姫路界隈ポタリング

ぴゅんぴゅん丸が自転車こいで、今日は何処の路地へやら

どことなく懐かしく思いませんか

2011-12-09 21:37:19 | Weblog
戦後間もない頃のクリスマスツリーです。
まだ世の中、物の乏しい頃、父母が姉のために買いました。
その姉も64歳になりました。

お祭りも間近にまりまた

2011-10-04 19:59:18 | Weblog
お祭りっ本番間近、準備も完了です。
日が短くなり、ちょうちんの明かりがつくのも早くなります多。
暗闇に浮かぶちょうちんの明かり、祭り気分が乗ってきました

本番まであとわずか

2011-09-26 20:44:31 | Weblog
教える方も、教えられる方も真剣です。
姫路の男はこれを経験して男の子から男に成長します。
写真は地元の屋台での練習風景ですが、あとで立ち寄った隣村の練習で、偶然に同じ「吉田通れば二階から招く、しかも鹿の子の振袖に」の音頭を耳にしました。
所謂、宵宮での色唄(ちょっとエッチな)です。
今、大河ドラマでクライマックスを迎えているお江与さんの長女で、従兄弟秀頼の子、奈阿姫さま(尼 天秀)を補佐し、弟家光とも仲がよかった千姫が30歳で未亡人になり、竹橋御門で男をたらしこんでいた時の話だと言われていますが、そのようなことはなかったようです。

久々の50kmポタリングでした。

2011-09-21 20:23:28 | Weblog
飾東を経て,志方町、西神吉町から、魚橋、曽根、別所から、また来た飾東を通って帰って来ました。
途中、旧魚橋郵便局前で撮りました。
数年前に、国の登録文化財に指定されたそうです。
ここから数十メートル先に童謡「月の砂漠」を作曲した佐々木すぐるさんの生家があります。

北条の五百羅漢を検証する(その2)

2011-09-17 09:29:18 | Weblog
製作について

1 庶民が願をかけるのは先祖供養、家内安全、無病息災、五穀豊穣、商売繁盛と言うごく一  般的なものだ

2 国家安寧とか天下泰平とかそんな大それたことを庶民が願掛けするのは今も昔も一般的で  はない。

3 「1」はどこでもよく目にするが、「2」は著名な寺社(出雲大社等)を除いて見たことが   ない

4 もし武将が{2」をするなら近くの法華山一乗寺に祈願するものと考える

5 願掛けには、写経百万巻成就目的と同じ心境で、石仏を千体なり、2千体を作成した    とも考えられる

6 京都の三十三間堂には千体余りの木造仏の例がある

7 歴史に出てくるような人が歴史に出てくるようなことで、後世に無言で伝えた遺物なんて  万に一つ有るか無いかだ。残っているのは奇跡に近いことだ

8 願掛けと言えど「けつわり」したことも充分考えられる。それも人間らしくていい

9 素人なら、自分の仕事もあり製作も遅々として進まず、数代、数十年はかかったかもしれ  ない。

10 千体製作満願を志したが、途中4百数十体製作した時点でけつわりしてしまった

次回は製作時代についてを検証します。

北条の五百羅漢を検証する(その1)

2011-09-10 12:42:38 | Weblog
あくまで私感、百人百様ですのであなたの推理が事実かも知れませんが、私なりに3回程度に分けて検証してみました。

短期間で検証なんて、笑われるかもしれませんが笑わずに見てもらえたらうれしいです。

石材に関して、

1・柔らかい石材(凝灰岩)に細い線を刻んでいるのに、経年による摩滅が少ない

2・同程度の摩滅状態の墓標は近在の墓地に多く点在しているが、ほとんどは幕末(文化
文政)から明治頃のものが多く、くまなく探せば、中には元禄年紀銘が入った物もあ  るが、慶長年紀の物はほとんど見当たらない

3・天正以前のものは全く確認できない

4・身分が高い人が造られたと言われれば、その割りに材質、技量が乏しい

5・通常身分の高い人が作らせた遺物は花崗岩(御影石)を用いている。その証拠に大名  やそれに近い人が寄進した遺物は御影石を用いている場合が多い

6・五百羅漢すべてが無銘だ。文字の読み書きができなかった者が製作した可能性がある  が、この当時はそれがごく普通のことだ

7・長けた石工は技量と知識を兼ね揃えている

8・500体近い石仏にパターンがあり、複数の者が製作したと考えられる

9・それは数代に渡った結果かもしれない

10・同時期に複数人が製作したとは限らない

今回石材に関して思いついたことを検証してみました。

北条の五百羅漢

2011-09-02 19:13:15 | Weblog
の制作年代を求めてポタリング中間報告です。

東高室、東長の石の産地を中心に10ヵ所以上で、五百羅漢と同じ工房で製作したと思われる石仏を確認しました。

加西市山下町の2ヶ所のお寺と墓地、東高室町のお寺、西高室町の墓地、東長町の墓地、両月町の墓地に2ヶ所、戸田井町の墓地、下里駅近くの墓地に2ヶ所、王子町の墓地、西笠原町の墓地、姫路市山田町山田のお寺と山田町牧野のお寺、香寺町溝口の墓地です。

これらの石仏に元和、慶安、寛文、貞享の元号が刻まれていることも確認できました。

西暦1620年代から1680年代の約60年間に亘り、同じ工房で2~3代続いて製作されたと理解してもなんら矛盾は見当たりません。

これらのことは刀剣の製作社会では一派(たとえば堀川国廣一派)相伝のために、ごく普通に行われていることでございます。

謎の石仏と言われ近寄りがたい仏様と思っていましたが、だんだん調べていくうちに、私達の身近なところでお見守りくださる仏様として、何だかうれしい気持ちになりました。

生い茂る夏草の陰に

2011-08-28 18:40:45 | Weblog
苔むした五輪塔群が散在しています。

姫路近辺をポタリングしていますと、あちこちこのような風景が見受けられます。

豊臣秀吉が播磨を攻めた時、播磨の各地域の領主は地元の平和を保持するために、秀吉と戦いことごとく打ち負かされ落城してしまいました。

滅ぼされた領主と思われる五輪塔も月日を経て崩れてしまいあたりに散乱し、ものの哀れを増幅させます。

昭和30年代に兵庫県知事を務められた金井元彦氏は、ここ神東郡太尾城主(現在の姫路市豊富町太尾)太尾兵庫興次の十数代目の子孫だそうです。

落城して400数十年、夏草が生い茂る中に苔むした石塔群、今も当時と変わりなく夏風が吹いていました。

この可愛らしい武将は誰でしょうか

2011-08-27 17:43:58 | Weblog
身体をわずか右に傾け、大小の刀を腰に差し、右手に扇子、左手に菊の花を一枝を持って、畳の上に座す童子の姿。

この肖像画の上に画賛があり、わずかしか年寿を保つことが出来なかった薄命の童子を、父母が悲しみにくれてこの肖像画をつくり、高僧に賛を請うに至ったことが推察されます。

着衣は、肩衣に五七の桐から、当時の姫路城主木下家定公(高台院の兄)の孫が早世したのを嘆き悲しみ、妙心寺南下和尚に画賛を請われたものと伝わっています。

南下和尚は慶長9年(1604年)に亡くなっていますので、この童子もそれより以前、天正年間から関ヶ原の戦いが始まるまでの時期に、病気もしくは生まれてすぐに亡くなられたと思われます。

もし生きていたら、この肖像画のように凛々しい武将姿に育っていることだろうとを思い、両親が画せたのだろうことを思うとき、400年を経た今でもその心中は私達にも伝わってきます。

お夏清十郎で有名な、姫路市野里の慶雲寺に伝わる、桃山時代の可愛らしい武将の童子姿 「宗夢童子」の肖像画です。

この村で

2011-08-14 11:04:21 | Weblog
今から670年前に大変悲しいことがありました。
塩冶高貞公の妻、早田姫を横恋慕しょうと企て、それを断られた高師直は激情し、幕府に逆心ありと因縁をつけ、山名時氏に討伐を命じて、京から出雲へ逃げ帰る早田姫をここ蔭山まで追って来ました。
伴われて逃げて来た一族郎党と山名軍がこの村で壮絶な争いが繰り広げられ、ついに早田姫は討たれて死ぬのなら、草堂に火をかけて死ぬことを望み果てました。
そのような壮絶な出来事を村人はひと時も忘れず今に伝えてきました。
現在の姫路市豊富町酒井での出来事です。
夏の盛り、火をかけた草堂が焚堂と呼ばれて今はただ、せみ時雨の中です。