姫路界隈ポタリング

ぴゅんぴゅん丸が自転車こいで、今日は何処の路地へやら

ポタリングを始めて

2009-06-29 19:08:23 | Weblog
やっと2000キロです。
一昨年の11月に購入し6月27日に達成しました。
でも、ただ単なる通過点です。翌日にはもう2054キロの数字が刻まれています。
福崎を通過して、瀬加から加西市若井町を経て北条の古い町並みを巡り,町外れの小谷村へ。

この村には、よばりこき地蔵と言われる地蔵さん(本当は阿弥陀如来)があり、村人の手で、手厚く祀られています。

この石仏はその昔近くの古墳から発掘された石棺の蓋を利用して、西暦1345年(南北朝時代康永4年)に仏様を彫られたことが刻まれています。

地元の巧みな石工により、入念に製作されたものであろうことは容易に想像できます。

ちなみに、この年の3年後に楠木正行が吉野の如意輪堂の扉に矢で、「帰らじと・・・」の歌を刻み、四条畷の戦いに赴くことになります。

この石仏はその後、多難な運命を辿ることになります。
いつの頃からか、農道の石橋として、また稲刈りや草刈りの砥石代りとして数百年間百姓の人々に利用され、近年工事中に偶然発掘された時には、磨滅し痛々しいお姿で発見されました。

ここからさほど遠くない所に五百羅漢が整然と並ぶ羅漢寺があり、お寺の入口に慶長年期(1600年初頭)の石仏がありますので、500体近い石仏群も同時期に製作されたものだと思われるでしょうが、それは早計だと思います。

破天荒で石仏づくりの一切のルールを無視した(言い方を変えると自由闊達な)技法は現在に近づくほど簡略化が顕著になっており、小谷石仏より約300年後の寛永(1630年頃)から寛文(1670年頃)の長期間にかけて(この頃になると徳川幕府の地位も安泰でゆるぎないものとなり、安定期に入り)製作されたものと考えるのが自然であり、素人集団が供養か逆修か、それとも当時の住職が数代に亘り余興のために製作したか、そのどちらかであろうかと私は考えています。

ともすればもっと新しく、元禄から享保、まだまだ下がって安永(1780年頃)の石仏群かもしれません。

その理由は、この地域を中心として、近在近郷の墓地の入口にたたずむ六地蔵さんの表情や石の風化状態は、この石仏群と酷似し、それには文化文政から天保の年号が多く刻まれています。

ロマンを追い求めれば、いつ、誰が製作したか謎で、唐からの帰化人とかアリアン民族の人とか、出来る限り時代を遡り詮索したいのが人情でございますが、現実は
夢を壊して申訳けありませんが、ロマンを追い求めるほどこの石仏群に歴史がないのが事実でございますが、信仰の対象としてはそんなことはどうでもよいことでございます。


いつの時代の製作であろうとも、巧であっても、拙であっても、仏様を一心に彫る心はみんな同じであると考えています。