられたと思われます。
もし生きていたら、この肖像画のように凛々しい武将姿に育っていることだろうとを思い、両親が画せたのだろうことを思うとき、400年を経た今でもその心中は私達にも伝わってきます。
お夏清十郎で有名な、姫路市野里の慶雲寺に伝わる、桃山時代の可愛らしい武将の童子姿 「宗夢童子」の肖像画です。
この肖像画の上に画賛があり、わずかしか年寿を保つことが出来なかった薄命の童子を、父母が悲しみにくれてこの肖像画をつくり、高僧に賛を請うに至ったことが推察されます。
着衣は、肩衣に五七の桐から、当時の姫路城主木下家定公(高台院の兄)の孫が早世したのを嘆き悲しみ、妙心寺南下和尚に画賛を請われたものと伝わっています。
南下和尚は慶長9年(1604年)に亡くなっていますので、この童子もそれより以前、天正年間から関ヶ原の戦いが始まるまでの時期に、病気もしくは生まれてすぐに亡くなられたと思われます。
もし生きていたら、この肖像画のように凛々しい武将姿に育っていることだろうとを思い、両親が画せたのだろうことを思うとき、400年を経た今でもその心中は私達にも伝わってきます。
お夏清十郎で有名な、姫路市野里の慶雲寺に伝わる、桃山時代の可愛らしい武将の童子姿 「宗夢童子」の肖像画です。
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