goo blog サービス終了のお知らせ 

氷流日記

氷(筆者)と流さんの奇妙な徒然記

釜芸 131013 Vol.5

2013-10-22 07:07:02 | 氷流日記
釜芸 131013 Vol.4 からの続き




みんなのアドバイスをしながら右へ左へ移動する。
中でもウェイさんの絵がよかった。
普段は自分がよかったらいい、他の人は気にならない、
個性が大事と言う。
よく描く絵はみかんやら芋やらものの形からイメージする世界。
今日は人の絵を描くというお題があり、
自分勝手に出来ない。
自分勝手にやろうとしてもそこまでの時間もない。
自分の分野じゃないんだけどとぶつぶつ言いながら素直に絵を描く。
出来上がった絵を見てびっくりした。









技術というものはないのであるが、
よく人物観察をしている。
自分の個性を捨てている。
そしてうまく見せたい、
見られたいという心もない。
これだけの仕事をする人間が他人を気にならないと言うのは
おかしい話である。
プロでもこれだけの人物でにじみ出るような絵を描く人は少ない。
みんなお人形さんか、うまく見られたい、ほめられたい、
そんなうるさい絵が多い。
(絵は高く売れると思うのだが)
ウェイさんは人物を描く、人を描く素養を持っている。
どこかの展覧会で賞をとるとか、絵がバンバン売れるとかのものではなく。
人体ではなく、人格を見て描く絵描きは
ウェイさん、師匠の小灘先生、そして私含め、
売れている画家、有名な画家、一般の絵描きの中で
5、6人くらいしか私は知らない。
ほとんどの人が人体の骨格を描いてから余裕があれば人柄を描く、
または個性を出すために自由に好きなように描く、
そんな人たちが多い。
ウェイさんがそういう人間であったということを知るだけでも
有意義な時間であった。



釜芸 131013 Vol.6 へ続く







釜芸 131013 Vol.4

2013-10-21 07:17:18 | 氷流日記
釜芸 131013 Vol.3 からの続き



そういう馬鹿な解説を交えながら一枚のA4用紙を完成させる。
たっぷり1時間かかる。
予定では40分くらい終わって、たっぷり似顔絵を描く時間をとるつもりでいた。
あと1時間。
最後の感想とか発表会とかの時間が必要なのでゆっくりできない。
8分を3回ずつ、お互い描いていく。
ペアになった一人が描くときには、もう一人はじっとしてモデルになる。
8分経てば選手交代。モデルになっていた人が描く番が回ってくる。
それを3回まわす。
普段はモデルになったことがない人ばかり。
描くよりもモデルになることに戸惑う。
そこまでじっと人に見られることがないからである。
見られることに慣れているモデルは心を殺せる。
慣れていないみんなは心がそのまま表に出る。
それがいい。
じっとしてお人形さんみたいな人を描くよりも、
意思を持ってじっとしている人のほうが数段いい。







私もこのところ大きな作品を描くために
描いている。
私のモデルになった人は私の彫刻を制作している。
私は動いているモデルをクロッキー。
できるクロッキーは子供の落書きよりひどい。
まだ動いているものを抽出できるまでの力はない。
だが、モデルの圧力は感じるし、
その人の個性も感じ取れることができる。
何よりお互いモデル代がかからない。
そんな思いで似顔絵を描いてもらう。
そうするとどうだろう。
がたがたに描いた絵でもちゃんと比率内に収まるようになっている。
これは驚いた。
ほとんど描いたことが人は比率や位置がむちゃくちゃ。
それを少しでも少なくしようと考えてやったのであるが、
思った以上に効果が出ている。
みんなはどう思っているかわからないが、
一人悦に入る。
ええやん。
形を描くのにいっぱいの人には
形の取り方、A4の解説を思い出すようにもう一度同じことを話す。
ある程度、形の取れている人には影の取り方や骨の位置を解説していく。
「目は白目を目立たせないように全体に暗く」
「鼻の下は影が濃いところなので他よりももっと濃く」
「頬骨の影を描くと顔がシュッとしますよ」
など言ってジェスチャーを交えて話していく。
楽しいひとときである。



釜芸 131013 Vol.5 へ続く




釜芸 131013 Vol.3

2013-10-20 04:45:51 | 氷流日記
釜芸 131013 Vol.2 からの続き




そういう彫刻的アプローチと視覚的アプローチの感覚的な違いを話した後、
二人一組になってお互いを描きあう似顔絵に挑戦していただいた。
その前に顔を描くのがはじめてという人もいるので
丸と四角から顔の比率を覚えてもらうメソッドを考えた。
A4用紙に丸と四角をあらかじめ印刷しておき、
直線を描いていって比率や頭蓋骨の形を遊びながら学べるようにした。
はじめは私のお嫁さんに構想を話す。
口で言われるように描けないのでペラペラ漫画にしろと。
それから子供たちに実験してみたらとアドバイス。
それは面白いと思い、その日のうちに試作をつくり試してみる。
初号機完成。
するといろいろと問題点が浮き彫りにされてくる。
家族を上げてのブラッシュアップ。
本業の仕事で力を入れているわけでもなく、
かといって副業でお金を稼いでいるわけでもなく、
ただ酔狂なものずきが趣味でやっていること。
そんなことを家族総出をあげて応援してくれる。
こんな楽しいことはない。
改良点を2つ加えて当日、みんなに描いてもらう。
それでも問題点はたくさんあった。
ひとつは参加人数が8名程度だと高をくくっていたこと。
もうひとつは線を描くにも好き勝手に描いていること。
デコの線を描いて下さいと言っても
勝手に目を描いてみたり。
比率を勝手に変えて変えてみたりと。
何しろ脱線しっぱなしなので思うようには進まない。
極めつけはANさんの絵。
ピカソ顔負けの絵になっていく。
自由すぎる。







自由すぎるが一生懸命私に合わせようとする。
あわせようとするがあわせられない。
こんなやつのこと聞いてられないから勝手にやっているという人は一人もいない。
一人くらいいてもいいのだが、それは一人もいない。
しかし、結果はそんな感じ。
だから怒れないし、そこまで一所懸命になってくれると有難うと言いたくなる。
そして、みんなにわかるように楽しく構造を解説していく。
解説書にある美術解剖学では骨がこういう形になって
その上に筋肉がのってとか難しいし、
私も正直わからない。
だから、小学生の図鑑に載っているような簡単な解説。
下手をするとそれにものっていないような解説をした。
例えば、鼻をあらわす長方形を描いた後、
その長方形の底辺部に上向きの小さな三角形を描く。
鼻の天辺と形を表す。
鼻が上に向いて少し上がっていることを知らない人は意外と多い。
だから、その解説に
「鼻は匂いを嗅ぐのもですね。
鼻がもし下を向いていたら匂い嗅げないですよね。
だから匂いを嗅げるように上向きになっているんです。
それと口のように体のすぐ近くに穴があいているようだと
嗅いでも自分の匂いか他の匂いかの違いがわからなくなります。
だから、鼻はほかの部分よりちょっと高くて上向きになっているんです。」
とてもばかばかしい解説だが、
自分にとって理にかなったことであり、
腑に落ちるところである。



釜芸 131013 Vol.4 へ続く









釜芸 131013 Vol.2

2013-10-19 05:31:42 | 氷流日記
釜芸 131013 Vol.1 からの続き



とりあえず、みんなで自己紹介。
その後、私のデッサンを紹介する。
視覚的デッサンと彫刻的デッサン。



視覚的デッサン




彫刻的デッサン


視覚的デッサンはバックとの融合を図り、
あいまいなところはあいまいなままでデッサンする。
光と影で光を感じるように描き起こしていく。
一方、彫刻的デッサンはバックはあまり意識せずに
人体の凹凸を感じるようにデッサンしていく。
私は常に視覚的デッサンを描くようにしてきた。
たまには物の形を理解するために彫刻的デッサンもしてきたが、
基本的には視覚的デッサンを選んでいる。
なぜか。
一時、彫刻的デッサンを描いていた時期があるのだが、
モデルを人とは見ずに人体としてみていることに気付き、
違和感を感じて彫刻的デッサンは好んでしないようにした。
考えるに彫刻的に進めると一つ一つの筋肉の凹凸が気になってくる。
それを追うように描いていくと
人との違いばかり気になって仕方なくなってくる。
いわゆる揚げ足取りのような感覚である。
人との違いに焦点をあてていくと、
つながりの部分を無くしていき個というものが際立ってくる。
個性として理屈は通るのだと思うのだが、
他のと違いを鮮明にするからこそ戦争も差別も発生する。
視覚的にするとバックとの融合で必ずあいまいなグレーゾーンが出来てくる。
デッサンも骨格を描いて、人物の差異というものをあまりはじめから描かず、
煙のように薄く薄く描いていく。
そうすると人との共通の部分、自分との共通の部分を見ていくので
人体の差異を認めるがあまり強調することはしない。
彫刻的をミケランジェロとすると
視覚的はダヴィンチである。



釜芸 131013 Vol.3 へ続く



いろいろ Vol.4

2013-10-18 05:53:12 | 氷流日記
いろいろ Vol.3 からの続き



絵を描くことが最終でなくて始まりなんであるが、
これが曲者。
これをやると食えなくなる。
じゃ俺たちは食えなくていいのかと反論はあるかと思う。
だから、食うための絵を描くことにためらいはないだろう。
でも。
毎年、個展をするために描く絵と展覧会に出す絵。
違う絵を描く。これでつじつまがあうのだろうか?
本当の自分は展覧会に出す絵であって
個展を出すときは違う自分。
日銭を稼ぐ絵。
そういう割り切り方をしてもよいのだろうか。
絵での話、美術界の話では通用する。
じゃ、これを一般の社会に当てはめてみよう。
こういう商売スタイルをする人は必ず嫌われる。
学校でもそう。
いいとこ取りで自分中心は鼻つまみになる。
それが嫌がためにその部分だけはうまく人付き合いして、
腹の中では違うことを考えている。
それはそれで銭を稼ぐためには、
図太く生きるうえでは、
必要なのかもしれないが、
それではどこに絵心があるのだろうか?
絵心がないのにそれらしき絵を描いて、
理由は後でこじつけている。
本人もそのことには気付かない。

食うために生きるのではない。
生きるために食うのだ。
そういったのはかのソクラテス。

この言葉を借りると

絵を描くために生きるのではない、
生きるために絵を描くのだ。

そう訴えてくる絵は少ない。
個展と展覧会の絵は出すなら同じであって欲しいと思う。
世の中銭やという絵心でもいいが、
それだけ割り切っていると逆に気持ちいい。

おい!そんなご託は絵がうまくなってからにしろ!
そんなふうにどやされるか。
絵がうまくなってから考えていては
何のために絵を描くのだろう。
デッサンがうまい連中にこういう人たちがいる。
(デッサンを筋トレと考えている人たち)
絵がうまくなれば描きたいものが見つかる。
そう思っている人たちがたくさんいる。
まわりのみんなも同調してうなずく。
描きたいものってどこかから運んでくれるのだろうか?
ゴッホの絵はいろいろと考えさせられる。