誇り高き日本の歴史

学校での歴史教育は大東亜戦争の敗戦で歪められ、真実は30%程度に過ぎないため真の国史を明らかにします。

人類の叡智「國體主義(天皇制社会主義)」

2017-01-10 21:15:38 | 現代


第二十三章 人類の叡智「國體主義(天皇制社会主義)」

一、国にも心がある 

 聖徳太子が定めた「十七条憲法」では「和を以て尊しとなす」とあります。これが日本の精神文化を象徴する「大和心」です。それは単に「戦争がない」等という単純なものではなく、「違いを認めつつ一つを自覚する(差異化と同一化の共創原理)」という意味です。

 この思想は、日本神道の背景となっている世界最古十万年前の「カタカムナ文書」に書かれた「二元性とその統合」、つまり「分離と調和を繰り返しているのが宇宙の実相」という宇宙観に由来しています。

 ところで、一人一人の人間個人が「心」と「体」を持っているように、「国」にも「心」と「体」があるととらえるのが自然です。とくに、「国」を「国家(広義の國體)」、つまり家族の延長としてみる日本の場合、「国」は単なる統治機構ではなく、人間個人の映し鏡であり、国家構成員すべての心(集合意識)を反映する形で、豊かな精神性を保持しています。

 従って、人間や世の中を目に見える物だけで捉える「唯物論」や、国家を破壊すべき「悪しき権力」と捉える「唯物論的弁証法(マルクス主義)」など見当外れも甚だしい思想です。

二、「國體」とは

 そして、この「国家の心」が「狭義の國體(大和心)」で、これに対し「広義の國體」とは、「国家生命体系」を意味します。

 が、「國體」という言葉については誤解が多く、戦前から様々な議論がなされてきました。例えば、「國體」=「天皇主権の国家体制」などですが、これは表面的な議論です。

 この説は、「国民主権」に対する意味での「天皇主権」を強調したものですが、「主権」という国家意思の決定権の在りかが何処に有るかという統治機構に限定した捉え方で、「国家の心」が欠落しています。

 この点、戦前の一時期に主流を占めた憲法学者・美濃部達吉博士は、「国家は生身の肉体を持たない法人であり、国家主権はこの法人に属し、天皇はその執行機関に過ぎない」という「天皇機関説」を唱えました。 
 この説は陸軍統制派によって採用されますが、皇道派に攻撃され後塵を拝します。

 また、戦後も、戦前の体制に批判的なマルクス史観に立つ学者を中心に、「國體」=「天皇主権の国家体制」として批判的に捉えてきました。
 しかし、戦前、戦後ともに、国家構成員全員の集合意識=「国家の心」の視点が欠けています。

 すでに現行憲法下では、天皇は統治機関ではなくなっており、「天皇機関説」は成り立たず、「天皇象徴説」は明らかです。が、主権の有無にかかわらず、いずれもこれらの説は国家を統治機構に限定し、「國體」が顕在化した「政体」についての形式的議論に過ぎません。

三、「カタカムナ哲学」とは 

 「大和心」を本質とする「国家生命体系」は、「カタカムナ文書」に書かれた「カタカムナ哲学」によって成り立っています。

 すでに述べたように、物理学者・楢崎皐月博士よって発見、解読された「カタカムナ文書」は、世界最古の石器時代のものといわれています。理由は、古事記、日本書紀以前の竹内文書等の古史古伝が、せいぜい一~二万年前の縄文時代以降の天皇家を中心にした歴史を、各豪族の家伝という形で記録したに過ぎないのに対し、カタカムナ文書では、宇宙哲学や生命論、核融合や反重力などの自然科学の記述に終始しているからです。

 また、決定的なのは、竹内文書などの古史古伝がアヒル草文字などの「神代文字」で書かれているのに対し、カタカムナ文書では幾何学模様の「宇宙文字」が使われています。

 所謂"通説"によると、種としての人類の起源は、約二十万年前の北アフリカだとしていますが、カタカムナのような文書は世界に類を見ず、日本では世界最古の旧石器も発見されていることから、カタカムナ文書は世界最古の宇宙文明に関わるものではないかと推測される所以です。 

 この「カタカムナ哲学」によると、「宇宙は相似象をなす正(カム=外側)と反(アマ=内側)が旋転し、正反それぞれが極限まで行ったら逆旋転を繰り返す。そのため一見するとマイナス作用にしかみえない物質の分化、還元も、プラス作用にみえる統合も、万物万象の一過程に過ぎない。

 これは『現象界』のすべてに当てはまる法則であるが、その根源は目に見えない『潜象界』にある」。また「宇宙は、自分の外側と内側、更に自分自身にも存在し、三位一体で均衡する」とします。これを反映したのが、「違いを認めつつ(差異化)、一つを自覚する(同一化)」という十七条憲法の精神です。

四、「カタカムナ哲学」と「神道」と「國體」

 では、以上のカタカムナ哲学と日本の「神道」、「國體」とはどのような関係にあるのかを、「記紀」の内容も参考にしながら確認してみます。

 まず、「三種の神器」のうちの「八咫鏡」は、鏡を見ている自分(内側)と映し出される自分(外側)という二元性を表しており、神道概念の「ムスビ」に当たり、「あらゆるものが対を成す関係性の中にある」ことを意味します。

 次に「草薙剣」は、「人間の意識があらゆるものの原点となって秩序を形成している」ことを表しており、神道概念の「ククリ」に当たります。

 最後に「八尺瓊勾玉」は、一点から発して球体を為す形をし、球の真ん中には穴がありますが、これは"個"から"全"が生まれ、"全"は"個"に帰る旋転の繰り返しを意味しています。

 これらに関連して日本書紀では、国家統治の理念は、「積慶」「重暉」「養正」の三位一体(=八紘一宇)にあるとしていますが、これは「ホツマツタエ」でいう「卜(うらべ)の教え」「鏡の教え」「鉾の教え」に当たります。

 一方、古事記の「天孫降臨」神話は、天地(宇宙ないし自然)の中に神が生まれたとします。「記紀」では「天御中主」が最初の神ですが、「竹内文書」等「記紀」以前の古文書では「元無極躰主(母止津和太良世)」から始まり、数代後に「天御中主」、更に「三貴子(天照、素戔嗚、月読)」が生まれます。

 ともあれ、ユダヤ・キリスト教などの一神教では、「宇宙の創造主」である神は人間を超越する存在と捉えるのに対し、神道では自然(宇宙)を構成する万物(人間を含む)の中に神が宿るとするため多神教となり、また人間の外側(外在神)だけでなく内側にも神が宿る(内在神)とします。

 この結果、神と人間はもちろん、あらゆる万物は対立することなく連続して存在し、神と天皇と人々が一体化して構成された大家族こそが「國體」であるとします。また、「外在神=他力本願」、「内在神=自力本願」を意味することから、日本においては仏教も独自の進化を遂げます。

 ちなみに、古事記のもう一つのテーマ「国譲り」神話では、「大和」と「出雲」という対立する国家が、話し合いで統合され、「大和」が政体(表)を担い(「治らす」しらす)、「出雲」は國體(裏=祭祀)を担う(「頷く」うしはく)とされます。

 実際、すでに述べたように、中世以降の日本では、商家が長屋を住民に貸して対価を糞尿でもらい、それを農家に持ち込んで堆肥として活用するという循環システムが出来上がっていました。川に流していた欧州などとは異なり、日本では世界で唯一、糞尿を農業に使う等の「皇道経済」が成り立っていたのです。

 このような循環システムの思想と仕組みは、「違いを認めつつ一つを自覚する」という多神教的価値観の下、他人と競争するのではなく、それぞれが個性を発揮して、「生かし、生かされ、あるがままに任せる」という「共創分業社会」が、日本に古くから定着していたことを物語っています。

 この点、タントラヨガの世界的指導者であるP・サーカーは、資本主義、社会主義を超えた、人間中心ではなく生態系が中心の、経済至上ではなく霊的生命を至上とした非営利協同組合が運営する家族的でホリスティックな協同経済システムを提唱していますが、これこそ正に「皇道経済」に他なりません。

五、「國體主義」と欧米思想

 ここで「國體」概念と、欧米の「民主主義」等の政治思想を比較します。まず「個人主義=自由主義(資本主義ではない)」↕︎「全体主義(社会主義等)=平等主義」と言え、前者は「精神=内側の世界」、後者は「肉体(物質)=外側の世界」を意味します。

 また「民主主義と独裁主義」は「分離と集中」を意味しますが、これでは二元対立が生じたまま、統合(調和)が図れません。

 ところで、日本は文明開化以降、帝政ドイツの憲法を模範にした「明治憲法」、戦後は「民主主義」「人権保障」などの思想を盛り込んだ「英米型憲法」を導入しました。

 しかし、それ以前、明治維新までは「武家諸法度」はありましたが、それは基本的に「行政法規」に過ぎません。実は、「憲法」にあたる国家の理念や価値観を示す法規範は聖徳太子が作った「十七条憲法」だったのです。
 
 そして統治機構である「政体」は長く武家が担いました。平安時代初期までと南北朝時代、明治時代以降終戦までは 天皇(上皇、法皇)が「政体」も担いましたが、「國體(狭義)」は一貫して天皇が祭司を執り行ってきました。前者を「政体天皇(表天皇)」、後者を「國體天皇(裏天皇)」と呼びます。

 このような意味で「國體の本質」は国家生命体系(神)であり、國體天皇は国家生命(神)と国民を合一する"神民統合の神籬(ひもろぎ)"で、一方、政体天皇は、国家機構ないし君主と国民を結びつける"君民共治の紐帯(ちゅうたい)"と言えます。この結果、神と国家と国民の"三位一体"が成り立ちます。

 ちなみに、「國體」と同様に誤解が多い天皇の「万世一系」についても解説しますと、これは、例えば、能楽、歌舞伎、茶道、華道、相撲、果ては任侠の世界などでも見られる、我が国特有の伝統的な"襲名披露"という地位の継承方式に則って繋がれるものです。

 つまり、血統などの肉体的、形式的な目に見える現象の継承よりも、霊統などの精神的、実質的な目に見えない本質の継承をもって「一系」となすという意味です。皇室では伝統的に「伯家神道の祝之神事(はふりのしんじ)」等を以て霊統の継承を執り行ってきました。

 例えば「孝明天皇」→「明治天皇」以外にも、「白山王朝」→「富士高天原王朝」→「鵜芽葺不合王朝」→「大和王朝」への政権移行、あるいは「武烈天皇」→「継体天皇」、「開化天皇」→「崇神天皇」等の皇位継承の際にこの例を見ることができます。ちなみに「ダライラマ」もこの方式を採用しています。

六、「憲法前文」の前提は存在しない

 日本民族は「多元的価値観」を持ち、「二元対立」しながらも、倒した相手を根絶やしにすることなく歴史を刻んできました。その奧底にあるのは「カタカムナ哲学」に根ざした多神教的な「大和心」です。以下ではさらに詳しく、欧米思想の問題点と日本の精神文化の違いを述べます。

 まず、マルクスが考えた共産主義は国家の廃絶を最終目標にしており、そのために日本國體の中核である天皇制を廃しようとします。彼らの考える「唯物弁証法」では、階級支配の手段である国家を、逆にプロレタリア社会主義革命によってブルジョア市民階級を支配する手段にします。

 また、生産手段の私有をなくせば飢餓もなくなり平和が実現できると考えています。

 このため、個人のブルジョア的思想と行動を徹底的に取り締まるため、強大な警察権力で監視体制を敷き、同時に資本主義国を圧倒する軍事力も必要となるため、必然的に軍事独裁国家の道を歩みます。

 が、実は資本主義も共産主義も、「国際金融資本」という、欧米の「覇道ワンワールド勢力」によって裏で繋がっており、西欧のような緩い王制の国では「ブルジョワ民主主義革命」で、日本、ロシア、支那のような強固な君主制の国では「プロレタリア社会主義革命」で支配下に置くことが戦略なのです(二段階革命論)。

 ところで、憲法前文は「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼し」とありますが、自民党が「平和を愛する米国民の公正と信義に信頼」していたのに対し、今の共産党は「平和を愛する中国民の公正と信義に信頼」しています。
 が、実態をみれば、前文はすでにその前提が成り立っていません(イエリネック…憲法の変遷)。

 というのは、一神教である「キリスト教的価値観」を基にした"彼らの愛と正義"の名の下に、彼らにとっての「自由と民主主義と平和」を普遍化しようとして、強大な軍事力を保有、逆らう他国を圧迫、植民地化してきたのが"グローバリスト"である欧米諸国、そして国際金融資本(覇道ワンワールド勢力)だからです。

七、「民主主義」の問題点

 また、憲法のもう一つの原理である「民主主義(国民主権)」に関しても、民主主義は国民世論の上に成り立つ制度です。しかし、世論は生まれながらにして自然発生的に出来上がるものではなく、教育機関と報道機関を使った巧みな情報操作と刷り込みによって形成されているのが実態です。

 さらに、「民主主義」のもう一つの問題点は、"ヒューマニズム"という名の「利己的、唯物的な人間至上主義」を前提にしている点にあります。このヒューマニズムは、中世教会の権威とそれを背景にしてきた絶対君主制に対抗する意味で生まれてきた思想です。

 しかし、裏を返すと、大衆をして「際限のない自我の肯定」という罠に陥れる危険をはらんでおり、その結果、自分たちの考えだけが正しいという独善と、異教徒、異民族への干渉、侵略を生む根拠となったのです。例えば、奴隷解放宣言をしたリンカーンも黒人や先住民には選挙権を与えませんでした。

 加えて、「際限のない自我の肯定」は、利己的な自由放任経済を選択した結果、恐慌や貧富の格差をもたらし、これに対する反動としての強大な国家権力の介入という「全体主義(ファシズム、共産主義)」と、それとの戦いというパラドックスを抱えています。

 目下、世界では「対イスラム戦争」という形をとっていますが、これら人類の争いは、「際限のない自我の肯定」とユダヤ・キリスト教的な「一神教的価値観」によって生み出されたものだといえます。

八、「日本国憲法」は無効である

(一)人間は「自由意志」を持っていない

 さらに、民主主義の前提には、選択肢について自由に考える個々人の「自由意志」がなければ成り立ちません。しかし、そもそも人間には「自由意志」は存在していないというのが現代哲学の到達した結論です。

 例えば、「投げ込まれた世界の中で自己生成した意味や価値を通じて、自分が誰かを回顧的に知覚する(ソシュール/構造主義)」、「自発的意志はシステムや慣習からの刷り込みの結果として生じ、自由意志を持つ存在としての"人間は死んだ" (フーコー/ポスト構造主義)」、「人類の歴史や人生に目的などなく、家族、友人、職場など身の回りとの関係性の中で、言語を通じて他者と折り合いをつけながら"小さな物語"を生きているに過ぎない(リオタール/ポストモダン)」等として、「自由意志」や「理性」、その背後にある「キリスト教的価値観」を否定しています。

 現代哲学がこのような結論に至ったのは、自由の追求がもたらす戦争ではどちらかが降伏すれば終結するが、今、人類が直面している環境破壊や地球温暖化等の問題では、相手が見えないだけに降伏、そして終結の図式が成り立たず、近代が作りあげた思想が無力であることが明らかになったからです。
 
(二)「天賦人権説」はただの"信仰"

 では、そもそも「自由主義、民主主義」などの近代啓蒙思想は、何を根拠に正しいとされてきたのかについて、その完成者と言われる「イギリス経験論哲学者・ジョン・ロック」の考え方をみてみます。

 まず、ロックと対立した大陸合理論哲学者のデカルトは、「宗教は違っても誰でも神の観念を持っているから、我々は生まれながらにして心のうちに神を持っている(生得観念)」としました。

 これに対しロックは、私たちの心は元々は白紙(タブラ・ラーサ)であり、生まれながらにして何かを持っているわけではなく、観念の起原はあくまでも「経験」であり、我々の側にあるのはそれらを認識し、加工する能力(悟性)だけだとします。

 そして、この「認識」については、例えば、経験といった時、我々はまず、目や耳で感じとられた感覚を思い浮かべるが、これは「赤」とか「丸」とかいった断片的な感覚のことで、これだけでは「リンゴ」とは決められません。

 こういった断片的感覚を集めて、比較したり判別したりして「リンゴ」と決定(認識)するわけですが、このような"悟性"に依存する働きのことを「内省」とよび、「認識」と「内省」の二つで「経験的認識」が成立するとします。

 ところが、「神」については、無からは何も生じない(神の存在は経験できない)が、経験の主体である私たちは現に存在していることを経験できる以上、私たちを存在させている何か永遠なもの(神?)があるのではないか。

 そして、人は経験によって信仰する神も依って立つ世界観も異なる以上、どれが正しいということはできない(相対的)のだから、すべての個人の「内心の自由」は無条件に保障されるべきだ。

 また、「財産権」についても、神は万物を作り出し、それらを共有物として人間に与えた(天賦人権説)が、私の身体だけは間違いなく私のものであるから、自然物に私の労働を加えた結果(労働価値説)は私の所有物として保障されなければならないとします。

 このように、ロックの「天賦人権説」は、途中からいきなり、何の根拠もなく「私たちを存在させている何か永遠なもの(=神)があるのではないか」とし、その神は「経験によって異なる以上、内心の自由は無条件に保障されるべき」、あるいは、その「神から与えられた人権は無条件に保障されるべきだ」と"必要論"が出てくるだけで、何ら"理論的根拠"が示されていません。

 言い換えると、ロックの「天賦人権説」の背景には、中世キリスト教神学者・アウグスティヌスの「人間には罪によって歪められているものの、物事を為す自然的な自由があり、それは神の恵みにより回復される」、また、「世界は神の摂理としての永久法に支配され、現実世界はそれを人間が分有する自然法によって秩序づけられる」とのキリスト教思想(信仰)があるに過ぎないと考えられるのです。

(三)心理学、脳科学による新たな解明

 このように、自由や民主主義などの絶対保障を説く「天賦人権説」には根拠がなく、それらが人間になんら幸福をもたらさない現実に直面した結果、現代哲学者は「自由意志」の存在を否定しています

 ところで、以下では視点を変えて、近年、発達が著しい心理学や脳科学、ロボット工学(人工知能)、量子理論の観点から「自由意志(意識)」は存在するのか、「私たちの存在」とは何なのか、「宇宙の仕組み」はどうなっているのか、などについてやや詳しく紹介します。

 一般に、心理学や脳科学では、「意識(広義)」とは、「知・情・意」からできているとされますが、「知」は、五感によって得られた外部情報を知覚し、それに合う記憶を脳の中から探し出す機能です。

 次に「情」は、「恐怖、怒り、喜び、好き嫌い」など感情からなり、さらに「意」は、意志や意図などの何か目的や一定の方向に向かう積極的な心の働きです(狭義の意識)。このうち「知」と「情」は、意識的に働くというよりも無意識的な反応として起こります。

 問題は、最後の「意(狭義の意識=自由意志)」が、主体的、能動的な働きとして存在するのか否かです。 
 が、脳の中にある「意識」は二十ビットの処理能力であるのに対して、「潜在意識」は千百万ビットあり、圧倒的に「潜在意識」によって支配されていると言われています。

 これを裏付ける実験として、光が点滅するモニターの前に、脳に電極を取り付けた人に座ってもらい、点滅したら指を動かしてもらうとします。すると驚いたことに、意識が「指を動かしたい」と意図する〇・三五秒早く、指を動かそうとする電気信号が無意識的に発せられていることが確認されています。

(四)全体をまとめる働きと新しいパターンの処理

 次に、意識の働きでは説明できない複雑な処理パターンをハイテク機器に例えて説明しますと、パソコン、スマートフォン、自動車などの内部にあるマイコンチップなどの部品は、自分の仕事のみをバラバラに処理しているだけで、トップダウン的に集中管理している訳ではありません。

 が、現実にこれらの機器は、全体的に調和し統一された処理をします。同じく人間についても、例えば、大脳で考え事をしている間に、立位を維持したり、ペンを持ったり、呼吸や消化活動をしたり、様々な器官での処理が無意識的に同時処理されています。

 また、人間の脳が「青い服を着た人間」を認知する場合は、「人間」、「服を着ている」、「青い服」という情報を、それぞれ脳の一部が別々に認識しているだけで、「青い服を着た人間」として全体を認識しているわけではありません。

 これが心理学や脳科学のテーマとされてきた「結び付け問題」ですが、それは個々の部品の処理結果を足しただけでは説明できない、全体をまとめて統合する働きがあるからだと考えられています。このような意識を持たない昆虫でもやっている認知のメカニズムを心理学では「ゲシュタルト」といいます。

 これは、すでに蓄積された記憶情報との照合によって物事を処理する仕組みですが、蓄積された情報がない新しいパターンへの対処は、類似の記憶から幾つかのケースを取り出し、最も整合性がとれてリアルに感じるものを無意識的に選択しており、やはり「意識」は働いていません。

 私たちは自分の意志で思考や行動を選択しているように"感じて"いますが(クオリア=現象意識)、以上のことから、意識は潜在意識が処理した結果を追認し、未来の類似ケースに転用できるよう蓄積しているに過ぎず(エピソード記憶)、意識(自由意志などの機能意識)は存在していないのではないかと言われています(受動意識仮説)。

(五)未来を今として見させる「クロノスタシス」

 今度は、これまで述べてきた「潜在意識が処理した情報を意識が後追いで追認している」というのとは反対に、「潜在意識が処理した未来の情報を意識が先取りして認識している」ということを、時間を例にとって説明します。

 これは、「クロノスタシス」と言って、ちょうど秒針が動いた瞬間に時計に目をやると、僅かに秒針が止まって見えることがあります。これは、人間の目は常に運動しているため、すべての風景を処理しようとするとあらゆるものが映ってしまい、画像を確定できません。

 このため、眼球が動いている間に得られる情報は無視し、その間を眼の動きが止まったあとの情報で埋め合わせ、連続した画像と見なしています。つまり、人間が見ている風景は"今の風景"ではなく"未来の風景"なのです。
 
 このように見てくると、私たちが「現実」として見ているものは、あたかも今、目の前に現存しているかの様に感じていますが、実は、潜在意識が蓄積した情報に基づいて見せている"幻"なようなあやふやなものに過ぎないということができます(ホログラフィック宇宙論)。

(六)「自分」も存在しない?

だとすれば、意識も持たず、幻のような現実を見ているだけの私たち自身も、果たして存在しているのかという疑問が湧いてきます。そこで、残った私たちの「体」について、それは「自分のもの」なのかについて考えてみます。

自分の体とそれ以外の境界は、イメージ的には「皮膚表面の内か外か」ということになりそうですが、だとすれば、口や胃の中に入った飲み物や食べ物は体の中に入っても、器官表面の外側にあるので自分のものではないのか?

 では、「自分のコントロールが及ぶものが自分のもの」と広く捉えるなら、体内に入った食物と切ったばかりの爪や髪の毛、また自掛けている眼鏡、更には自分が所有する自動車も「自分のもの」ということになります。が、一方でコントロールできない心臓は自分のものではないことになります。

 このように、「自分のもの」などという概念は実に曖昧で、従って「自分の体」というものも、生まれてこのかた「自分の体とはそういうものだ」と潜在意識に刷り込まれてきた一つの概念(思い込み)に過ぎず、その存在を確定することができないのです。

(七)「量子物理学」でも証明された!

 以上の結論は、量子物理学の「観察者効果」としても説明できます。まず、二重につい立てを置いて、前方から電子銃で光子を直線的に一つ一つ発射します。手前のつい立てには二つの縦穴(スリット)が、中心よりやや左右に平行してあり、奥のつい立てには感光紙が張られています。

 もし光子が粒子なら、手前のつい立てにぶつかって、奥のつい立てまでは届かないはずですが、実際には、奥のつい立てに"縦縞模様"が複数残ります。これは光子が波に変わって手前のつい立てを通過し、二つに分かれた波形が奥のつい立ての前で干渉(合流)し、衝突したことを意味します。

 さらに、奥のつい立てに「粒子感知器」を設置してみると縦の"棒線"が二本表れます。これは「粒子感知器」の設置が抱える「現れるのは粒子のはず」という観察者の潜在意識が起こした結果です。光子は手前のつい立て通過時には"波動"、奥のつい立て衝突時には"粒子"になったのです。

 つまり、物質の中の電子は、観察者が「丸い形」を意識しない限り、原子核の周り 波のように揺らぎながら、雲の様に取り囲んでいるだけなのですが、「球形」を意識すると実際に「粒子」として現れるのです。

 以上のように考えると、自分とは「潜在意識の中にある情報」で、一方、現実とは「潜在意識というはっきりしないものが見せている幻」ということができます。が、同時に「私たちの潜在意識に情報を与え続けている外側の世界」というようなものがある可能性も否定できません。

 これらのことを統合する説として、量子物理学を脳科学に応用した「量子脳仮説」があります。それによると、目に見えない脳の内部と目に見える外部が、あるきっかけで共振共鳴したとき、脳の内部では未確定状態の「量子意識(元意識=潜在意識)」が顕在意識(意志)へと変化します。

 一方、脳の外部では「量子素子(元物質)」が確定され、目に見える物(現象)へと変化します。この内外の関係性と対で起こる変化を「量子もつれ効果」といい、目に見える物と目に見えないものが、一秒間に何億回と繰り返し「対生滅」しているのが宇宙の実相だとします。

(八)仏教の「空」思想、神道、カタカムナ

 実は、以上の哲学、心理学、脳科学、ロボット工学、量子理論などから見た世界観は、すでに二千五百年前に釈迦やその弟子たちが語っている哲理でした。

 例えば、仏教の「唯識(ゆいしき)説」は、この世の現実は意識が作りあげた幻のようなものだから「空」だ。一方「中観(ちゅうがん)説」は、目に見える世界は目に見えない世界と対をなす関係性の中にしか存在せず、目に見える世界だけ見ていても本質を捉えた事にならないため「空」だ、とします。

 ただ、「空」というのは、自分が存在する前に外部世界にまったく何もない(絶対無)というわけではなく、存在しているが意識に入らない限り、"その人にとっては"存在していないのと同じだ、というわけです(相対無)。
 
 「無我」の意味についても、「唯識説」では「私ではない」、つまり「顕在意識ではなく潜在意識(阿頼耶識)が本質」と捉えるのに対し、「中観説」は「私はない」、つまり「私は単独では存在していない」と捉えます。

 そして、「唯識説」では、現実は意識が作りあげたもの(空観)だから自分の内面を変えない限り変わらないとし、「中観説」は、見えるものと見えないものをバランス良くみよとし、いずれも現実に拘るなと強調しています。

 ただ、現実的な関わりにも一時的な役割を認めようと言う立場(仮観)もあります

 これを量子論でいうと、「唯識」が「観察者効果」、「中観」が「量子もつれ現象」です。このような事が起こる理由は、量子は粒子と波動の二面性をもっており(重ね合わせ状態)、一点の粒子(自分の内面)に全宇宙が畳み込まれている(一切即一)からで、これにより「三位一体」となります。

 ちなみに、以上を神道に当てはめると、「唯識」が剣、「中観」が鏡、「一即一切、一切即一」が勾玉に対応しており、「カタカムナ文書」にも類似の記述があります。

 ともあれ、このように「現実(自分の存在を含め)」という万物万象は、「空」というあやふやなものであり、従ってその蓄積である「歴史」も、事実として存在するものではないから拘るなというのが、私が本稿の冒頭で述べた、「歴史を"エンターテイメント"として楽しんでいただきたい」とした真意です。

(九)結論…「日本国憲法」は破綻している

話を政治論に戻しますが、以上の文脈からいって、「自由(人権)を保障する」などと謳うこと自体"絵空事"であるばかりか、「自由意志」による「自由な議論」がありえない以上、「民主主義(国民主権主義)」はその前提を欠いた、ただの"建前"に過ぎないと言えます。

さらに、憲法の三大原則の一つの「平和主義(九条)」についても、すでに述べたようにそれ自体が非現実的な"願望"であるばかりか、相手国との「自由な話し合い」が成り立たない以上、ただの"信仰"に過ぎないといえるのです。

「自由な話し合い」とは、「平和」という普遍的理念を共有し、その実現に向けて相互に拘りのない意見を積み重ねていくことです。が、既に見たように「実存主義」以降の現代哲学では「普遍的」なるものの存在は否定されており、また、人間は刷り込まれた潜在意識によって支配されているからです。

加えて、國體論からいっても、それが「違いを認めつつ一つを自覚する(差異化と同一化の共創原理)」という緩やかな二元的性善説に根ざしていることからすると、統治権の所在を厳格に規定する「民主主義」、非武装化によって政府の行為を厳格に覊束する「平和主義」は整合性を欠くといえます。

そういう意味で、「日本国憲法」は、その成立過程に怪しさを抱えているだけでなく、"欧米グローバリスト"の信奉する人間性悪説的な「キリスト教的価値観」による日本支配のための"桎梏(しっこく)"であり、論理的に成り立っていないばかりか、我が國體には馴染まないものと考えます。

 ただ、欧米の政治システムから取り入れた議会制度は、民意を把握する上で有効な仕組みとして、日本が近代化して以来すでに国民の間に定着しています。

 従って 、私見としては、君主制と民主制の調和が図られた「明治憲法」を参考に、新しい日本国憲法を模索すべきだと考えます。







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