幸せの予約承ります
(小笠原 慎吾)より
生死も含めて世の中は「宇宙のルール」すなわち「物事の背後にあり、なりゆきを司るルール」に従っています。
今までの時代を<夜の時代>と呼ぶならば、新しい時代は<昼の時代>と言っていいでしょう。
正確に言うならばまだはじまったばかりの<夜明けの時代>なのです。
夜の時代の最大の特徴は、「宇宙のルール」と「社会のルール」が矛盾すると言う点にあります。
「宇宙のルール」には、すべてのいきものは幸せな一生をまっとうすべきだという大前提があります。
ところが、夜の時代ではその真実は覆い隠され、不幸は人間社会につきものだと考えられました。
そこで「ごまかし、盗み、墓石、苦しめる」という社会のルールどおりに
人々はだましあい、奪い合い、暴力を古い、憎みあったのです。
しかし私たちが向かおうとする昼の時代とは「宇宙のルール」こそが道しるべになるのです。
「いい人でも幸せになるとはかぎらないのはなぜか」
目に見えない世界について考慮しなければ、様々な出来事が何故起こるのか説明がつかない。
たとえば、人間はなぜ動けるのでしょうか?
目に見える肉体を研究し、細かく分析していくことは可能です。しかし、筋肉や神経の仕組みを調べたところで、肝心の「なぜ?」の答えは出てきません。
そこでさらに詳しく分析し、肉体の組織を分子や電子のレベルまで調べてみます。
・・・それでも、肉体を物質としてのみとらえるかぎり、説明できない問題が残るのです。
とすれば、人間の肉体は「入れ物」であり、それを動かす何らかの力が背後で働いていると考えるのが自然ではないでしょうか。
目に見える現象を説明するためには、その背後の目に見えない世界まで考慮しなくてはなりません。
そして、目に見えない世界にこそ、物事が起きる真の原因が潜んでいるのです。
確かにわけのわからない世界。
この世を物質の世界だけだと考えると、つじつま合わないことがたくさん出てきます。
たとえば、地球が太陽のまわりを回っていることだって、「なんのために寸分の狂いもなく回っているのか?」
何度考えてもわかりません。
少し軌道が外側にズレるだけで地球全体は極寒の地になって凍りつくでしょうし、内側にズレれば灼熱地獄になる。
そうならないのはなぜですか、地球さん。
なぜ軌道を外れて飛んでいかないのですか?
なぜ、燃え続けるのですか太陽さん。
なぜ、くるくると回転する必要があるのですか太陽系のみなさん。
なぜ昼と夜があるのですか?
ずっと昼だと生物にとっては暑すぎるでしょう。
焼け死んでしまう。
逆にずっと夜だと何もかも凍りついて生物が生きていける可能性はまったくない。
そして、「必ず死ぬ」のにその地球に生まれては消え、生まれては消える生命。
なぜ「絶対死ぬ」のに生まれてくるのですか?
「なぜ体が動くのか?」
なぜの答えは出てきませんね。
だから人間の化学では生物は作れない。
遺伝子を操作して、クローンを作り出すことはできますが、それだって遺伝子を自然からパクらなければならない。
人間の目というのは限定的なもので紫外線も赤外線も見えません。
それどころかラジオや携帯の電波も見えない。
耳もそうです。
周波数の低い音や高い音は聞こえない。
これはどういうことか?
つまり「我々の認識できない世界が存在している」ということです。
だから、アリにはアリにしか見えない(仲間のつけた目印の)アリの道がわかる。
モーツァルトが「こんなすごい音楽を頭の中で思いついた!」と叫んでも隣の人には聞こえないわけです。
「なんでわかってくれないんだ!こんなに素晴らしい音楽なのに!」と言ってもダメです。
聞こえないものは聞こえないし、聞こえる人には聞こえるのです。
頭の中の音楽を実際に楽器で演奏してみれば、となりの人にも「おお、こんなすごい音楽だったのか~」と感動を与えられます。
「人間の体はただの物質だけでできている」
なぜそう思うようになったのですか?
それはただの『考え方』のひとつではないのですか?
マザーテレサのように目が見えない人もいます。
生まれつき目が見えなければ「色」を認識できません。
「今日は天気がすごく良くて、きれいな虹が出ているよ。」と言われてもわかりません。
「透き通るような虹だよ。」
透き通るの意味が理解できません。
「7色でとても美しい。」
7色と言われてもわかりません。
「赤と黄色と青と緑と・・・
何が赤色で、何が黄色かわかりません。
目が見えないから虹が存在していない、は考え方がおかしいですよね?
見える人には見えて理解できます。
ということはわれわれ人間の把握できない世界は必ず存在しているということです。
「この世は物質だけでできている」というのは一種の宗教みたいなもんです。
ただの考え方です。
その考え方以外の事実を示されると「そんなはずはない」とか「カルトだ」とか言うわけです。
はっきり言います。
この地球上での最大のカルトは「この世は物質だけでできている」という考え方です。
目に見える物質以外のものは自分が知覚できない、理解できない。
だからそんなものは存在しないし、人間はただ死ねばそれで終わりである。
それ以外の考え方は許さない、キチガイ扱いする。
これが世の中に蔓延している自分視点だけのごう慢な究極のカルトの正体です。
他の考え方、他のとらえ方、他の認識のすべてを否定し自論を押し付ける。
人としての器の大きさはまったくない。
それが現代の「化学」であり「物質至上主義」であり「常識」です。
我々は「常識という名の宗教」に汚染されていたのです。
現代では、「宇宙はどういう仕組みなのか」と言う問題に取り組んでいるのは、宗教と科学です。
私は科学を学ぶ一方、さまざまな宗教の勉強もしました。
しかし、宗教には限界があるのを感じました。
宗教家に誰がこの世を創ったのかとたずねると、「神様だ」と答えます。
ではどうして同じ生き物同士が殺しあうのでしょう。
もしこの世のすべてが神様の作品名なら、せっかく創ったねずみを、同じく自分が創った猫にみすみす食べさせるものでしょうか。
悲惨や不幸に対して何の手立ても打たないなら、神と言う存在は信頼するに足りない、と私は思いました。
さらに宗教は教祖と信者というシステムでできています。
今までの宗教は、教祖が幸せな生き方を教えるといいながら、精神的な依存を強めたり、献金を強要したり、他の宗教と争いを起こしたりして、苦しみの原因を作る場合がほとんどでした。
宗教の戒律を守ったところで、宇宙の仕組みも幸せになる道も見えてこないのです。
では「宇宙のルール」というのは、いったいどういうものなのでしょうか。
3つの特徴があります。
1つ目は「絶対的自由」です。
善悪の基準は人間が考え出したルールです。
しかし宇宙には本来「これをしてはいけない」「あれをしなくてはならない」という判断はなく、
いつも私たちに無限の選択肢を用意しています。
2つ目は「共生」です。
植物が光合成のときに作り出す酸素を動物は必要とし、動物が呼吸で吐き出す二酸化炭素を植物は取り込みます。
循環で最も大切なのはプロセスがスムーズに流れることです。
3つ目は「進化する」
他の生き物は、好きなことを好きなときにしながら楽々と進化しています。
本来は好きなことをする時に、宇宙から様々なアイディアやエネルギーを得られるようになっています。
これら3つのルールに従って、自由に共生して進化していくのが人間の本来の生き方なのです。
夜の時代は「不自由、闘争、退化」というのが社会のルールだったので「ごまかし、盗み、破壊し、苦しめる」と言うことが行なわれていたのです。
したがって、他人を苦しめ自然を破壊した人ほど、富や名声を得ました。
ずる賢く暴力的な人のそばにいて心地よいと思う人は決していないのに、そんな人ほど大いばりで暮らしていたのです。
地球の自転によって光の当たる部分が昼、当たらない部分が夜となるように宇宙も自転するため、昼と夜があります。
宇宙にとって太陽に相当するのが「うゆう」という光線です。
その光が届かない時期が夜の時代というわけです。
心が眠り込んでいる夜の時代は文字通り暗闇の時代でした。
私たちは自分がなにをしているかもわからない、まるで酔中夢死の状態でした。
夜の時代の価値観がかげろうのようにはかないことは、死について考えると、よくわかります。
どんなに財産を作っても、どんな名声を獲得しても、死ぬ時にはそれらをすべてこの世に残してひとりで旅立たねばなりません。
しかし昼の時代を迎えて宇宙のエネルギーが変化すると、本当の目覚めが置き、今まで隠されてきたことがすべてあからさまになっていきます。
これらの大きな時代の移り変わりは2500年に一度起こっています。
縄文時代がいまの世によみがえる
これから私たちが迎える昼の時代は高次の精神文明であり、いままでの低次な物質文明を維持しながら霊的に進化することが望まれています。
ちょうど2500年前ごろには、時代の転機を告げる人たちがたくさん現れました。
西洋ではモーゼ、東洋では釈迦や孔子です。
モーゼが告げた「十戒」から縄文時代の価値観を推測することができます。
「ただ一人の神を礼拝せよ」「偶像を拝むな」「神の名をみだりに唱えるな」
「安息日は必ず守れ」「父母を敬え」「殺すな」「姦淫するな」
「盗むな」「偽りを言うな」「むさぼるな」という十の戒めです。
モーゼがその時期にあえて十戒を定めたということは
それ以前には「盗む」とか「姦淫」と言う行為が悪ではなかったことを意味します。
人々には所有と言う観念がなく、必要なものを必要な時に互いに分かち合っていたのでしょう。
所有とお金。
我々はずっとこれに振り回されてきたわけですが、2500年前には「所有という概念がなかった」と書かれていますね。
まあ、そうかも知れません。
一時的に「これは自分のものだ!」と決めても自然や災害で道具も家も失うわけです。
現代のようなセキュリティもないですから、盗人が来たら取られるわけです。
ではどうやって生きていくのかというと、やはりお互いに助け合って生きるしかないでしょう。
そして信用の置ける仲間や家族と共に、なんとかやっていくしかない。
「うゆうの光」というのも何となく理解はできます。
つまり隠し事ができない世の中になってきた。
私はかねてからインターネットというのは本当に不思議な存在だなあと思っていました。
なぜこのような仕組みが存在し、突然広まったのか?
いままであった家電製品とは違う。
特殊な電気製品とも違う。
テレビや新聞の一方通行の情報伝達が通用しなくなり、双方のコミュニケーションがとれる道具。
それはいまや無限の広がりを見せてくれます。
扱う容量が急速に増え、画像から音声から動画からありとあらゆる情報が蓄積されていきます。
そして、いままでなら表に出ずに済んだことが明らかになってきています。
ユダヤ問題もそうです。
「ユダヤ人はかわいそうな人達」だとずっと思っていました。
ところがインターネットのおかげで
「ユダヤ人はニセモノで、迫害を受けて当然の汚い連中だ」ということが明らかになったわけです。
真実が光によって照らされ、表に出てきました。
こんな電化製品なかったでしょ?
情報は即座に世界中を駆け巡ります。
そして、特定の人間による加工・修正ができない。
すべてがバレてしまう。
これって、ある意味すごいことですよね。
人間はあの世からやってきて、この世でつかのま活動し、またあの世に帰っていく存在です。
誕生と言う扉にはセマさんという門番が。
死と言う扉にはエンマさんと言う門番がいて、誰をこの世に生かすかを決めているのです。
夜の時代、セマさんは「夜の時代にふさわしい人」だけを通し、昼の時代の感覚を持っている人を通しませんでした。
しかし夜明けが近づくにつれ、昼の時代にふさわしい人も少しずつ通し、この世に誕生させるようになったのです。
じつはこの世にも見張りのオニが歩き回っています。
そして夜の時代にふさわしい生き方をしない人達を異端者としていじめたのです。
生活できないよう職を奪ったり、病気にしたりと言う風に。
昼の時代の感覚を持つ人達は何か変だと感じながらも夜の時代の衣装を身にまとって、オニの目をごまかしていたのです。
そしていよいよ、オニも世代交代したのです。
昼の時代のオニはいままでと反対に、夜の時代の生き方をする人をいじめます。
生活の糧を奪ったり、病気にして彼らを困難に陥れるのです。
昼の時代のルールは隠し立てすることができません。
いままでなら明るみに出なかった不正や不祥事が最近になって騒ぎを起こしているのもオニの目を逃れられなくなったからです。
私たちはもうなにも怖がる必要はありません。
自分をいつわるのをやめ、本当の自分を輝かせてください。
この昼の時代のオニというのは、インターネットのことかな?ととらえています。
新聞やテレビの嘘を即座に見破って、インチキをしている人間を表に引きずり出す。
だいたい本当のことがあきらかになって叩かれるのであれば、その張本人が悪いのです。
叩かれないようなまっとうな生き方をしていれば良かったわけでしょう?
オニの目に見つかったからかもしれませんが、東京地検さんはずいぶん叩かれてますね。
マスコミだけ見てれば、まさか警察がオウム真理教とグルだとは誰も思いませんよ。
東京地検だけじゃない、東京地裁の判事も検事もグルで、オウムの真実を隠蔽したと。
http://www.youtube.com/watch?v=tzng_7_TV3I&feature=PlayList&p=79C36BEEAE92C606&index=0&playnext=1
コシミズさんが叩いてくれています。
オウムの事件は「何かおかしいな?」と当時思ったわけですが、ようするにイルミナティの手先であるCIAが関わっていたんですね。
死んでいった人達のことを考えれば・・・多くの人はどう思うでしょう?
たくさんの人が亡くなった。
それはロスチャイルド・イルミナティのしわざであり、その手先であるロックフェラーとCIAがオウムの裏にいたわけです。
どれだけの人がイルミナティとその手先の売国奴によって苦しめられてきたでしょうか?
人々の苦しみの上に、一部の人間が利益を得てきたのが夜の時代です。
これは「隠れていることができたから可能だった」のです。
隠れられなくなってきた。
誰の目にも本当のことがあきらかになってきた。
光に照らされ真実が出てきた。
これこそまさに昼の時代でしょう?
誰もが幸せになりたいと願っています。
では、幸せとは一体何なのでしょうか。
幸せとは、本当は自分の内側にあるものなのです。
「すべては自分の内側にある」
そういう目で見ると、この世界は決して不幸と苦しみに満ちているものではなく、誰もが本来は幸せなのだと気づきます。
自分に最もふさわしい姿で生きていれば、何の問題もなく生きられるはずなのです。
困難は私たちの敵ではなく、ずれを教えてくれるバロメーターなのです。
人生をつらいと感じるかどうかは、究極的には本人の見方の問題なのです。
例えば財布を落としたとしましょう。
あなたの財布を拾った人が、大喜びですぐに現金を使い果たしたとします。
物を売った人も経済的に救われたかも知れません。
「いつのまにかたくさんの人のお役に立てたな」と思えばちょっぴりうれしくなりませんか?
また、病気で入院したとしましょう。
「仕事ができなくなる」とあせるかわりに、「自分の時間を持ててよかった」と考えるのはどうでしょうか?
考え方を変えれば、幸不幸は自分が作り出しているということもまた真実なのです。
肯定的な側面を見つけるほうにエネルギーを注ぐよう心がけることです。
なぜなら、そのとき考えたことが、次の現実を作っていくからです。
自然は私たちそれぞれに、最もふさわしいプレゼントを用意して待っています。
私たちは「富は人間社会が生み出すもの」と誤解しています。
けれど、世界で一番の富は自然が作り出しているのです。
機械を初めとするいろいろな物がありますが、そのもともとの素材はすべて自然の恵みなのです。
人間は自然からどれだけ恵みを受け取ることができるかによって、貧富が決まってきます。
魚釣りであれば、一緒に行っても、たくさん釣れる人とまったく釣れない人がいます。
その違いはなぜ起きるのでしょう?
答えは簡単。
魚が来たときにエサを入れればすぐつれます。
その反対に、魚が過ぎ去った後にエサを入れてしまったらいくら待っても釣れないばかりか、エサを損するのがオチです。
つまり、運がいい人とは、自然の流れと自分をぴったり合わせている人のことなのです。
「いま・ここ」に心と体を合わせなさい
ずれを正し、運を良くするコツはまず「心と体をいま・ここに合わせる」ということです。
私たちの心と体はすぐに離れてしまいがちです。
肉体はいつも自然の時間と一致して「いま・ここ」にいますが、心は時間を超越しているからです。
心は不安におびえている時は未来に向かい、後悔しているとき過去をさまよいます。
「あの頃は良かった」とか「これからどうなるのだろう」など
自然と自分の時間のずれがどんどん広がっていくのです。
しかし、今日の空気は今日しか吸えないように、未来や過去に心が飛んでいる時その人は「いま・ここ」めがけて豊かに流れ込むエネルギーを取り込めなくなります。
プレゼントが届いた時家にいなければそれを受け取ることはできません。
「いま・ここ」に生きるとは過去をくよくよしない。未来を心配しないという生き方です。
幸せの予約とは「いま・ここ」に心と体をあわせることです。
英語で「いま」とはプレゼントと書きます。
いま、この瞬間こそがまさにプレゼントなのです。
それを文句や愚痴を言わないで肯定的に受け取る。
そうすれば次に起きる現実が変わり始めます。
いま、この瞬間を見ていますか?
本当に見ていますか
友人の話を、家族の話を聞き流して他のことを考えていませんか?
「来週はあのDVDを借りよう」とか「帰ったらアイスクリーム食べたいなあ」とか思っていませんか?
頭の中が未来や過去にすぐ行きませんか?
それこそが不幸のもとなんです。
「わけのわからないことを書くやつだな~」と思わないでください。
「こいつはアイスクリームが好きなのか・・・」ほっといてください。
どんなに不幸に思えても、今この瞬間を肯定的にとらえる。
これこそが「幸せの予約」なのです。
私がいつも考えているのは、みんなが平和に幸せに暮らしていくにはどうしたらいいのだろう?ということです。
争う必要などない。戦争なんかもっと不要です。
戦争は、ユダヤ人が核兵器や武器を敵対する両方に売って儲けるだけです。
問題は物質としての自分です。
自分をただ物質としてとらえていると、「守らなければ」なりません。
傷つけられないように、奪われないように、一歩先を予想して行動しなければならない。
そうすると不安や心配ごとが頭のなかから離れない。
そして過去に起きた失敗をクヨクヨ考えてしまう。
愚痴や不満が常に口から出て、周囲の人から近づきたくないと思われてしまう。
これらは「守ろう」とするから起こるのです。
守るのを止めればいいのです。
損失を肯定的に受け入れればいいのです。
傷つけられたり、苦しい時に「ああ、良かった」と言えばいいんです。
難しいですが、そうすると運命が変化し始めます。
世界が変わり、人生が変わります。
世の中の仕組みが理解できれば、これを実行できるようになります。
では次回は具体的に「いまにいる」ためにどうしたらいいかをお話しましょう。
(小笠原 慎吾)より
生死も含めて世の中は「宇宙のルール」すなわち「物事の背後にあり、なりゆきを司るルール」に従っています。
今までの時代を<夜の時代>と呼ぶならば、新しい時代は<昼の時代>と言っていいでしょう。
正確に言うならばまだはじまったばかりの<夜明けの時代>なのです。
夜の時代の最大の特徴は、「宇宙のルール」と「社会のルール」が矛盾すると言う点にあります。
「宇宙のルール」には、すべてのいきものは幸せな一生をまっとうすべきだという大前提があります。
ところが、夜の時代ではその真実は覆い隠され、不幸は人間社会につきものだと考えられました。
そこで「ごまかし、盗み、墓石、苦しめる」という社会のルールどおりに
人々はだましあい、奪い合い、暴力を古い、憎みあったのです。
しかし私たちが向かおうとする昼の時代とは「宇宙のルール」こそが道しるべになるのです。
「いい人でも幸せになるとはかぎらないのはなぜか」
目に見えない世界について考慮しなければ、様々な出来事が何故起こるのか説明がつかない。
たとえば、人間はなぜ動けるのでしょうか?
目に見える肉体を研究し、細かく分析していくことは可能です。しかし、筋肉や神経の仕組みを調べたところで、肝心の「なぜ?」の答えは出てきません。
そこでさらに詳しく分析し、肉体の組織を分子や電子のレベルまで調べてみます。
・・・それでも、肉体を物質としてのみとらえるかぎり、説明できない問題が残るのです。
とすれば、人間の肉体は「入れ物」であり、それを動かす何らかの力が背後で働いていると考えるのが自然ではないでしょうか。
目に見える現象を説明するためには、その背後の目に見えない世界まで考慮しなくてはなりません。
そして、目に見えない世界にこそ、物事が起きる真の原因が潜んでいるのです。
確かにわけのわからない世界。
この世を物質の世界だけだと考えると、つじつま合わないことがたくさん出てきます。
たとえば、地球が太陽のまわりを回っていることだって、「なんのために寸分の狂いもなく回っているのか?」
何度考えてもわかりません。
少し軌道が外側にズレるだけで地球全体は極寒の地になって凍りつくでしょうし、内側にズレれば灼熱地獄になる。
そうならないのはなぜですか、地球さん。
なぜ軌道を外れて飛んでいかないのですか?
なぜ、燃え続けるのですか太陽さん。
なぜ、くるくると回転する必要があるのですか太陽系のみなさん。
なぜ昼と夜があるのですか?
ずっと昼だと生物にとっては暑すぎるでしょう。
焼け死んでしまう。
逆にずっと夜だと何もかも凍りついて生物が生きていける可能性はまったくない。
そして、「必ず死ぬ」のにその地球に生まれては消え、生まれては消える生命。
なぜ「絶対死ぬ」のに生まれてくるのですか?
「なぜ体が動くのか?」
なぜの答えは出てきませんね。
だから人間の化学では生物は作れない。
遺伝子を操作して、クローンを作り出すことはできますが、それだって遺伝子を自然からパクらなければならない。
人間の目というのは限定的なもので紫外線も赤外線も見えません。
それどころかラジオや携帯の電波も見えない。
耳もそうです。
周波数の低い音や高い音は聞こえない。
これはどういうことか?
つまり「我々の認識できない世界が存在している」ということです。
だから、アリにはアリにしか見えない(仲間のつけた目印の)アリの道がわかる。
モーツァルトが「こんなすごい音楽を頭の中で思いついた!」と叫んでも隣の人には聞こえないわけです。
「なんでわかってくれないんだ!こんなに素晴らしい音楽なのに!」と言ってもダメです。
聞こえないものは聞こえないし、聞こえる人には聞こえるのです。
頭の中の音楽を実際に楽器で演奏してみれば、となりの人にも「おお、こんなすごい音楽だったのか~」と感動を与えられます。
「人間の体はただの物質だけでできている」
なぜそう思うようになったのですか?
それはただの『考え方』のひとつではないのですか?
マザーテレサのように目が見えない人もいます。
生まれつき目が見えなければ「色」を認識できません。
「今日は天気がすごく良くて、きれいな虹が出ているよ。」と言われてもわかりません。
「透き通るような虹だよ。」
透き通るの意味が理解できません。
「7色でとても美しい。」
7色と言われてもわかりません。
「赤と黄色と青と緑と・・・
何が赤色で、何が黄色かわかりません。
目が見えないから虹が存在していない、は考え方がおかしいですよね?
見える人には見えて理解できます。
ということはわれわれ人間の把握できない世界は必ず存在しているということです。
「この世は物質だけでできている」というのは一種の宗教みたいなもんです。
ただの考え方です。
その考え方以外の事実を示されると「そんなはずはない」とか「カルトだ」とか言うわけです。
はっきり言います。
この地球上での最大のカルトは「この世は物質だけでできている」という考え方です。
目に見える物質以外のものは自分が知覚できない、理解できない。
だからそんなものは存在しないし、人間はただ死ねばそれで終わりである。
それ以外の考え方は許さない、キチガイ扱いする。
これが世の中に蔓延している自分視点だけのごう慢な究極のカルトの正体です。
他の考え方、他のとらえ方、他の認識のすべてを否定し自論を押し付ける。
人としての器の大きさはまったくない。
それが現代の「化学」であり「物質至上主義」であり「常識」です。
我々は「常識という名の宗教」に汚染されていたのです。
現代では、「宇宙はどういう仕組みなのか」と言う問題に取り組んでいるのは、宗教と科学です。
私は科学を学ぶ一方、さまざまな宗教の勉強もしました。
しかし、宗教には限界があるのを感じました。
宗教家に誰がこの世を創ったのかとたずねると、「神様だ」と答えます。
ではどうして同じ生き物同士が殺しあうのでしょう。
もしこの世のすべてが神様の作品名なら、せっかく創ったねずみを、同じく自分が創った猫にみすみす食べさせるものでしょうか。
悲惨や不幸に対して何の手立ても打たないなら、神と言う存在は信頼するに足りない、と私は思いました。
さらに宗教は教祖と信者というシステムでできています。
今までの宗教は、教祖が幸せな生き方を教えるといいながら、精神的な依存を強めたり、献金を強要したり、他の宗教と争いを起こしたりして、苦しみの原因を作る場合がほとんどでした。
宗教の戒律を守ったところで、宇宙の仕組みも幸せになる道も見えてこないのです。
では「宇宙のルール」というのは、いったいどういうものなのでしょうか。
3つの特徴があります。
1つ目は「絶対的自由」です。
善悪の基準は人間が考え出したルールです。
しかし宇宙には本来「これをしてはいけない」「あれをしなくてはならない」という判断はなく、
いつも私たちに無限の選択肢を用意しています。
2つ目は「共生」です。
植物が光合成のときに作り出す酸素を動物は必要とし、動物が呼吸で吐き出す二酸化炭素を植物は取り込みます。
循環で最も大切なのはプロセスがスムーズに流れることです。
3つ目は「進化する」
他の生き物は、好きなことを好きなときにしながら楽々と進化しています。
本来は好きなことをする時に、宇宙から様々なアイディアやエネルギーを得られるようになっています。
これら3つのルールに従って、自由に共生して進化していくのが人間の本来の生き方なのです。
夜の時代は「不自由、闘争、退化」というのが社会のルールだったので「ごまかし、盗み、破壊し、苦しめる」と言うことが行なわれていたのです。
したがって、他人を苦しめ自然を破壊した人ほど、富や名声を得ました。
ずる賢く暴力的な人のそばにいて心地よいと思う人は決していないのに、そんな人ほど大いばりで暮らしていたのです。
地球の自転によって光の当たる部分が昼、当たらない部分が夜となるように宇宙も自転するため、昼と夜があります。
宇宙にとって太陽に相当するのが「うゆう」という光線です。
その光が届かない時期が夜の時代というわけです。
心が眠り込んでいる夜の時代は文字通り暗闇の時代でした。
私たちは自分がなにをしているかもわからない、まるで酔中夢死の状態でした。
夜の時代の価値観がかげろうのようにはかないことは、死について考えると、よくわかります。
どんなに財産を作っても、どんな名声を獲得しても、死ぬ時にはそれらをすべてこの世に残してひとりで旅立たねばなりません。
しかし昼の時代を迎えて宇宙のエネルギーが変化すると、本当の目覚めが置き、今まで隠されてきたことがすべてあからさまになっていきます。
これらの大きな時代の移り変わりは2500年に一度起こっています。
縄文時代がいまの世によみがえる
これから私たちが迎える昼の時代は高次の精神文明であり、いままでの低次な物質文明を維持しながら霊的に進化することが望まれています。
ちょうど2500年前ごろには、時代の転機を告げる人たちがたくさん現れました。
西洋ではモーゼ、東洋では釈迦や孔子です。
モーゼが告げた「十戒」から縄文時代の価値観を推測することができます。
「ただ一人の神を礼拝せよ」「偶像を拝むな」「神の名をみだりに唱えるな」
「安息日は必ず守れ」「父母を敬え」「殺すな」「姦淫するな」
「盗むな」「偽りを言うな」「むさぼるな」という十の戒めです。
モーゼがその時期にあえて十戒を定めたということは
それ以前には「盗む」とか「姦淫」と言う行為が悪ではなかったことを意味します。
人々には所有と言う観念がなく、必要なものを必要な時に互いに分かち合っていたのでしょう。
所有とお金。
我々はずっとこれに振り回されてきたわけですが、2500年前には「所有という概念がなかった」と書かれていますね。
まあ、そうかも知れません。
一時的に「これは自分のものだ!」と決めても自然や災害で道具も家も失うわけです。
現代のようなセキュリティもないですから、盗人が来たら取られるわけです。
ではどうやって生きていくのかというと、やはりお互いに助け合って生きるしかないでしょう。
そして信用の置ける仲間や家族と共に、なんとかやっていくしかない。
「うゆうの光」というのも何となく理解はできます。
つまり隠し事ができない世の中になってきた。
私はかねてからインターネットというのは本当に不思議な存在だなあと思っていました。
なぜこのような仕組みが存在し、突然広まったのか?
いままであった家電製品とは違う。
特殊な電気製品とも違う。
テレビや新聞の一方通行の情報伝達が通用しなくなり、双方のコミュニケーションがとれる道具。
それはいまや無限の広がりを見せてくれます。
扱う容量が急速に増え、画像から音声から動画からありとあらゆる情報が蓄積されていきます。
そして、いままでなら表に出ずに済んだことが明らかになってきています。
ユダヤ問題もそうです。
「ユダヤ人はかわいそうな人達」だとずっと思っていました。
ところがインターネットのおかげで
「ユダヤ人はニセモノで、迫害を受けて当然の汚い連中だ」ということが明らかになったわけです。
真実が光によって照らされ、表に出てきました。
こんな電化製品なかったでしょ?
情報は即座に世界中を駆け巡ります。
そして、特定の人間による加工・修正ができない。
すべてがバレてしまう。
これって、ある意味すごいことですよね。
人間はあの世からやってきて、この世でつかのま活動し、またあの世に帰っていく存在です。
誕生と言う扉にはセマさんという門番が。
死と言う扉にはエンマさんと言う門番がいて、誰をこの世に生かすかを決めているのです。
夜の時代、セマさんは「夜の時代にふさわしい人」だけを通し、昼の時代の感覚を持っている人を通しませんでした。
しかし夜明けが近づくにつれ、昼の時代にふさわしい人も少しずつ通し、この世に誕生させるようになったのです。
じつはこの世にも見張りのオニが歩き回っています。
そして夜の時代にふさわしい生き方をしない人達を異端者としていじめたのです。
生活できないよう職を奪ったり、病気にしたりと言う風に。
昼の時代の感覚を持つ人達は何か変だと感じながらも夜の時代の衣装を身にまとって、オニの目をごまかしていたのです。
そしていよいよ、オニも世代交代したのです。
昼の時代のオニはいままでと反対に、夜の時代の生き方をする人をいじめます。
生活の糧を奪ったり、病気にして彼らを困難に陥れるのです。
昼の時代のルールは隠し立てすることができません。
いままでなら明るみに出なかった不正や不祥事が最近になって騒ぎを起こしているのもオニの目を逃れられなくなったからです。
私たちはもうなにも怖がる必要はありません。
自分をいつわるのをやめ、本当の自分を輝かせてください。
この昼の時代のオニというのは、インターネットのことかな?ととらえています。
新聞やテレビの嘘を即座に見破って、インチキをしている人間を表に引きずり出す。
だいたい本当のことがあきらかになって叩かれるのであれば、その張本人が悪いのです。
叩かれないようなまっとうな生き方をしていれば良かったわけでしょう?
オニの目に見つかったからかもしれませんが、東京地検さんはずいぶん叩かれてますね。
マスコミだけ見てれば、まさか警察がオウム真理教とグルだとは誰も思いませんよ。
東京地検だけじゃない、東京地裁の判事も検事もグルで、オウムの真実を隠蔽したと。
http://www.youtube.com/watch?v=tzng_7_TV3I&feature=PlayList&p=79C36BEEAE92C606&index=0&playnext=1
コシミズさんが叩いてくれています。
オウムの事件は「何かおかしいな?」と当時思ったわけですが、ようするにイルミナティの手先であるCIAが関わっていたんですね。
死んでいった人達のことを考えれば・・・多くの人はどう思うでしょう?
たくさんの人が亡くなった。
それはロスチャイルド・イルミナティのしわざであり、その手先であるロックフェラーとCIAがオウムの裏にいたわけです。
どれだけの人がイルミナティとその手先の売国奴によって苦しめられてきたでしょうか?
人々の苦しみの上に、一部の人間が利益を得てきたのが夜の時代です。
これは「隠れていることができたから可能だった」のです。
隠れられなくなってきた。
誰の目にも本当のことがあきらかになってきた。
光に照らされ真実が出てきた。
これこそまさに昼の時代でしょう?
誰もが幸せになりたいと願っています。
では、幸せとは一体何なのでしょうか。
幸せとは、本当は自分の内側にあるものなのです。
「すべては自分の内側にある」
そういう目で見ると、この世界は決して不幸と苦しみに満ちているものではなく、誰もが本来は幸せなのだと気づきます。
自分に最もふさわしい姿で生きていれば、何の問題もなく生きられるはずなのです。
困難は私たちの敵ではなく、ずれを教えてくれるバロメーターなのです。
人生をつらいと感じるかどうかは、究極的には本人の見方の問題なのです。
例えば財布を落としたとしましょう。
あなたの財布を拾った人が、大喜びですぐに現金を使い果たしたとします。
物を売った人も経済的に救われたかも知れません。
「いつのまにかたくさんの人のお役に立てたな」と思えばちょっぴりうれしくなりませんか?
また、病気で入院したとしましょう。
「仕事ができなくなる」とあせるかわりに、「自分の時間を持ててよかった」と考えるのはどうでしょうか?
考え方を変えれば、幸不幸は自分が作り出しているということもまた真実なのです。
肯定的な側面を見つけるほうにエネルギーを注ぐよう心がけることです。
なぜなら、そのとき考えたことが、次の現実を作っていくからです。
自然は私たちそれぞれに、最もふさわしいプレゼントを用意して待っています。
私たちは「富は人間社会が生み出すもの」と誤解しています。
けれど、世界で一番の富は自然が作り出しているのです。
機械を初めとするいろいろな物がありますが、そのもともとの素材はすべて自然の恵みなのです。
人間は自然からどれだけ恵みを受け取ることができるかによって、貧富が決まってきます。
魚釣りであれば、一緒に行っても、たくさん釣れる人とまったく釣れない人がいます。
その違いはなぜ起きるのでしょう?
答えは簡単。
魚が来たときにエサを入れればすぐつれます。
その反対に、魚が過ぎ去った後にエサを入れてしまったらいくら待っても釣れないばかりか、エサを損するのがオチです。
つまり、運がいい人とは、自然の流れと自分をぴったり合わせている人のことなのです。
「いま・ここ」に心と体を合わせなさい
ずれを正し、運を良くするコツはまず「心と体をいま・ここに合わせる」ということです。
私たちの心と体はすぐに離れてしまいがちです。
肉体はいつも自然の時間と一致して「いま・ここ」にいますが、心は時間を超越しているからです。
心は不安におびえている時は未来に向かい、後悔しているとき過去をさまよいます。
「あの頃は良かった」とか「これからどうなるのだろう」など
自然と自分の時間のずれがどんどん広がっていくのです。
しかし、今日の空気は今日しか吸えないように、未来や過去に心が飛んでいる時その人は「いま・ここ」めがけて豊かに流れ込むエネルギーを取り込めなくなります。
プレゼントが届いた時家にいなければそれを受け取ることはできません。
「いま・ここ」に生きるとは過去をくよくよしない。未来を心配しないという生き方です。
幸せの予約とは「いま・ここ」に心と体をあわせることです。
英語で「いま」とはプレゼントと書きます。
いま、この瞬間こそがまさにプレゼントなのです。
それを文句や愚痴を言わないで肯定的に受け取る。
そうすれば次に起きる現実が変わり始めます。
いま、この瞬間を見ていますか?
本当に見ていますか
友人の話を、家族の話を聞き流して他のことを考えていませんか?
「来週はあのDVDを借りよう」とか「帰ったらアイスクリーム食べたいなあ」とか思っていませんか?
頭の中が未来や過去にすぐ行きませんか?
それこそが不幸のもとなんです。
「わけのわからないことを書くやつだな~」と思わないでください。
「こいつはアイスクリームが好きなのか・・・」ほっといてください。
どんなに不幸に思えても、今この瞬間を肯定的にとらえる。
これこそが「幸せの予約」なのです。
私がいつも考えているのは、みんなが平和に幸せに暮らしていくにはどうしたらいいのだろう?ということです。
争う必要などない。戦争なんかもっと不要です。
戦争は、ユダヤ人が核兵器や武器を敵対する両方に売って儲けるだけです。
問題は物質としての自分です。
自分をただ物質としてとらえていると、「守らなければ」なりません。
傷つけられないように、奪われないように、一歩先を予想して行動しなければならない。
そうすると不安や心配ごとが頭のなかから離れない。
そして過去に起きた失敗をクヨクヨ考えてしまう。
愚痴や不満が常に口から出て、周囲の人から近づきたくないと思われてしまう。
これらは「守ろう」とするから起こるのです。
守るのを止めればいいのです。
損失を肯定的に受け入れればいいのです。
傷つけられたり、苦しい時に「ああ、良かった」と言えばいいんです。
難しいですが、そうすると運命が変化し始めます。
世界が変わり、人生が変わります。
世の中の仕組みが理解できれば、これを実行できるようになります。
では次回は具体的に「いまにいる」ためにどうしたらいいかをお話しましょう。
はい、ご名答ですw
だって、興味の持てない比較的つまらない話を長々と続けられるもんですから。
だからと言って無理やり切るのも申し訳ないもんだから「プリン食べたいなぁ・・ヨーグルト食べたいなぁ・・」と考えながら聞き流しているんです。
ほっといてください。
なんちって(笑)