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氷流日記

氷(筆者)と流さんの奇妙な徒然記

詩の学校 9月 Vol.2

2013-09-15 07:59:16 | デッサン・クロッキー・詩・音楽
詩の学校 9月 Vol.1 からの続き




その次はkabaさん。この夏、kabaさんはフィリピンに行ってきた。
ボランティアで。
何のボランティアか知らないが、たて笛を教えに行っていた。
およそ2週間。
たて笛がとても気になり、ボランティアの目的を聞きそびれた。
もう何年も続けておられ、今年詩の学校のメンバーのユキちゃんも一緒に連れて行ったそうだ。
現地は雨ばかりで暑い暑い夏は経験してしないとのこと。
ちょっとうらやましい。
前日にも書いたが、
今年の夏は工場の中ではじめて熱中症になりかけたからだ。
後で知ったことであるがこのkabaさんと前日のHさんは昆虫に詳しい。
ちょうど昆虫を調べようかと考えていたので渡りに舟。
アウトドアが好きな2人は少年時代の昆虫好き、釣り好きからくるようだ。
kabaさんは釣りが出来るポイントで大学を選ぶほどで、
かなりの変り種である。
そのkabaさんがたて笛のボランティアをしている。
興味がわかずにはおられない。
おいおいゆっくりと昆虫の話とともに聞いていきたいと思う。





10分クロッキー B3




私の番になる。
釜芸で2コマ持つことになった報告をみんなにする。
10月13日と12月1日。(日曜日)
どちらもココルームの前のカマン!メディアセンター。10時から
みんな驚いた様子。それはそうだろう、名のあるものでもないし。
名は後から付けばよし、付かなくてもよし。
そんな具合でいきたい。
假奈代さんがどういうワークショップになるのか質問してきた。
今のところ2人一組で似顔絵を考えている。
相手の話を聞いて、それをイメージして絵を描く。
交代は10分おき。その間に絵の具が乾けば申し分ない。
そんなことを話した。
そう詩の学校でやっている似顔詩のパクリである。
時間配分もあるので当日までに画材を含めて練って置かなければならない。
とても楽しみな時間になりそうである。



詩の学校 9月 Vol.3 へ続く





詩の学校 9月 Vol.1

2013-09-14 10:08:56 | デッサン・クロッキー・詩・音楽
前回 詩の学校 8月 IN 墓地 Vol.1


久しぶりの詩の学校に顔を出す。
なんかだいぶ時間が経っているような感覚だ。
多分、シンポジウムがあったり、夏祭りがあったりと
いろんなことがあったからに違いない。
久しぶりに顔をあわすと笑顔になる。
こんばんは。ども。
これだけでいい。
ここに来る人は基本、何をやっているかわからない。
どこに住んでいるのかも。本名かどうかも。
だからいい。
ひとりの人間として会話をする。





油彩 20分×4 F10




今日の集まりは少し少ない。
夏バテか。
今年の夏は異常に暑かったと口々に話している。
そういや今年ははじめて熱中症になりかけた。
何とか夏を越えられた。
時間となり、まずは近況報告。
假奈代さんが釜芸の話をする。
連詩をするコマがあって、とっぴもないことを書く人がいて、
それをうまくつながるように次の人が書いているのが面白かったと
ニコニコしている。ホント楽しんでいる様子。
横で覗き見したい。
自分は書かず、書いている人の後ろに行って、フムフムと言う。
ちょうどマージャンの手を見て楽しんでいるようにしてみたい。
そんなことを考えた。
次はHさん。この人は詩の学校の運営している人。
京都の洋食屋の店主。
京都から應典院まで長旅を毎月してくれる。
その彼、釣りにはまっている。



詩の学校 9月 Vol.2 へ続く





哀しみ Vol.5

2013-09-13 21:29:55 | デッサン・クロッキー・詩・音楽
哀しみ Vol.4 からの続き




絵は技術がすべて、無いものは文句を言うなと考えている人や
肩書きに憧れてぶつぶつ言うような人は
本当に絵が好きな人ではないと思う。
肩書きが低い人や技術が無い人を次元の低い人とみなしている。
技術が無い人でも本当に絵を描くことが好きな人もいる。
(それはアングルなどのように描きたいと願う人ではない)
描かずにはおられないというような人。
そんな人にはちゃんとリスペクトしなければいけない。
そういう人に向って俺のようにうまく描け、なんていうやつには
哀しみの色を絵に出せるわけが無い。
お金をたくさん稼げる、うまく絵を描けるというのは
本人の努力の賜物には違いないが、
才能がおおきに関係するのではないか。
生まれつき才能がある、生まれつきお金があるということは
別段、自慢できることではないと思う。
絵一本で、野球一本で、仕事一本で
そういう一筋縄で生きてきた人間はどこか大切なものが欠けていると思う。
ただし、途中で気付く人もいる。
そういう人は絵のかたわら、野球のかたわら、仕事のかたわらで
何かをしている。野球の普及のために野球教室をするという類のものではない。
そういうものではなくて、元阪神の赤星が盗塁の数だけ車椅子をプレゼントしたようなこと。
何かの肩書きから離れて、一個人として社会と向き合うこと。
そういう人が本物だと思う。
そういう人が哀しみをたくさんの人と共有できるのだと思う。













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哀しみ Vol.4

2013-09-12 04:42:36 | デッサン・クロッキー・詩・音楽
哀しみ Vol.3 からの続き



話を戻すとKさんのデッサン。けっしてうまいとは言えないが、哀しみの色がでている。
その哀しみは何かの決意を持ってのことか、
うまく描けない描けないと思っていることから来るものなのか
それはわからないが、すべてを開き直っていないところがいいと思う。
人の絵を見るときにはその絵を見てどういう気持ちになるかといつも考えている。
哀しい気持ちにさせるような絵はほとんどない。
手前味噌であるが、昨日ブログにアップさせた鉛筆デッサン。
少し哀しい気持ちを起こさせると思うのだが。
いや、しないって?
これはまだまだ修行が足りないようだ。(笑)
Kさんのデッサンも哀しい気持ちを起こさせる。
ずっと自分の絵を卑下しているので、
「そんなことはないですよ。Kさんの絵は哀しい気持ちに感じさせるので、
とてもいいと思います。そう感じさせる絵は少ないですよ。」
と言ってしまった。
周りはきょとんとしている。
そりゃあそうだろう。唐突に聞こえる。
それにほとんどの人が自分の技術を上げることにしか興味がないので、
おっさん、わけわからんこと何言ってん!
というようなことである。







技術がすべて、あとは遠吠えになるのか。いつも悔しい気持ちになる。
伝えたいこと、伝えなければならないことがあって、
そのために技術を駆使したり、表現したりするのが私の順序である。
だから、技術や表現は2の次。
技術は在れば在るほど邪魔にはならないが。ちょうどお金と同じようなものである。
技術のレベルが高い人間の方が優れているというのなら、
お金があればあるほど人格者ということになる。
それではもやもやとしたものが残る。
お金と絵の技術を一緒にするなという声もあろうかと思う。
お金を汚いものとして見、絵の技術は美しいものとして見ているからだが、
そういう貴賎のものの見方というよりも平たく同じ次元で見たほうが、
私にはわかりやすい。
人間の価値や絵の優劣はお金がたくさんある、高い技術があるというものではなくて、
今あるお金や技術をどう使うかである。
お金の場合には賛同する人はそれなりに多いのだが、
絵になるとそんな風に考える人は皆無に近い。



哀しみ Vol.5 へ続く






哀しみ Vol.3

2013-09-11 00:31:20 | デッサン・クロッキー・詩・音楽
哀しみ Vol.2 から続き



固定デッサンの途中、参加者のKさんがうまくいかないのでアドバイスを受けていた。
その中で「KさんはKさんの個性があるのでそのままでもいいと思う。
ゴッホもデッサンはへたくそだが、あれだけの芸術作品を残すことができた。」
というような言葉があった。多分、励ましの言葉だろうと思う。
ゴッホのデッサンはへたくそなのだろうか?
彼のデッサンはゴツゴツしている。滑らかな美しいデッサンとは違う。
でも、このくらいデッサン一つから日々の生活がわかるような絵を描く人が今の日本で何人いるのだろうかと。
いろんな公募展の絵を見てきたが、そういうものを描ける人はほとんどいない。
美しい絵、調和のとれた絵、色彩鮮やかな絵などたくさんある。
しかし、生活から滲みでたような絵はほとんど出会わない。
生活から切り離した絵や俺をほめてくれというような絵、商売用の看板みたいな絵が多い。
普段の生活はそんなことはないかもしれないが、
絵の中では他人に関心のない絵が多い。
しかし、絵で他人に関心のない人が普段の生活で関心があるのだろうか。
無いと思う。
人間というものは日ごろ思っていることが思考を支配しているのではなく、
何気に言った言葉や行動したこと、他には絵に描いたことなど
そういうものに影響され支配されるものである。
あの人は心にないことを言って誤解されている、生き方が下手な人だという人もいる。
たとえ心無い言葉でも言ってしまえば、そういう風になるように思考が影響されていく。
そして行動も言った言葉のシナリオどおり進んでいく。不本意であっても。
油絵だけでなくデッサンもしかり。
人間を描こうとしているのか、人体を描こうとしているのか、
じっと見ればわかってくる。





20分×7 鉛筆 4つ切
当日描いた鉛筆デッサン




うまく描こう、解剖学のつじつまがあうように。
そういうことで描いていくと人として見る感覚が薄れていく。
いつもその感覚を引き戻そうというせめぎあいをしているつもりである。
人として見る感覚をなくしていくのなら
人体としてうまくかけなくてもいい。
だからいつも同じところをグルグル回っているなとよく言われるのである。(^^:



哀しみ Vol.4 へ続く





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