誇り高き日本の歴史

学校での歴史教育は大東亜戦争の敗戦で歪められ、真実は30%程度に過ぎないため真の国史を明らかにします。

生きていた護良親王と國體勢力>

2017-01-08 21:32:08 | 中世


<生きていた護良親王と國體勢力>

今から約1300年前、「騎馬民族系・天智天皇(の子・大友皇子)」と「海洋民族系・大海人皇子(天武天皇)」による天下分け目の戦い「壬申の乱」が起こったことは既に述べました。そして日本の歴史は、この「騎馬民族(北朝系)」と「海洋民族(南朝系)」を背景にした「南北朝の対立」を中心に展開しています。

また、このことは「明治維新」を起こす動機の一つにもなっています。そこで今回は、古代史と近代史を結ぶ、日本史の"臍(へそ)"ともいうべき「南北朝時代」とその動乱の真相について、落合莞爾氏の見解も参考にしながら明らかにします。

1、通説による南北朝動乱の経緯

さて、後醍醐天皇の第一皇子だった大塔宮・護良(もりなが)親王は、太平記では”悲劇の宮将軍”として、鎌倉の洞窟牢に幽閉されたのち、足利忠義によって殺されたことになっています。が、実はこの話は身分を隠すための”物語”で、実際は生き残り、南朝復興と國體の護持に務めていました。
 
建武元年、政権を樹立した後醍醐天皇は、寵姫の阿野廉子の子である幼い恒良親王を皇太子にします。このとき皇太子として最もふさわしいのは誰が見ても第一子で27歳の護良親王でした。
 
しかし、倒幕における勲功で自身と並ぶ足利尊氏と相いれず、その後も尊氏による武家政権樹立の動きを警戒する護良親王は、大和の国信貴山に拠点を設け、上洛せずに尊氏討伐を後醍醐天皇に申奏します。
 
そのため、尊氏討伐をためらう後醍醐天皇は、征夷大将軍職を望む尊氏に鎮守府将軍を与えただけで、護良親王を征夷大将軍につけ兵部卿を兼務とさせ、和泉守、紀伊守に任じます。が、護良親王は、尊氏の野心を警戒し陸奥将軍府を設置、弟の義良親王を長にして東国に軍事基盤を持つ尊氏を牽制します。
 
しかし、尊氏と密かに通じた後醍醐天皇の寵姫・阿野廉子に「大塔宮(護良)に皇位簒奪の企てあり」と讒言され、姦計を持って捕えられた結果、身柄を足利方に預けるため鎌倉に送られ、尊氏の弟・鎌倉将軍府執権・足利直義の監視下、二階堂が谷の東光寺に設けた土牢に幽閉されます。
 
建武二年、北条時行と残党が鎌倉に急迫したため(中先代の乱)、直義は鎌倉を離れるにあたり、北条軍が護良親王を担ぐ事態を懸念、淵辺義博に護良親王殺害を命じ、この件は緊急避難として認められ問責されることはありませんでした。以上、ここまでが、歴史の教科書で教えられている通説です。(次回に続く…)

2、"護良親王偽弑逆工作"
 
が、宮を憐れんだ淵辺義博は一命を救い、陸奥石巻へ落としたという説があります。「君命に背いたことで妻子に咎が及ぶのを恐れた義博は、その縁を切るため境川にかかる橋の袂の榎の下で妻子と分かれた」と伝えられており、その橋が東京町田市木曽町の中里橋で、榎は”縁切り榎”と言い継がれています。
 
また、沈着冷静で知られる知将・足利直義が、”大塔宮弑逆”のごとき末代まで怨みを買う暴挙を本当に実行したかは大いに疑問とされてきました。そして実は、そこには後醍醐天皇の側近・文観らによって謀られた政略があったという見方(落合莞爾)があります。
 
ここで、南北朝の対立を時系列的に俯瞰すると、文保元年(1317年)に伏見上皇が崩御すると、花園が上皇になり後醍醐が天皇に即位します。が、ここで皇太子を巡る両統の争いが激化したので、鎌倉幕府が仲裁に乗り出し、皇位継承に以下のような一定の基準を設けることを提案します(文保の和談)。
 
❶花園が皇太子尊治(後醍醐)に譲位すること
❷今後は在位を十年として両統が迭立(たすき掛け)すること
❸尊治の次の皇太子を邦良とし、その次を後伏見の皇子・量仁とすること
 
ところが、後醍醐即位から三年して突如、後宇多上皇が院政を辞め、治天の座を後醍醐に譲ります。後醍醐は天皇在位のまま”治天の君”となり、親政に移行します。
 
これを知った邦良皇太子は、皇位を自分に渡すよう要求しますが、後醍醐は応じません。後宇多上皇が崩御したのち邦良は鎌倉幕府に後醍醐の譲位を働きかけ、両統迭立を皇室操縦戦略と考える幕府もこれを受け、皇位継承を早めることを決めます(正中の変)。
 
一方、後醍醐はこれらの動きに激しく反発、倒幕を決意したたため南北朝の大動乱が始まります。尊氏に擁立された後光厳天皇は、傍流ながら「正平の一統」で崇光天皇が退位して絶えた北朝を再興して実力をつけ、わが子の後円融を皇位に付け、後小松、称光と四代にわたり北朝皇統を継承します。
 
一方の延元元年にはじまった南朝皇統は、明徳三年の”明徳の和約”により南朝・後亀山天皇が三種の神器を北朝・後小松天皇に引き渡して、南北朝が合一されたとして終わります。以降の皇統が北朝の血筋だということが天下の常識とされます。
 
実際、これ以降、江戸時代に入ってからも、本居宣長、平田篤胤などの国学者や、水戸学派の徳川光圀、吉田松陰らによって「南朝正閏(せいじゅん)論」「南朝復興論」というのが出てきては消え、日本史の中でくすぶり続けます。

3、「元寇」の真相

このような対立による混乱を収拾し、傾いた鎌倉幕府を倒して、更なる「元寇」に対応できる強固な國體を作るため、後醍醐天皇、側近の文観、足利直義らが考えたのが"護良親王偽弑逆工作"です。護良親王を表舞台から裏舞台に移して(裏天皇)、後継者バンクとしての第三皇統(伏見宮統)を作り、機を見ての両統迭立の解消を目指したのが真相です。

ちなみに、「元寇」といえば、鎌倉時代に誕生した新仏教宗派が中心になって、「自分たちには法力がある」とアピールするため"神風信仰"を作話したようです。が、実際は、肥前国(佐賀県)の「松浦党」というかつて平家に属していた水軍が、この時期の玄界灘の気象を知り尽くしており、海戦に不慣れな大陸勢力を海上に押し戻した上で、断続的なゲリラ戦を仕掛けたため圧勝につながったというのが真相です。

この点に関して、「『蒙古襲来絵詞』に見る日本武士団の戦法(佐藤鉄太郎)」によると、「蒙古襲来絵詞」「大友頼奏覆勘状写」「福田兼重申状写」「日田記」が残っているが、いずれも博多湾周辺の赤坂、鳥飼潟、百道原など戦場にしたもので、どこにも日本軍が太宰府まで撤退したとの記述はなく、日本軍が優勢に戦っていたことを記しています。

また、「歴代皇紀」では、10月5日の元軍襲来以降、激戦が続き、10月20日に大宰府の兵船300余艘が出航して元艦隊を追ったとし、「菊池系圖」では、赤星有隆が壱岐、対馬での元軍追撃戦において武功をあげたとしています。

他にも、「松浦党大系圖」が、肥前の御家人である山代諧が「対馬で討ち死にした」としていますが、これは元軍に対する追撃戦で戦死したと考えられ、この結果、九州から壱岐へと逃げた元軍総司令官の忽敦は、高麗軍を率いる金方慶と協議の末、日本からの撤退を決断したようです。

4、ネットワークは欧州へも

話を戻しますが、東国を脱した護良親王は、大和国西大寺に入ります。その後は真言律宗僧・文観の協力もあって、全国に1500もあったという系列寺院を基盤に西大寺の財力も用いて、吉野から鎌倉に至る街道の要所に極楽寺を建ててネットワークを築きます。
 
極楽寺には「」という療養施設を設け、遺体より取り出した臓器や辰砂(しんしゃ=水銀)から薬を製造、大麻や罌粟(阿片)などとともに、近辺に参集した非農業民へ施しを行います。彼らは下民(シタダミ)や役民(エノタミ=エタ)と言われましたが、古代、主に古墳の造営のため朝鮮半島から渡来した農地を持たない、従って戸籍も持たない非農業民のことです。

彼らは、土木作業に従事、閑散期には非定住漂泊民化し、死体処理、、全国への行商、大道芸能、飛脚、運搬などにあたります。護良親王は、不安定な彼らの健康や生活の改善に尽力し、特筆すべきは癩病(ハンセン氏病)患者のケアをしたことです。彼らは我が国にはなかった疾病を抱えていたことが想像されます。

実際、大阪の天王寺、奈良の西大寺、全国の極楽寺近辺に多いとされていますが、一部は山間部に居住して"山窩(サンカ)"とよばれる山岳漂泊民になったと言われています。

一方で護良親王は、丹波国に「役行者(えんのぎょうじゃ)」を始祖とする「大江山衆」、山科に「勧修寺(かじゅうじ)衆」という修験者(霊媒衆)集団を組織し、朝廷忍者として各方面で情報収集などの工作活動をさせます。前者が"裏神道・八咫烏”、後者が"裏仏教・飛鳥”の始まりと言われています。

警戒した北朝側は、対抗して伊賀、甲賀に忍者組織を作ります。が、護良親王が"傑物"と言われる所以は、こうして作ったネットワークと財源を元に全国の港湾施設を整備、海運関係者も加える形で初期"倭冦"から日明貿易にまで携わって海外展開し、国際情勢の把握に努めます。

刮目すべきは、その海外ネットワークをアジアばかりでなく遠くオランダ、ベルギー、特にYAPハプロR系遺伝子が伝わるスコットランドにまで広げ、水銀などの「和方(日本式医療)」を用いて、「黒死病(ペスト)」によって崩壊の危機に直面していた欧州各国を救ったと仄聞しています。

そして、伏見殿を舞台にした”裏皇室(後の國體勢力・京都皇統)”は護良親王亡き後も存続し、後小松天皇(新北朝・持明院統)の後の皇位に護良親王の子の崇光天皇(後南朝・大覚寺統)を就かせます。

その後の"裏皇室"の刮目すべき事跡としては、戦国時代に入って日本に進出してきた「イエズス会(ローマカトリック)」による世界侵略計画を喝破、その布教を許した織田信長を明智光秀に殺害させたこと、また、朝鮮半島に拠点を移し支那への浸透を図ろうとした野心を阻止するため豊臣秀吉に朝鮮出兵をさせたこと、

さらには、明智光秀を南朝系の参謀僧"南光坊・天海”として送り込み、徳川家康をして関ヶ原の合戦によって西国に誕生していたキリシタン大名を消し去ったこと、徳川家光をして「島原の乱」を鎮定させ、日本国内からイエズス会の芽(覇道ワンワールド勢力)を一掃したこと、などがあります。

加えて、その影響力は明治維新にも及び、朝彦親王らによる南朝系明治天皇(大室寅之助)擁立にまで到ります。また、幕末の勘定奉行(財務大臣)に南朝系の小栗上野介忠順を送り込み、徳川家が全国の金山から採掘し貯蔵していた金塊を回収、後の「黄金の百合」の一部として浄土真宗法主・大谷光瑞らに運用させます。(次回に続く…)


4、「朝鮮出兵」の目的と背景

1)秀吉は明を征服する気は無かった

この中で、護良親王の築いた国際的な情報網が日本を救った例として、「朝鮮出兵」の目的と背景について説明します。豊臣秀吉は、「文禄の役(1592~1593)」、「慶長の役(1597~1598)」と二度にわたって約16万の大軍を朝鮮半島に送ります。

通説では、「秀吉は晩年、痴呆になったかのように明国征服のための無謀な朝鮮出兵を行った」としていますが、これは全くの誤りです。そもそも、本気で明国を征服する気があったら、「倭寇」で鳴らした当時の日本の水軍力をもって、いきなり支那の沿岸部を攻撃したはずですが、そういう計画はありませんでした。

では、なぜ朝鮮出兵は行われたのか?この時代、世界の8割はスペインの植民地で、スペインはフィリピンのルソンに東アジア地域全体の戦略統合本郡を置いていました。そして当時、スペインによってまだ征服されていなかったのは、アジアでは明国と日本だけで、朝鮮半島は明の一地方である弱小国にすぎませんでした。

そして、天文18(1549)年、イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルらが、布教を建前にして日本へ偵察にやってきます。スペインは当初、中南米で行ったような武力による日本征服を考えていました。が、宣教師たちは、それが難しいことを痛感させられます。

というのは、これに先立つ1542~3年頃、ポルトガル人が種子島にやってきて「鉄砲」を伝えところ、日本人はたちまちこれをコピーした上で量産してしまい、日本は世界の鉄砲所持数の半数を保有していたからです。

ドン・ロドリゴ、フライ・ルイス・ソテロらがスペイン国王に送った書簡には、「国王陛下、陛下を日本の君主とすることは望ましいことですが、日本は住民が多く、城郭も堅固で、軍隊の力による侵入は困難です。よって福音を宣伝する方策をもって、日本人が陛下に悦んで臣事するように仕向けるしかありません。」と。

こうしてスペインは、日本でのキリスト教の布教活動にまず注力する一方、明国の征服を狙います。明国は鉄砲の保有数は少なかったのですが、とにかく広く、人も多いため手間がかかります。そこで、明国と日本の中間地点である朝鮮半島に狙いを定め、触手を伸ばします(実際、現代においても韓国人にクリスチャンが多いのはこの辺りに背景があるようです)。


2)日本軍の強さに驚愕したスペイン

この間、西洋の文物に魅了された織田信長以降、その知識や技術を取り込もうと日本は、キリスト教の布教活動を認めます。ところが、慶長元(1596)年、スペインの貨物船サン・フェリーペ号が遭難し、土佐の浦戸に漂着します。そこで、秀吉の五奉行・増田長盛が、救助した船員たちを取り調べた結果、驚愕します。

サン・フェリーペ号の水先案内人が、増田長盛に世界地図を見せ、「スペイン国王はまず宣教師を派遣し、キリシタンが増えると、次は軍隊を送って信者に内応させ、その伝道地の国土を征服したためスペインは世界中にわたって領土を占領できた」と証言。これにより秀吉はキリスト教禁教令を出します。

加えて、日本側はすでに、護良親王が欧州に派遣して地盤を確立していた"南朝皇統の筋"から、スペインの誇る「無敵艦隊」が英国に破れ、海軍力を大幅に低下させているという情報を得ていました。

もちろん、当初、秀吉は、スペインと政治的交渉を行うため、天正18(1591)年9月、フィリピンのルソンにあるスペインの総督府に原田孫七郎を派遣し、国書を手渡します。大帝国のスペインに対し、「頭を下げて臣下の礼をとれ。それが嫌ならマニラに攻めこむぞ」と、口喧嘩をふっかけたのです。

そして、文禄2(1592)年4月、原田喜右衛門が滞在していたマニラで、同じくスペインの意図を見抜いた明国から派遣されていた正規兵2千人が一斉蜂起してスペインの総督府を襲う事件が起こります。スペイン兵は応戦しますが歯が立たず、原田喜右衛門が手勢を率いて加勢、またたく間に明軍を全滅させてしまいます。

日本軍の強さを思い知らされたゴメス総督は、原田喜右衛門に感謝をするとともに、この勢いで日本が朝鮮、明国を征服するのは時間の問題。そうなれば、日本がアジアの最大国となるのは火を見るよりも明らかで、"モンゴル帝国の再来"となって欧州にとって脅威となるのは必定と考えました。

ちなみに、韓国では、李舜臣が日本の朝鮮半島への補給路を断ったため、日本軍は半島からの撤退を余儀なくされたとして英雄になっています。が、李舜臣は文禄元(1592)年8月29日に釜山港を占領していた日本軍に戦いを挑みますが、あっさり敗退。そして、慶長3(1598)年)年11月18日の露梁海戦のときにあえなく戦死しています。

3)日本を救った護良親王

一方、日本側は、スペインが当時、すでに傾きかけていた明国を支配下におさめると、いかに数多くの鉄砲を持っているとはいえ、スペイン配下の明国の大軍が、数の力にモノを言わせて日本に攻め込んできて"元寇の再来"となりかねないと考えます。そこで、スペインの野望を挫くため秀吉は朝鮮出兵を行います。

仮に明国まで攻め込むことができなかったとしても、地政学的に朝鮮半島を日本と明の緩衝地帯としておくことが日本の国防上有益で、「白村江の戦い」などの古代の歴史や、ロシアの南進を防ぐために明治政府が行なった「日韓併合」と共通の"満鮮計略"に基づいたものです。

が、日本が撤退したのは、護良親王が欧州に作った"南朝皇統の筋"からの情報に基づき、「無敵艦隊」の壊滅以来、スペインは英国やオランダに押されて国力も疲弊した結果、アジアから撤退する方針に変わりつつあったこと、明に代わって女真族の「清」が勢いを増しつつあったことを知っており、国内の安定化を優先したからです。

また、もう一つの「朝鮮出兵」の目的は、"戦国大名版刀狩り"にありました。つまり、戦国の世を終わらせるために、諸大名に金を使わせ、その力を削ぐことも狙いでした。事実、何一つ恩賞を得られなかった諸大名の不満は、秀吉の死によって爆発。その後の関ヶ原では、トドメを刺すようにキリシタン大名は一掃されました。






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