誇り高き日本の歴史

学校での歴史教育は大東亜戦争の敗戦で歪められ、真実は30%程度に過ぎないため真の国史を明らかにします。

大東亜戦争敗因についての一般論

2017-01-10 20:51:15 | 現代
大戦の敗因を探る、10

(1)敗因についての一般論

大東亜戦争の敗因については一般的に次のように言われています。

● 米国まで敵としたこと
● 真珠湾攻撃による米国民の士気高揚
● 大本営による机上のプラン(海軍の過大な戦果報告)
● 無謀な戦線の拡大、兵姑(食料、弾薬等の後方支援)の無視
 
● 戦術だけで戦略がなかった(特に海軍は当初の戦争計画を無視した)
● レーダー等軍事技術の重要性への認識不足
● 銃剣突撃、決戦主義(過剰な精神主義)。
● 暗号、防諜の重要性への認識不足(日本はスパイ天国であった)
● 逆に米国本土での諜報線を断たれた(日系人の強制収容)

● 潜水艦の使用法錯誤(米軍とは反対に、海軍は全く米軍の兵站破壊をしなかった)
● 航空機の戦略的位置づけ錯誤(米軍とは反対に、海軍は制空権確保を優先しなかった)
● 大艦巨砲主義から脱却できなかった(大和など大型戦艦の建造を優先)
 
これらの分析は当たっていますがいずれも部分的です。日本将兵の士気の高さ、現場指揮官の優秀さ、開戦当時の空母、航空機等の保有数においても米国に拮抗 していたこと等に鑑みると、かくの如く惨憺たる負け方にはならないはずの戦争で、短期決戦で勝利する可能性すらありました。

例えば、開戦当初の陸軍総兵力では、日本が210万人で米国は152万人、海軍総トン数では、日本が148万トンで米国は131万トンでした。が、長期戦になって決定的な差が出てくるのは「工業生産力」でした。そして海軍の馬鹿げた東への戦線拡大で長期戦になります。



(2)服部卓四郎は無能だったか?…ノモンハン事件

日米開戦に突入した日本ですが、戦後史家や国民の間では「陸軍悪玉、海軍善玉論」が常識とされてきました。が、これは、「英米派」が多かった海軍を持ち上げるための印象操作である面が拭えません。

日米開戦後の陸軍の作戦立案の中心人物は、大本営作戦課長だった服部卓四郎大佐です。戦後の史家はこぞって、大東亜戦争の主な作戦に携わった服部を無能な参謀として批判しています。そこで、服部の携わった主な作戦について、検証します。

まず、服部が関東軍参謀として関わった戦闘に、日米開戦前の昭和14年に起こった「ノモンハン事件」があります。当時のソ連側発表によると、ソ連の損害9284人、日本軍の損害55000人というものでした。が、近年のロシアから出てきた公文書によると、

ソ連の損害は25565人で、日本の損害17405人を大きく上回っています。確かに日本軍は苦戦しましたが、これは、こんなところに大軍が押し寄せる訳がないと考えていた少数の日本軍が、兵力で約10倍のソ連軍と戦ったためです。実際、スターリンも日本軍の強さに恐れをなしていました。

次に、服部は、大東亜戦争の初戦における「マレー半島上陸」、「シンガポール占領」、「フィリピン攻略」など、日本軍の南方進出のほとんどの作戦を立案し、成功させています。

(3)服部卓四郎は無能だったか?…ガダルカナル

もっとも、昭和18年の「ガダルカナル島戦」では辛酸をなめます。が、この作戦自体は「米豪遮断」を主張する海軍が中心にすすめたもので、陸軍はインド方面への展開によって西から来るドイツと連携して英軍を閉め出し、ソ連への補給を断つことを重視していました。

そのため、兵力の投入が小出しになり作戦が後手にまわったこと、フィリピン攻略戦の勝利で米軍を侮っていたこと、とりわけその後の米国の工業生産能力を過小評価していたことなどが原因で、上陸した総兵力31,404名のうち生き残って撤退できた者は10,652名という結果となります。

このように、反省すべき点は多々あるのも事実ですが、野菜食中心である日本兵の排泄量の多さから、米軍は日本軍が実際の数よりも多くいると錯覚、実際に必要な火力の約7・5倍の砲火で日本軍に集中砲火を浴びせたため、甚大な被害を出したのが実情です。

このことは米軍の軍医日記に記されており、軍医は、日本兵の残した排泄物を検査しその量から人数を測った。が、割り出した人数よりも米軍が倒した数が少なく、あれだけの火力を浴びながら生き残りがいるということは、日本軍は余程すごい訓練をしているに違いないという記録を残しています。

(4)服部卓四郎は無能だったか?…インパール作戦

最後は「インパール作戦」ですが、インドを制し、英軍による"援蒋ルート"を遮断する戦略は合理的で、作戦そのものもアラカン山脈を越えて奇襲攻撃をかけるもので、補給線はこの攻撃までの1ヶ月間だけ確保できれば問題ない作戦でした。

この作戦では、一人当たりの携行食糧は20日分でしたが、この他は英軍が放棄した陣地の倉庫から調達したり、現地人と交渉して確保しています。実際、参加した3師団のうち第31師団では、昭和19年の3月15日の進撃から5月末までは食糧を調達できています。

が、牟田口司令官は、英軍はマレー攻略のときのように弱いと思っていました。しかし、インパール作戦のときには英軍は米からM4などの戦車や最新の自動小銃を供与され、航空機も十分に利用できるようになっていました。このため、山越えのため軽装にしていた日本軍は苦戦したのです。

最大の問題は、インパールにおいて一撃がうまくいかなかったときの対応でした。牟田口司令官はも3月作戦開始で天長節(4月29日)にはインパールを陥落させると豪語していた関係上、戦線が膠着すれば遅くとも5月中旬には作戦を中止しなければならないはずでした。

しかし、6月に入って視察に来たビルマ方面軍司令官の河辺中将と牟田口司令官との会談では明確な意思決定がなされず、この結果、この後1ヶ月にわたって悲惨な戦闘が続きました。このように、現場を知る司令部の決断の遅れが、多くの犠牲者を出した原因だと考えられます。

(5)服部卓四郎は無能だったか?…大陸打通作戦

一方、大戦後半に入って服部が立てた作戦で成功したものに「大陸打通作戦(一号作戦)」があります。昭和18年後半になると、米軍は多くの潜水艦で「通商破壊戦」にでて日本の商船を攻撃。この結果、南方資源の輸送ルートが分断され、物資の補給が断ち切られていました。

このため、昭和19年4月、服部は「大陸打通作戦」という大胆な作戦を立案します。これは、日本軍が占領していなかった中国南部を占領し、大陸を「打ち通す」様にインドシナ半島を経由して南方資源地帯と朝鮮半島までを陸路で結ぼうというものでした。

この作戦は、支那派遣軍所属の18個師団と6個旅団(約50万人)を動員する開戦以来最大規模の作戦でした。一方迎え撃つ中国軍は300万人の兵力が待ち受けていました。が、作戦は順調に進み12月にはほぼ予定地域を占領、大勝利を収めインドシナ半島の味方部隊と合流します。

日本軍が圧倒的な勝利をおさめた理由は、日中両軍の「質」の違いです。まず、中国軍は300万の大軍でしたが、装備はドイツ製の小銃や軽機関銃だけで、日本軍の様な航空部隊はもちろん機甲部隊や砲兵部隊もなく、兵の移動も徒歩か騎馬によるものでした。

また、将兵の士気においても大きな差があり、日本軍は「皇軍」、つまり、精神的支柱として天皇の存在と、「大東亜共栄圏の構築」という理想がありました。これに対し中国軍は、兵の大半が急遽、強制的に嫌々ながら脅されて連れてこられた農民兵で、信じるものも理想もありませんでした。

こうして「大陸打通作戦」は大成功しますが、一方の太平洋の戦局は絶望的で、サイパン、硫黄島、沖縄戦の後、原爆投下で終戦となったため、「南方資源の輸送」という作戦本来の目的は果たされず潰えます。が、総じて、服部の立てた作戦は理にかなったものだったといえるでしょう。

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