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昔書いた記事

軍装品マニアの流し目

2011年04月09日 | 日本刀に関する虚偽を正す 軍刀HP批判

 世の中には様々な趣味がある。今回批評するのは軍装品愛好家のHPである。http://www.h4.dion.ne.jp/~t-ohmura/

 始めに断っておくが、私は軍装品愛好家に対して悪意はない。しかし問題なのはこのHPが軍装趣味を逸脱して、日本刀に対して現実離れした観念論を押し付けていることである。http://www.k3.dion.ne.jp/~j-gunto/gunto_028.htm

 文字が重なり合っていて判読できないページもあるが、要するに、折り返し鍛錬や皮鉄と心鉄を組み合わせる日本刀の作り込みはナンセンスであると言っている。のみならず、無鍛錬で素延べ、ないし鋳造が古刀の作り方だったと主張している。
 確かに日本刀の長い歴史の中では様々な作り方が試行されただろう。そんな作り方があっても不思議ではない。だがこのHPの筆者の主張は、日本刀の本質とは別の所で為されている所に問題がある。

>折返し鍛錬は基本的に鋼の強靱性と関係ない。
>鋼質に依って靱性の向上がある場合でも、その効果は微々たるものである。これは「鋼の層が増える」から強靱になるのではなく、炭素量の減少に伴う鋼の「軟化」が要因である。
>日本刀の特長とされる折返し鍛錬と強度の妄想は訂正されなければならない。
>現在に至るも、刀剣書等は折返し鍛錬と強度の妄想を流し続けている。妄想でなければ、明確な論拠を示すべきであろう。論拠も無い情報を安易に垂れ流すのは止めるべきである。まして、折返し鍛錬を日本刀独自の手法と強調するのは無知を曝すだけである。

 等々、鼻息が荒い。
 鍛錬の目的は鋼の炭素量の調整と不純物の除去にある。その目的を果たすには折り返し鍛錬するしかない。また折り返し鍛錬によって鉄に粘りが出て来るのは、刀鍛冶なら日常的に経験していることである。だが20回以上も折り返すと逆に脆くなってしまう。炭素量を下げ過ぎずに不純物を排除する所に刀鍛冶の苦労がある。その適性な回数は10~14,5回と、経験的に知られている。単に良く切れて折れにくい刃物を作るだけなら4,5回折り返せば十分だ。
 また我が国では釘だって折り返し鍛錬していた。目的に適った強度を持ち、長持ちするものを作るとなると、日本刀であろうが釘であろうが、折り返し鍛錬が必要なのである。微妙な炭素量の調整と不純物の除去は、折り返し鍛錬でしかできないからである。
 このHPの筆者は、「折返し鍛錬を日本刀独自の手法と強調するのは無知を曝すだけである。」と言っているが、今日、折返し鍛錬という手法が残っているのは日本刀だけではなかろうか。その意味で日本刀を語る時、折返し鍛錬が強調されるのは自然なことである。このHPの筆者の方こそ無知なのではないだろうか。

 刀剣制作に限らず、古代・中世の技術は人間の感性に基づくものだった。それが最も信用できたからである。例えば建築でも、物理学や力学の知識ではなく、大工の感性を頼りに設計し施工された。それで千年以上前の建築物が、地震や台風に耐え、現代に残っているのである。
 否、現代の高層ビルのようにコンピューターを使って設計されたものでも、建築資材には数メートルもの誤差を見込み、実際の施工に当たっては大工が現場で自己の感性に従って調整しながら組み立てている。職人仕事というものは理屈ではなく、経験的な感性に依存するのである。
 何が最も良いかは、作りながら決められて行くのである。その中で最も確実な方法が、伝統的な職人の仕事として今に伝えられた。日本刀などはその筆頭であろう。
 従って、多くの刀鍛冶が行っている方法こそ、幾多の試行錯誤で踏み固められた、日本刀作りの最も確実な方法なのである。このHPの筆者は日本刀を大量生産品と勘違いしているようだ。日本刀はベルトコンベアで運ばれてくる部品を組み立てるのとは訳が違うのである。
 一方で、 

>群水鋼では、折返し鍛錬して心鉄を合わせた刀も、素延べの刀も性能は同等だった。

 と自ら述べておられる。
 性能が同等なら尚更、日本刀特有の芸術性や品格は折返し鍛錬して心鉄を合わせることでしか創り出せないと言えるだろう。
 日本刀を単なる武器ではなく、芸術品にするための方法。それが今日刀鍛冶が行っている作刀方法である。それは一個人が案出したものではなく、鉄を鍛える歴史の中で、幾多の鍛冶の感性が尺度となって確立されたものだ。軍装品マニアの空想が及ぶ世界ではないのである。

 言うまでもないことだが軍刀と日本刀とはその寄って立つ土台が違う。軍刀とは英語で言えばアーミーナイフ。軍装品の一部だ。旧日本軍の軍刀も、軍用ナイフに分類できるだろう。だから軍刀が日本刀である必要はなく、直刀であろうがククリ状であろうがステンレス製であろうがギザギザのセレーションが付いていようが構わない。一方、日本刀とは様式的には平安時代末期に成立した湾曲した刀のことで、それ以前の直刀とは区別されている。更に中世の日本の歴史・文化の中で象徴的な意味を持つものが日本刀である。それは最初から芸術として作られた刀剣だった。

 芸術とは政治・宗教・権力の象徴として、その時代の支配者の価値観で作られるものである。洋の東西を問わず、古代・中世において、政治と宗教こそが即ち権力であり、権力には権威が求められた。その権威を表す手段が即ち芸術なのである。
 古代・中世における芸術とは、建築、音楽、絵画、彫刻、等であるが、それらは政治的・宗教的権威の象徴だったのである。古代・中世には政治・宗教から離れた芸術など存在しなかった。そして日本刀は中世の日本を支配した武士階級の価値観の象徴として存在していた。従って日本刀は芸術以外の何物でもないのである。

 そのような古典的な芸術にはお金が掛かる。例えば今日では誰でもコンサート会場でクラッシック音楽を聴くことができるが、それを演奏する会場や楽団は国家から補助金を貰わなければ維持・運営できない。日本刀も国からの補助金がなければ新たに制作するのは不可能だろう。例えば日本刀制作に必要な玉鋼は国の補助金で造られている。それでも玉鋼の値段は一般の鋼材よりも高価だ。国の補助がなければコストの面で新作刀の制作は極めて困難になるだろう。かように日本刀とはお金の掛かる芸術なのである。

 一方、軍装品は芸術の対極にある。まずコストが安くなければならない。

 そうした成り立ちの違いを無視して日本刀と軍刀を同列に論じるのは倒錯と言わねばならないだろう。
 旧日本軍時代、軍刀とは個人で用意するものだったはずだ。それに日本刀が使われていたのは、改めて刀を新調するより手持ちの日本刀を軍刀として用いる方が安上がりだったからだ。また先祖伝来の刀ならそれだけ心の拠り所にもなっただろう。このHPの筆者が愛してやまない軍刀としての刀剣は、軍装品としてのナイフ以外ではあり得ず、それならコストや機能の面から日本刀よりもナイフの方が高く評価されるべきだろう。実際、このHPの筆者もそのような論調で日本刀と軍刀を同列に論じている。
 しかしそんなものは日本刀ではない。

 このHPの筆者の主張がナンセンスなのは、高度な産業技術がある現代ならこのHPで良しとされている刀剣類など容易に作れるはずなのに、世界中どの軍隊もそんな軍用ナイフは採用していないという事実によって証明されている。
 どんな武器も時と所を得なければナンセンスなものになる。
 旧日本軍の軍刀も今日の戦場では役に立たないのではないだろうか。
 増してや軍刀の概念で日本刀を論じるなど、見当外れも甚だしい。
 現実を顧みれば、この筆者の言っていることは単なる夢想、現実離れした観念論でしかないのである。
 日本刀に対するこうした偏った思い込みは、真の愛刀家には迷惑である。このHPの筆者のように、使えてナンボの一物主義で日本刀に変な流し目を送られても、盛りのついたホモと同じで、気色悪いだけである。





コメント
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