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過去に生きる者たちへ

昔書いた記事

軍装品マニアの流し目に対して

2011年04月10日 | 日本刀に関する虚偽を正す 軍刀HP批判

 昨日に続き、軍装品マニアのHPの日本刀論http://www.k3.dion.ne.jp/~j-gunto/gunto_028.htm
より、思う所を述べてみよう。

 日本刀の制作方法であるが、実際には刀鍛冶は様々な方法を試行している。しかしその目的はあくまでも日本刀を作ることにあり、軍装品マニアの幼稚な発想とは志において全く異なっている。
 例えば人間国宝・隅谷正峰は、自家製鋼をしたり、折り返し回数を0~29回まで変えてみるなど、様々な作り方をしていた。しかしその目的は切れ味の追求ではなく、美しさの追求にあった。刃物としての切れ味を求めたものではない。上掲のHPで紹介されている切れ味だけを追求した刀鍛冶とは志が違うのである。
 世の中には試し斬りや居合い用の刀を専門に作っている刀鍛冶もいるかもしれない。だが日本刀とはそんなお遊びの道具ではない。そんな物は日本刀ではなく、試し斬り刀、居合い刀という玩具なのである。刀鍛冶はそんな玩具を作っていると本物の日本刀が作れなくなる。日本刀制作に求められる感性が劣化するからである。

 言うまでもないことであるが、日本刀の目的は美の実現にある。美を追求することのみが、刀鍛冶の仕事なのである。
 ただ切れれば良い。そんな甘ったれた精神の対極にあるのが美である。なぜなら美とは有機体だからだ。
 有機体とは、自己を目的として自己を組織して行くシステム、いわゆるオートポイエーシス・システムである。
 美が有機体であるというのは、美とは単なる物として存在しているのではなく、物が人間の美意識と結び付くことで、初めて美しい物として認識されるということである。
 芸術における美とは人間の意識が作り出す現象であり、自然の産物ではあり得ない。
 美とは人間の美意識が物と融合し、物が人間の意識において「美しい物」として組織化されるオートポイエーシス・システムなのである。
 そこに有機体と美とのアナロジーがある。

 勿論美意識には個人差がある。同じ対象を見ても、そこから感じられる美のあり方は見る者によって異なっている。しかし美しいものには美一般としての人類共通の普遍性がある。この普遍性を「世界の目的」として位置づけ、哲学的に考察したのがカントだった。『判断力批判』における「美的判断力の批判」は、我々が日本刀から感じ取る美の構造を余す所なく述べていると言えるだろう。刀剣鑑賞に熟達したければ『判断力批判』を読まねばならない。

 要するに美の認識は主観的だが、そこには人類共通の普遍的価値がある。日本刀を通して認識される美には、主観と普遍が総合されている。だから日本刀は芸術として認められているのである。それは我々の意識に潜在する普遍的な価値を触発する、一つの有機体なのである。それゆえ日本刀は単なる刃物ではなく、生命を持った何かのように感じられるのである。

 その上、日本刀には生命を奪う威力がある。
 美しさを追求した結果として、生命を奪う威力にまで行き着いたということだ。
 切れ味を目的とした結果として美しくなったのではなく、最初から芸術として美を追求し、その結果として生命を奪う威力を得たのである。
 これが日本刀の美である。そしてこれだけが日本刀における美なのである。
 それは視覚的な美しさを超えて、鑑賞者の生命的存在に脅威を与える物理的・力学的な美である。
 この美を『判断力批判』に即して定義すれば「崇高」という事になるだろう。

 日本刀の周辺には下劣さが渦巻いている。が、その核心を形成するものは崇高である。日本刀に興味を持った者の多くが、実際に日本刀を購入する段階で下劣な刀剣商や職人に会い、幻滅して離れてゆく。それでも日本刀に魅かれる者が後を絶たないのは、その核心に崇高があるからだ。八岐の大蛇の体内に天叢雲剣があるようなものである。
 人間はただ生きているだけでなく、崇高に生きたいと欲する。その人類普遍の価値に応えてくれる物こそ日本刀なのである。