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昔書いた記事

電解鉄考2 軍装品マニアHP「日本刀の精神と武の心」に対して

2011年04月16日 | 日本刀に関する虚偽を正す 軍刀HP批判

 刀鍛冶が自分から電解鉄を使いましたなどと言う訳がないから、現代刀匠で誰が電解鉄を使っているかは判らないし、使ったとしても、炭素量の調整や玉鋼と混合したりしているだろう。だが研究熱心な刀鍛冶なら色々な鉄を試すのが当然だろうし、客としても古釘や鉄瓶を卸して使われるよりは気分的に良いのではないだろうか。自分の愛刀が使い古しの薄汚い鍋から出来てまいす、と言うのでは、何か安っぽい気持ちになる。
 確かに、日刀保玉鋼に古釘を混ぜると、言わば隠し味のような効果があり、鉄の味わいが増すとも言われる。しかし人間国宝の月山貞一はそうしたことを嫌っていた(『日本刀に生きる』)。

 宗勉も試行錯誤を重ねただろうから、当然、電解鉄を使っていると考えられる。
 実際、研ぎ師に言わせると宗勉の作品の研当たりは様々で、非常に柔らかいものもあれば極端に固いものもあるという。が、清麿写しや助広写しは極端に固く、玉鋼の研当たりとは違うようだ。
 商売人が宗勉を人間国宝より上などと言うのはとんでもない大嘘である。あんなに固い地鉄では名刀とは言えない。月山の作品と並べて見れば判る。勿論、清麿、助広とは大違いである。やはりあの固さが電解鉄の特徴かもしれない。
 しかし刃中の沸の表現が見事なのは事実で、この点は現代刀の中ではずば抜けている。その沸に魅かれたのか、研ぎの人間国宝・藤代松雄も宗勉の作品を買ったそうだ。
 先日、宗勉の作品が昭和時代と平成時代で違っていると書いたが、電解鉄は昭和時代から使っていたはずだ。作風の変化はそれまで使っていた電解鉄が手に入らなくなったからではないだろうか。1990年代に鉄鋼業界の世界的な再編あり、多くのメーカーが統廃合された。廃番になった鋼材も多いだろう。

 しかし臭いものに引かれると言うか、好んで蛇の道を行くというか、趣味の世界には変な物だから好きという人はいるもので、玉鋼は悪い、この刀は玉鋼を使ってない、だから良い刀だと言う人までいる。例の軍装品マニアの扇動に煽られた人達だ。
 ここまで来るともはやフェティシズム(物神崇拝)である。
 日本刀は玉鋼だけでなく、和銑からも作られて来た。清麿、行秀は銑卸しで作りましたと自分で言っている。逆に玉鋼に拘る刀鍛冶もいる。人それぞれ目指す作風が異なるのだから、それが当たり前ではないか。

 軍装品マニア氏の日本刀論は、各種文献から自分に都合の良い説だけを寄せ集めたもので、反証的事例には触れていない。
 例えば、

>小倉陸軍造兵廠の強度試験で、刀剣展で最高入賞をした刀匠達が造った玉鋼・二枚構造 32刀の中、12刀 (40%弱) が実用に堪えられない刀身だった。刀身地刃の美と、刀身性能は全く無関係であることが実証されている。

>尚、二枚構造の満鉄刀は厚さ五厘(約1.5㎜)、幅一寸(約3㎝)、長さ六尺の軟鋼板を重ねて四枚まで切断し刃こぼれも刃切れも生じなかった。兜とは違うが一種の斬鉄剣と云えよう。

>満鉄刀の凄みは一刀だけの例外では無く、全製品が均質に同じ性能を備えていたことにある。

>この事からみても、新々刀に準拠し、且つ、刀の根本条件を欠落させた現代刀の性能が如何なるものかは言を俟(ま)たない。

>山田英氏は「新々刀、現代刀の鉄質は肉眼には緻密細美と見えても、その実、日本刀としては最劣等の粗質である」と述べている

>新新刀最後の刀匠・羽山円真の洋鋼(東郷ハガネ)一枚鍛えの刀は見事に兜を裁ち切り、同田貫や虎徹に匹敵する強靭さを発揮した。

(以上http://ohmura-study.net/012.html「斬鉄剣と現代刀」より。)

 吉原義人はどうなるの? と思わず言いたくなるが、軍装品マニア氏は都合の悪い反例は出さないのである。
 小倉陸軍造兵廠の強度試験に関して。玉鋼・二枚構造 で作られた刀が、32振り中12振り不合格だったということであるが、ということは20振りが合格した訳だ。この試験で、何をもって「実用に耐える」とされていたのか、引用箇所からは判らないが、この試験が科学的なものだったとすれば、折れたり曲がったりするまで機械で力を加えて試験したはずだ。ならば数字的にかなりシビアな力が加えられただろう。つまり刀に対してあり得ないほどの非現実的な力が加えられたはずである。それで20振りが合格したなら上々ではないだろうか。
 また自説を補強するために山田英の言説を援用したり、東郷ハガネ一枚鍛えの羽山円真を持ち上げて、非難の矛先は新新刀にまで及ぶ。

 軍装品マニア氏が引き合いに出す羽山円真は源清麿の弟子の源正雄の弟子。清麿の孫弟子である。軍装品マニア氏の引用にあるように、洋鉄鍛えで有名である。ところがその円真は、「私は誰にも頭を下げたことがないが、左行秀の人格と技量には頭が下がる」と言っている(『日本刀の掟と特徴』本阿弥光孫 美術倶楽部刊1955 P.435)。つまり円真は決して新新刀期の作り方を否定していなかったのである。

 円真が洋鋼を使ったのは、明治になって我が国の製鉄産業が溶鉱炉で行ういわゆる洋鉄の時代となり、単に和鉄が手に入り難かったからである。
 また明治になって新新刀期の刀鍛冶は殆どが失業を余儀なくされた。円真も居合い抜きの大道芸で生計を立てていたようだ。だから東郷ハガネを使ったのは、大道芸を見せて商品としての刀を売らんがための方便だったと考えるのが妥当だろう。見世物小屋で売る商品に貴重な玉鋼など使える訳がない。更に日清・日露戦争の勝利によって軍国主義と日本刀が結び付けられ、俄かに日本刀のブームが起きた。円真はそうした時代の機運に乗っかっただけなのである。円真に何らかの作刀上の信念があって洋鉄を使ったのではない。
 実際には円真は、東郷ハガネ一枚鍛えなど、日本刀とは程遠い詐欺商品だと後ろめたい気持ちでいたと推量される。
 また軍装品マニア氏は東郷ハガネ一枚鍛えの円真刀が兜を裁ち切ったと言うが、文字通り真っ二つにした訳ではあるまい。作者が同じなら、玉鋼で作られた刀でもそれ位の切れ味は出せるだろう。
 
 ところで羽山円真が師匠の源正雄を差し置いて尊敬する左行秀は、切れ味のみならず、その芸術性においても古刀に比肩する名人である。
 行秀は江戸時代に発刊された『新刀銘集録』の題四巻で自ら筆を採り、「自分の作品は相州伝の本三枚を旨としています」と言っている(『左行秀と固山宗次』片山銀作 P.17)。
 行秀の時代は幕末騒乱期なので実用刀が求められた。そこで、「刃鉄は鋼を卸し、地鉄は銑を卸し、心鉄も含めて全て卸し鉄の剛毅な所だけを使っています」という(同)。更に、「世間では新身を研いで研返りするもの(砥石の当たりが堅い刀)は鈍刀と言われていますが、これは間違いです。(砥当たりが軟らかい)刀は最初は良くても、使い込んで刃先が一分ほど研ぎ減ると、憂うべき事態となります。故に私は、常見寺(砥石の種類)で刃付けをする時、研返りすることをもって刃味の妙と心得ております。」と細心の心配りをしている(同)。
 今斬れれば、その切れ味に満足してしまう人が、当時も多かったのだろう。だが行秀は、使い込んで研ぎ減った時の事まで考えて作っている。

 日本刀を武器として捉えている軍装品マニア氏は、行秀の言葉をどう理解するのだろうか。

 軍装品マニア氏は上掲URLの同じ箇所で、

>刀への畏敬の念、辟邪の願い、守護の祈りは日本刀の根本である武器性能に端を発している。

>刀身の美は基本性能を支える鋼材や造り込みの刀身の裡(うち)から滲(にじ)み出て来るものである。

 と言っているが、それは今切れて、その場の切れ味にのみ目を奪われている者の、表面的な理解ではないだろうか。日本刀を武器として捉えた場合でも、軍装品マニア氏の日本刀論は表面的な切れ味しか見ていないのである。

 羽山円真が自分の師匠を差し置いてまで行秀を評価しているのは、そんな表面的な切れ味とは一線を画した、持ち主を一生守り、更には子々孫々まで守り抜く、護りの刀を行秀が作っていたからである。
 やはり日本刀の精神は攻撃にではなく、護りにこそあるのだろう。またそれが武の心であると思われる。
 攻撃にしか目が行かない軍装品マニアに、かかる日本刀の精神が理解できないのは当然だ。彼のHP旧日本陸海軍・軍刀http://www.h4.dion.ne.jp/~t-ohmura/には、武の心は微塵もないと断言できる。

 最後に、行秀はこうも言っている。
 
 「美観だけで人を驚ろかし、武用には向いていない刀もある。(その反対に)焼刃が狭く地鉄が広い刀は折れ難く、曲がり難いのは確かだ。だからと言って武用専一の刀を作っても─その事自体は悪くはないが─、そんなものは古の名刀と少しも似ていない仕儀となり、下作賤刀と貶されることになる。
 私は(単なる武用専一の刀ではなく)焼刃の光景、氷雪の如く、散雪の如く、しかも折れも曲がりもしない刀を作る。火加減中庸を得て、沸・匂が適切に現れたものなら全く心配ないからだ。
 これを私は水月の伝と言う。
」(同)

 だから行秀は「水月」を目指した。
 行秀の言葉は様々な解釈が可能だろうが、一介の職人にもあったこうした感性こそが、日本精神であり、武の心なのだろう。






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