過去に生きる者たちへ

昔書いた記事

電解鉄考2 軍装品マニアHP「日本刀の精神と武の心」に対して

2011年04月16日 | 日本刀に関する虚偽を正す 軍刀HP批判

 刀鍛冶が自分から電解鉄を使いましたなどと言う訳がないから、現代刀匠で誰が電解鉄を使っているかは判らないし、使ったとしても、炭素量の調整や玉鋼と混合したりしているだろう。だが研究熱心な刀鍛冶なら色々な鉄を試すのが当然だろうし、客としても古釘や鉄瓶を卸して使われるよりは気分的に良いのではないだろうか。自分の愛刀が使い古しの薄汚い鍋から出来てまいす、と言うのでは、何か安っぽい気持ちになる。
 確かに、日刀保玉鋼に古釘を混ぜると、言わば隠し味のような効果があり、鉄の味わいが増すとも言われる。しかし人間国宝の月山貞一はそうしたことを嫌っていた(『日本刀に生きる』)。

 宗勉も試行錯誤を重ねただろうから、当然、電解鉄を使っていると考えられる。
 実際、研ぎ師に言わせると宗勉の作品の研当たりは様々で、非常に柔らかいものもあれば極端に固いものもあるという。が、清麿写しや助広写しは極端に固く、玉鋼の研当たりとは違うようだ。
 商売人が宗勉を人間国宝より上などと言うのはとんでもない大嘘である。あんなに固い地鉄では名刀とは言えない。月山の作品と並べて見れば判る。勿論、清麿、助広とは大違いである。やはりあの固さが電解鉄の特徴かもしれない。
 しかし刃中の沸の表現が見事なのは事実で、この点は現代刀の中ではずば抜けている。その沸に魅かれたのか、研ぎの人間国宝・藤代松雄も宗勉の作品を買ったそうだ。
 先日、宗勉の作品が昭和時代と平成時代で違っていると書いたが、電解鉄は昭和時代から使っていたはずだ。作風の変化はそれまで使っていた電解鉄が手に入らなくなったからではないだろうか。1990年代に鉄鋼業界の世界的な再編あり、多くのメーカーが統廃合された。廃番になった鋼材も多いだろう。

 しかし臭いものに引かれると言うか、好んで蛇の道を行くというか、趣味の世界には変な物だから好きという人はいるもので、玉鋼は悪い、この刀は玉鋼を使ってない、だから良い刀だと言う人までいる。例の軍装品マニアの扇動に煽られた人達だ。
 ここまで来るともはやフェティシズム(物神崇拝)である。
 日本刀は玉鋼だけでなく、和銑からも作られて来た。清麿、行秀は銑卸しで作りましたと自分で言っている。逆に玉鋼に拘る刀鍛冶もいる。人それぞれ目指す作風が異なるのだから、それが当たり前ではないか。

 軍装品マニア氏の日本刀論は、各種文献から自分に都合の良い説だけを寄せ集めたもので、反証的事例には触れていない。
 例えば、

>小倉陸軍造兵廠の強度試験で、刀剣展で最高入賞をした刀匠達が造った玉鋼・二枚構造 32刀の中、12刀 (40%弱) が実用に堪えられない刀身だった。刀身地刃の美と、刀身性能は全く無関係であることが実証されている。

>尚、二枚構造の満鉄刀は厚さ五厘(約1.5㎜)、幅一寸(約3㎝)、長さ六尺の軟鋼板を重ねて四枚まで切断し刃こぼれも刃切れも生じなかった。兜とは違うが一種の斬鉄剣と云えよう。

>満鉄刀の凄みは一刀だけの例外では無く、全製品が均質に同じ性能を備えていたことにある。

>この事からみても、新々刀に準拠し、且つ、刀の根本条件を欠落させた現代刀の性能が如何なるものかは言を俟(ま)たない。

>山田英氏は「新々刀、現代刀の鉄質は肉眼には緻密細美と見えても、その実、日本刀としては最劣等の粗質である」と述べている

>新新刀最後の刀匠・羽山円真の洋鋼(東郷ハガネ)一枚鍛えの刀は見事に兜を裁ち切り、同田貫や虎徹に匹敵する強靭さを発揮した。

(以上http://ohmura-study.net/012.html「斬鉄剣と現代刀」より。)

 吉原義人はどうなるの? と思わず言いたくなるが、軍装品マニア氏は都合の悪い反例は出さないのである。
 小倉陸軍造兵廠の強度試験に関して。玉鋼・二枚構造 で作られた刀が、32振り中12振り不合格だったということであるが、ということは20振りが合格した訳だ。この試験で、何をもって「実用に耐える」とされていたのか、引用箇所からは判らないが、この試験が科学的なものだったとすれば、折れたり曲がったりするまで機械で力を加えて試験したはずだ。ならば数字的にかなりシビアな力が加えられただろう。つまり刀に対してあり得ないほどの非現実的な力が加えられたはずである。それで20振りが合格したなら上々ではないだろうか。
 また自説を補強するために山田英の言説を援用したり、東郷ハガネ一枚鍛えの羽山円真を持ち上げて、非難の矛先は新新刀にまで及ぶ。

 軍装品マニア氏が引き合いに出す羽山円真は源清麿の弟子の源正雄の弟子。清麿の孫弟子である。軍装品マニア氏の引用にあるように、洋鉄鍛えで有名である。ところがその円真は、「私は誰にも頭を下げたことがないが、左行秀の人格と技量には頭が下がる」と言っている(『日本刀の掟と特徴』本阿弥光孫 美術倶楽部刊1955 P.435)。つまり円真は決して新新刀期の作り方を否定していなかったのである。

 円真が洋鋼を使ったのは、明治になって我が国の製鉄産業が溶鉱炉で行ういわゆる洋鉄の時代となり、単に和鉄が手に入り難かったからである。
 また明治になって新新刀期の刀鍛冶は殆どが失業を余儀なくされた。円真も居合い抜きの大道芸で生計を立てていたようだ。だから東郷ハガネを使ったのは、大道芸を見せて商品としての刀を売らんがための方便だったと考えるのが妥当だろう。見世物小屋で売る商品に貴重な玉鋼など使える訳がない。更に日清・日露戦争の勝利によって軍国主義と日本刀が結び付けられ、俄かに日本刀のブームが起きた。円真はそうした時代の機運に乗っかっただけなのである。円真に何らかの作刀上の信念があって洋鉄を使ったのではない。
 実際には円真は、東郷ハガネ一枚鍛えなど、日本刀とは程遠い詐欺商品だと後ろめたい気持ちでいたと推量される。
 また軍装品マニア氏は東郷ハガネ一枚鍛えの円真刀が兜を裁ち切ったと言うが、文字通り真っ二つにした訳ではあるまい。作者が同じなら、玉鋼で作られた刀でもそれ位の切れ味は出せるだろう。
 
 ところで羽山円真が師匠の源正雄を差し置いて尊敬する左行秀は、切れ味のみならず、その芸術性においても古刀に比肩する名人である。
 行秀は江戸時代に発刊された『新刀銘集録』の題四巻で自ら筆を採り、「自分の作品は相州伝の本三枚を旨としています」と言っている(『左行秀と固山宗次』片山銀作 P.17)。
 行秀の時代は幕末騒乱期なので実用刀が求められた。そこで、「刃鉄は鋼を卸し、地鉄は銑を卸し、心鉄も含めて全て卸し鉄の剛毅な所だけを使っています」という(同)。更に、「世間では新身を研いで研返りするもの(砥石の当たりが堅い刀)は鈍刀と言われていますが、これは間違いです。(砥当たりが軟らかい)刀は最初は良くても、使い込んで刃先が一分ほど研ぎ減ると、憂うべき事態となります。故に私は、常見寺(砥石の種類)で刃付けをする時、研返りすることをもって刃味の妙と心得ております。」と細心の心配りをしている(同)。
 今斬れれば、その切れ味に満足してしまう人が、当時も多かったのだろう。だが行秀は、使い込んで研ぎ減った時の事まで考えて作っている。

 日本刀を武器として捉えている軍装品マニア氏は、行秀の言葉をどう理解するのだろうか。

 軍装品マニア氏は上掲URLの同じ箇所で、

>刀への畏敬の念、辟邪の願い、守護の祈りは日本刀の根本である武器性能に端を発している。

>刀身の美は基本性能を支える鋼材や造り込みの刀身の裡(うち)から滲(にじ)み出て来るものである。

 と言っているが、それは今切れて、その場の切れ味にのみ目を奪われている者の、表面的な理解ではないだろうか。日本刀を武器として捉えた場合でも、軍装品マニア氏の日本刀論は表面的な切れ味しか見ていないのである。

 羽山円真が自分の師匠を差し置いてまで行秀を評価しているのは、そんな表面的な切れ味とは一線を画した、持ち主を一生守り、更には子々孫々まで守り抜く、護りの刀を行秀が作っていたからである。
 やはり日本刀の精神は攻撃にではなく、護りにこそあるのだろう。またそれが武の心であると思われる。
 攻撃にしか目が行かない軍装品マニアに、かかる日本刀の精神が理解できないのは当然だ。彼のHP旧日本陸海軍・軍刀http://www.h4.dion.ne.jp/~t-ohmura/には、武の心は微塵もないと断言できる。

 最後に、行秀はこうも言っている。
 
 「美観だけで人を驚ろかし、武用には向いていない刀もある。(その反対に)焼刃が狭く地鉄が広い刀は折れ難く、曲がり難いのは確かだ。だからと言って武用専一の刀を作っても─その事自体は悪くはないが─、そんなものは古の名刀と少しも似ていない仕儀となり、下作賤刀と貶されることになる。
 私は(単なる武用専一の刀ではなく)焼刃の光景、氷雪の如く、散雪の如く、しかも折れも曲がりもしない刀を作る。火加減中庸を得て、沸・匂が適切に現れたものなら全く心配ないからだ。
 これを私は水月の伝と言う。
」(同)

 だから行秀は「水月」を目指した。
 行秀の言葉は様々な解釈が可能だろうが、一介の職人にもあったこうした感性こそが、日本精神であり、武の心なのだろう。






コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

馬鹿は電解鉄を語るな 軍装マニアHPの悪影響

2011年04月13日 | 日本刀に関する虚偽を正す 軍刀HP批判

 電解鉄という言葉は日本刀愛好家の間では有名だ。しかし日本刀における電解鉄について、正しい意味を知る者は少ないようだ。
 例えばこんな素朴な疑問がある。
 教えてgoo 質問番号:4537403 http://oshiete.goo.ne.jp/qa/4537403.htmlより

 「こんにちわ、
  日本刀素材についての質問ですが
  電解鉄を使った日本刀は、試し切りなどに
  耐えられないのでしょうか?
  現代刀はみな電解鉄を使用して作刀されているのでしょうか?
  玉がねを使ったものより品質は落ちるのでしょうか?
  電解鉄とは、どのようなものなのでしょうか?

  詳しい方おねがいします。

  質問番号:4537403」

 これに対する回答は引用URLを参照して頂きたいが、全て一般論であり、日本刀における電解鉄とは何かの回答にはなっていない。正解を言う前にJIS規格における電解鉄の定義を以下に示しておく。

 JIS規格番号:1101

 用語: 電解鉄

 定義:鉄塩水溶液の電解によって得られる純鉄。
    通常、含有される不純物元素は炭素0.005%以下、けい素0.005%以下、マンガン    0.005%以下、りん0.004%以下、硫黄0.005%以下である。
    対応英語(参考):electrolytic iron

 ここで言われている純鉄とは、

  JIS規格番号:1100

  用語: 純鉄

  定義:炭素その他の不純物元素が非常に少ない鉄。不純物元素の限界についての明     確な区分はないが、炭素含有量0.02%程度まで純鉄と称されている。
     電解鉄、アームコ鉄、カーボニル鉄、還元鉄は、純鉄として取り扱われてい     る。
     対応英語(参考):pure iron

 こうした定義から上掲URLでは回答者NO.1が、

 「電解鉄は純度が高い鉄です。純度が高いですから硬くない。刀は作るのは無理だ」

 NO.2が、

 「自分には刀剣趣味は無いので、刀剣の品質というモノが何を指すのか判りません  が、材質から考えますと・・・純鉄のヘナヘナ=腰が無いという性質では、合金鋼史 上屈指の高級鋼である玉鋼の足元にも及ばないでしょう。」

と回答し、更に次のような注目すべき指摘をしている。

 「尚、純鉄は磁気抵抗(磁束が磁性体内を通る時の抵抗)が極端に小さく、永久磁石 モータのバックヨーク(磁石が固定されている部分)に使うと永久磁石の磁力の経  時劣化(減磁)を軽くする効果があるなど、純鉄独特の『使い方』があります。刀  剣としては役立たずでも、純鉄自体が悪いワケではありません。」

 かかる性質がある故に、日本刀制作においては表現の自由度が飛躍的に拡大し、所謂電解鉄を使う者が後を絶たない。要するに電気抵抗が低い訳だから、熱伝導性も高く、熱によって鉄を操作する刀作りには向いているのである。

 これらに対してベストアンサーに選ばれたNO.3の馬鹿が得意げに薀蓄を披露し、

 「問題なのは、日本刀に関する虚構が世間の隅々に浸透していることです。刀剣界の 常識は殆ど嘘だと言うことです。洋鋼は不純で和鋼(玉鋼)が最も優れているとか、日 本刀は玉鋼で造られる言うのが虚構の典型です。ここでは紙面の都合で詳しいことが 書けませんが、下記のサイトをご紹介しますのでご覧下さい。」

 と言って例の軍装品マニアのHPを宣伝している。
 馬鹿は死ななきゃ治らないと言うが、日本刀の何たるかを知らない者が鉄を語ると質問者やNO.3や軍装品マニアのようになる。
 日本刀において、斬るとは殺すということだ。こういう馬鹿共は殺すということの何たるかも判っていない。
 人殺しに必要なのは武器ではない。殺すという強い意志だ。
 命が懸かった戦いには強い精神力が必要だが、道具に頼っていてはその強い精神力が育たない。戦い抜く強い精神力が先ずあり、武器は二の次だ。勿論実際に殺してしまっては殺人者になってしまう。だが、殺すという強い意志で向かってくる敵を撃退するには、それ以上の強い精神力がなければならないのである。そういう精神力は、身に寸鉄も帯びず、素手で人を撲殺できるだけの体力と気力があって始めて成り立つ。先ずは己の心身が鍛えられていなければならないのである。刀の切れ味に拘るのは腰抜けの証拠である。

 今日は結論だけ言っておくが、日本刀制作で重宝されている電解鉄とは、日本鋼管が薬師寺の修理に使う釘の素材として開発した電解鉄、商品名NKK-SLCM1990のことである。これは白鷹幸伯の依頼で作られた。
 
 白鷹の話。
 「古代の釘は、砂鉄を原料に、たたらという技法でつくられ、純度は99%以上あり、錆びにくい。しかし、高炉で大量生産される現代鉄には不純物が多く、腐食とともに 釘の機能を失ってしまう。また、炭素割合の加減で、硬すぎるともろく、軟らかすぎると木に打ち込めない。
  釘に適した高純度鉄をどうやって入手しようかと頭を抱えていたところ、大手鉄鋼メーカーNKK(現JFE)が、貴重な文化遺産を守る有意義な事業だとして、炭素の含有率が0.1%の古代鉄に近い高純度鉄(SLCM材)を製造し、採算度外視で用意してくれた。」http://irc.iyobank.co.jp/topics/close-up/no084.htm

 玉鋼に電解鉄の扱い易さが加わった鋼である。






コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

軍装品マニアの流し目に対して

2011年04月10日 | 日本刀に関する虚偽を正す 軍刀HP批判

 昨日に続き、軍装品マニアのHPの日本刀論http://www.k3.dion.ne.jp/~j-gunto/gunto_028.htm
より、思う所を述べてみよう。

 日本刀の制作方法であるが、実際には刀鍛冶は様々な方法を試行している。しかしその目的はあくまでも日本刀を作ることにあり、軍装品マニアの幼稚な発想とは志において全く異なっている。
 例えば人間国宝・隅谷正峰は、自家製鋼をしたり、折り返し回数を0~29回まで変えてみるなど、様々な作り方をしていた。しかしその目的は切れ味の追求ではなく、美しさの追求にあった。刃物としての切れ味を求めたものではない。上掲のHPで紹介されている切れ味だけを追求した刀鍛冶とは志が違うのである。
 世の中には試し斬りや居合い用の刀を専門に作っている刀鍛冶もいるかもしれない。だが日本刀とはそんなお遊びの道具ではない。そんな物は日本刀ではなく、試し斬り刀、居合い刀という玩具なのである。刀鍛冶はそんな玩具を作っていると本物の日本刀が作れなくなる。日本刀制作に求められる感性が劣化するからである。

 言うまでもないことであるが、日本刀の目的は美の実現にある。美を追求することのみが、刀鍛冶の仕事なのである。
 ただ切れれば良い。そんな甘ったれた精神の対極にあるのが美である。なぜなら美とは有機体だからだ。
 有機体とは、自己を目的として自己を組織して行くシステム、いわゆるオートポイエーシス・システムである。
 美が有機体であるというのは、美とは単なる物として存在しているのではなく、物が人間の美意識と結び付くことで、初めて美しい物として認識されるということである。
 芸術における美とは人間の意識が作り出す現象であり、自然の産物ではあり得ない。
 美とは人間の美意識が物と融合し、物が人間の意識において「美しい物」として組織化されるオートポイエーシス・システムなのである。
 そこに有機体と美とのアナロジーがある。

 勿論美意識には個人差がある。同じ対象を見ても、そこから感じられる美のあり方は見る者によって異なっている。しかし美しいものには美一般としての人類共通の普遍性がある。この普遍性を「世界の目的」として位置づけ、哲学的に考察したのがカントだった。『判断力批判』における「美的判断力の批判」は、我々が日本刀から感じ取る美の構造を余す所なく述べていると言えるだろう。刀剣鑑賞に熟達したければ『判断力批判』を読まねばならない。

 要するに美の認識は主観的だが、そこには人類共通の普遍的価値がある。日本刀を通して認識される美には、主観と普遍が総合されている。だから日本刀は芸術として認められているのである。それは我々の意識に潜在する普遍的な価値を触発する、一つの有機体なのである。それゆえ日本刀は単なる刃物ではなく、生命を持った何かのように感じられるのである。

 その上、日本刀には生命を奪う威力がある。
 美しさを追求した結果として、生命を奪う威力にまで行き着いたということだ。
 切れ味を目的とした結果として美しくなったのではなく、最初から芸術として美を追求し、その結果として生命を奪う威力を得たのである。
 これが日本刀の美である。そしてこれだけが日本刀における美なのである。
 それは視覚的な美しさを超えて、鑑賞者の生命的存在に脅威を与える物理的・力学的な美である。
 この美を『判断力批判』に即して定義すれば「崇高」という事になるだろう。

 日本刀の周辺には下劣さが渦巻いている。が、その核心を形成するものは崇高である。日本刀に興味を持った者の多くが、実際に日本刀を購入する段階で下劣な刀剣商や職人に会い、幻滅して離れてゆく。それでも日本刀に魅かれる者が後を絶たないのは、その核心に崇高があるからだ。八岐の大蛇の体内に天叢雲剣があるようなものである。
 人間はただ生きているだけでなく、崇高に生きたいと欲する。その人類普遍の価値に応えてくれる物こそ日本刀なのである。






コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

軍装品マニアの流し目

2011年04月09日 | 日本刀に関する虚偽を正す 軍刀HP批判

 世の中には様々な趣味がある。今回批評するのは軍装品愛好家のHPである。http://www.h4.dion.ne.jp/~t-ohmura/

 始めに断っておくが、私は軍装品愛好家に対して悪意はない。しかし問題なのはこのHPが軍装趣味を逸脱して、日本刀に対して現実離れした観念論を押し付けていることである。http://www.k3.dion.ne.jp/~j-gunto/gunto_028.htm

 文字が重なり合っていて判読できないページもあるが、要するに、折り返し鍛錬や皮鉄と心鉄を組み合わせる日本刀の作り込みはナンセンスであると言っている。のみならず、無鍛錬で素延べ、ないし鋳造が古刀の作り方だったと主張している。
 確かに日本刀の長い歴史の中では様々な作り方が試行されただろう。そんな作り方があっても不思議ではない。だがこのHPの筆者の主張は、日本刀の本質とは別の所で為されている所に問題がある。

>折返し鍛錬は基本的に鋼の強靱性と関係ない。
>鋼質に依って靱性の向上がある場合でも、その効果は微々たるものである。これは「鋼の層が増える」から強靱になるのではなく、炭素量の減少に伴う鋼の「軟化」が要因である。
>日本刀の特長とされる折返し鍛錬と強度の妄想は訂正されなければならない。
>現在に至るも、刀剣書等は折返し鍛錬と強度の妄想を流し続けている。妄想でなければ、明確な論拠を示すべきであろう。論拠も無い情報を安易に垂れ流すのは止めるべきである。まして、折返し鍛錬を日本刀独自の手法と強調するのは無知を曝すだけである。

 等々、鼻息が荒い。
 鍛錬の目的は鋼の炭素量の調整と不純物の除去にある。その目的を果たすには折り返し鍛錬するしかない。また折り返し鍛錬によって鉄に粘りが出て来るのは、刀鍛冶なら日常的に経験していることである。だが20回以上も折り返すと逆に脆くなってしまう。炭素量を下げ過ぎずに不純物を排除する所に刀鍛冶の苦労がある。その適性な回数は10~14,5回と、経験的に知られている。単に良く切れて折れにくい刃物を作るだけなら4,5回折り返せば十分だ。
 また我が国では釘だって折り返し鍛錬していた。目的に適った強度を持ち、長持ちするものを作るとなると、日本刀であろうが釘であろうが、折り返し鍛錬が必要なのである。微妙な炭素量の調整と不純物の除去は、折り返し鍛錬でしかできないからである。
 このHPの筆者は、「折返し鍛錬を日本刀独自の手法と強調するのは無知を曝すだけである。」と言っているが、今日、折返し鍛錬という手法が残っているのは日本刀だけではなかろうか。その意味で日本刀を語る時、折返し鍛錬が強調されるのは自然なことである。このHPの筆者の方こそ無知なのではないだろうか。

 刀剣制作に限らず、古代・中世の技術は人間の感性に基づくものだった。それが最も信用できたからである。例えば建築でも、物理学や力学の知識ではなく、大工の感性を頼りに設計し施工された。それで千年以上前の建築物が、地震や台風に耐え、現代に残っているのである。
 否、現代の高層ビルのようにコンピューターを使って設計されたものでも、建築資材には数メートルもの誤差を見込み、実際の施工に当たっては大工が現場で自己の感性に従って調整しながら組み立てている。職人仕事というものは理屈ではなく、経験的な感性に依存するのである。
 何が最も良いかは、作りながら決められて行くのである。その中で最も確実な方法が、伝統的な職人の仕事として今に伝えられた。日本刀などはその筆頭であろう。
 従って、多くの刀鍛冶が行っている方法こそ、幾多の試行錯誤で踏み固められた、日本刀作りの最も確実な方法なのである。このHPの筆者は日本刀を大量生産品と勘違いしているようだ。日本刀はベルトコンベアで運ばれてくる部品を組み立てるのとは訳が違うのである。
 一方で、 

>群水鋼では、折返し鍛錬して心鉄を合わせた刀も、素延べの刀も性能は同等だった。

 と自ら述べておられる。
 性能が同等なら尚更、日本刀特有の芸術性や品格は折返し鍛錬して心鉄を合わせることでしか創り出せないと言えるだろう。
 日本刀を単なる武器ではなく、芸術品にするための方法。それが今日刀鍛冶が行っている作刀方法である。それは一個人が案出したものではなく、鉄を鍛える歴史の中で、幾多の鍛冶の感性が尺度となって確立されたものだ。軍装品マニアの空想が及ぶ世界ではないのである。

 言うまでもないことだが軍刀と日本刀とはその寄って立つ土台が違う。軍刀とは英語で言えばアーミーナイフ。軍装品の一部だ。旧日本軍の軍刀も、軍用ナイフに分類できるだろう。だから軍刀が日本刀である必要はなく、直刀であろうがククリ状であろうがステンレス製であろうがギザギザのセレーションが付いていようが構わない。一方、日本刀とは様式的には平安時代末期に成立した湾曲した刀のことで、それ以前の直刀とは区別されている。更に中世の日本の歴史・文化の中で象徴的な意味を持つものが日本刀である。それは最初から芸術として作られた刀剣だった。

 芸術とは政治・宗教・権力の象徴として、その時代の支配者の価値観で作られるものである。洋の東西を問わず、古代・中世において、政治と宗教こそが即ち権力であり、権力には権威が求められた。その権威を表す手段が即ち芸術なのである。
 古代・中世における芸術とは、建築、音楽、絵画、彫刻、等であるが、それらは政治的・宗教的権威の象徴だったのである。古代・中世には政治・宗教から離れた芸術など存在しなかった。そして日本刀は中世の日本を支配した武士階級の価値観の象徴として存在していた。従って日本刀は芸術以外の何物でもないのである。

 そのような古典的な芸術にはお金が掛かる。例えば今日では誰でもコンサート会場でクラッシック音楽を聴くことができるが、それを演奏する会場や楽団は国家から補助金を貰わなければ維持・運営できない。日本刀も国からの補助金がなければ新たに制作するのは不可能だろう。例えば日本刀制作に必要な玉鋼は国の補助金で造られている。それでも玉鋼の値段は一般の鋼材よりも高価だ。国の補助がなければコストの面で新作刀の制作は極めて困難になるだろう。かように日本刀とはお金の掛かる芸術なのである。

 一方、軍装品は芸術の対極にある。まずコストが安くなければならない。

 そうした成り立ちの違いを無視して日本刀と軍刀を同列に論じるのは倒錯と言わねばならないだろう。
 旧日本軍時代、軍刀とは個人で用意するものだったはずだ。それに日本刀が使われていたのは、改めて刀を新調するより手持ちの日本刀を軍刀として用いる方が安上がりだったからだ。また先祖伝来の刀ならそれだけ心の拠り所にもなっただろう。このHPの筆者が愛してやまない軍刀としての刀剣は、軍装品としてのナイフ以外ではあり得ず、それならコストや機能の面から日本刀よりもナイフの方が高く評価されるべきだろう。実際、このHPの筆者もそのような論調で日本刀と軍刀を同列に論じている。
 しかしそんなものは日本刀ではない。

 このHPの筆者の主張がナンセンスなのは、高度な産業技術がある現代ならこのHPで良しとされている刀剣類など容易に作れるはずなのに、世界中どの軍隊もそんな軍用ナイフは採用していないという事実によって証明されている。
 どんな武器も時と所を得なければナンセンスなものになる。
 旧日本軍の軍刀も今日の戦場では役に立たないのではないだろうか。
 増してや軍刀の概念で日本刀を論じるなど、見当外れも甚だしい。
 現実を顧みれば、この筆者の言っていることは単なる夢想、現実離れした観念論でしかないのである。
 日本刀に対するこうした偏った思い込みは、真の愛刀家には迷惑である。このHPの筆者のように、使えてナンボの一物主義で日本刀に変な流し目を送られても、盛りのついたホモと同じで、気色悪いだけである。





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする