現実を味方につけよ

今までに出逢った「真実」を伝えていきます

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豪胆で細心になる方法

2010-05-29 14:09:52 | 日記
神経が図太くなる本 (桜木健古 著)より


私を感激させた一つの事件

「豪胆にして細心」と評されるものを、私は人間の理想像のように思うのですが、豪胆な人はいくらあっても。細心を兼ねている人は少ない。
これは神経質であってしかも強い、という人間だけが体得できるものなのです。

私の上司である支局長の例を見てみましょう。
支局長の社宅の二階で、うちわの宴会をした時、お酒の適量をまだよく自覚していなかった私は、つい飲みすぎて潰れてしまいました。
翌日昼ごろ目を覚ましてみると、夕べの部屋で布団にくるまって寝ている。大変な失態をやったと飛び起きて下へ行き、支局長に迷惑をわびると、
「迷惑?馬鹿いいたまえ。君が寝てしまったから布団に放り込んだだけさ。」
と失笑される。頭が割れるようなので、仕事は休ませてもらった。二日酔いで仕事を休むなんて大醜態なのですが、苦労人の彼は叱るどころか恐縮するぐらいいたわってくれる。
飲みつぶれただけならと、と醜態の中にもわずかに自分を慰めていたのですが、一週間ほどののちに給仕君が「じつは大変だったんですよ」と真相を聞かせてくれました。

私はつぶれたあげく、はでなコマモノ屋を広げてしまったのだそうです。同僚はみな帰ってしまい、奥さんも寝てしまっていて、その場にいたのは支局長と給仕君だけ。支局長は、そのコマモノ屋を自分で片付け、私の顔を冷水で清めてくれる。給仕君だの手を借り、私のシャツはだかにして布団にかつぎこんだという。
これだけでも翌日どやしつけられても頭の上がらない立場です。それなのに支局長は、その不快な作業が終わった後、給仕君に
「恥を書かせる必要は無い。たんに寝つぶれたことにしておけ。」
とコマモノの件の口外を禁じたという。

これは対人関係における最新の局地と言うべき行為でしょう。部下を傷つけまいために、自分の感情をおさえ、徳行も秘してしまおうと言うのですから。
この話を聞いたときの私の恥と感動は、今もわすれえないもの。「この人のためなら」という気持ちが熱く全身をひたしました。私は謝意を表することをしませんでした。支局長の本意にそむくと考えたからです。
その代わりに行動をもって支局長の部下愛に報いようと決心しました。

この人は神経質であるからこそ、精密と評すべきほどの対人関係ができる。そして、細心な配慮への自身があるからこそ、豪胆な行為をとることも可能であったのです。






親を選んで生まれてくれば良かった


幼児期には、家庭とは世界のほとんどすべてであり、肉親との交わりが対人関係の大部分です。
幼児期に、母親が不安やイライラにとりつかれていると、子もまた情緒の安定を失います。
夫婦仲が悪く、軋轢が絶えなかったりすると、これも悪い意味で影響を与えます。
人生を悲しみの場所のように感覚する人は、必ず幼児期に家庭で悲劇的なものを見、これにおびえた経験を持つ人です。
調和した明るい夫婦のもとで育った子が、人生に悲壮感や緊張感を抱いたりするような事例は絶対にあり得ないのです。
対人関係で調和できない人は、その昔の全世界であった家庭の中で、人間関係の不調和を見、体験して、これに神経を痛められた人です。
その頃の感情や認識が潜在意識のなかに残り続ける。その結果、社会への適応ができなくなってしまう。

「他人の非難を恐れる」とは、裏を返せば「人に褒められたい」心理です。まさにこれこそは親の叱責と賞賛によってしか事故の行動の価値を決められない、幼児や少年のそれに他なりません。他者に心理的に寄りかかっているから自分に対する批評が気になるのです。
ノイローゼ的な人たちは、幼児が母親の胸の中にあるときのような受動的な安全感を社会に求めている。
その安全感が得られないために不安やイライラが生じるわけです。

受けが完璧なら相手はこれに勝ちようがない。「受け」とは相手を包み込む」ことにほかなりません。
強者とは自分に与えられた境遇をー人であれ仕事であれー抱擁できる人でなくてはならない。
外界のあり方から逃げるような弱者に、自己創造の機会は与えられない。
意志の強い人をうらやんではいけない。彼らが「受け」のできる人であることに気がつかなくてはなりません。
受け止めるとは「くじけない」ことなのですから。違いはその姿勢だけにあるのであり、別に神様が、強い意思や弱い意志を人間に配給されているのではないのです。

自分を客観視するとは「他人のように自分を見る」ということです。
人に笑われた時にも、人と一緒に自分のこっけいを笑い飛ばすことのできる人が、自己客観視のできる人です。
自分の人生をアカの他人のように傍観できなくてはならない。
他人のことはどうでも良いが、自分の幸・不幸や成功・失敗は重大なことだとかんがえるのが自己中心主義である、ここから人間のあらゆる弱さが生じます。
幸福や成功を獲得せねばならないと執着する、まさにこれこそが人間をストレスや神経症に追いやる極悪犯人であるのです。
自由でおおらかな人生とはこの「ねばならない」をひとつも背負わないことです。

自分を強くするとは、「自分+何か」ではなくて、「自分-主観」という方程式です。
何かをプラスするのではなくて、何かを、つまり主観をのぞくことなのです。
調和した家庭の中ですくすくと成長した人は、おのずからたくましさを身につけている代わりに、それ以上の強さの持ち主になある機会は与えられていないのです。
特別の強さ、不死身と言うほどの精神力の持ち主はたいてい、かつて弱さに苦しみ、それを克服した人です。





「受け」ができる人と言うのは、いわゆる自分を捨てることができるということですね。
自分の幸せになりたいとか、希望とか、受け入れられたいとか、そういった主観がない状態。
そして、どんなに現実が嫌なものに見えてもそれをあるがまま受け入れる。
辛いこと、苦しいことから逃げない。
「今」という状況から目を背けないことこそ「受け」入れができているということです。


私の大学時代のヤブという友人の話をしましょう。
ヤブと私はとても仲が良く、いつも一緒にいました。学校にいる時もそう。メシを食ってるときもそう。
たいていヤブと数人の友人と一緒に大学でつるんでいました。

このヤブとある日「賭け」をすることになりました。
具体的な内容はなにか忘れましたが、テレビか芸能の話しで「白」「黒」と意見がまっぷたつに分かれることがあったんです。
「いや、あれは間違いなく白だったよ。」
「なにを言っているんだ、あれはどう考えても黒だろ。」

結局最後まで折り合いがつかずに、じゃあ賭けようということになった。
このときにヤブが
「俺は自分の意見に自信がある。あれは間違いなく白だから、俺は1万円賭ける。」と言うのです。
しかし、私も自分ではっきり覚えていましたから「じゃあ、俺も1万円賭けよう。」ということになったのです。
この不毛なやり取りはいかにもアホな大学生という印象ですね、すいません。

では真実はどうだったかというと・・・私の勝ちです。事実は私が言った通り「黒」だったのです。
だからヤブにいいました。
「黒だったね。賭けは俺の勝ちだよ。」
するとヤブは驚くことを言うのです。

「俺、賭けた1万円は払わない。お前と親友だったけど付き合いをヤメるから。」




「は?」
一瞬、私も耳を疑いました。過去に無いケース。
もちろん大学に行きながらアルバイトで1万円を稼ぐのは結構骨が折れますから払いたくない気持ちはわかりますが、付き合いをヤメる・・?
つい自分の勢いで1万円払う賭けをしてしまい、それをなんとかしたいならですね、違う方法もあるでしょう?「すまん、1000円に負けてくれ。」とか「晩飯を1回おごるから勘弁してくれ。」とか。
私が負けたのであれば、私は約束を守る責任感あるタイプですから10回払いにしてくれ、とか自分のカバンを8000円くらいで買い取ってくれ残りは現金で払うから、とか言うでしょう。

でも友人であることをヤメる・・?

「そう、もうお前とは友人でもなんでもない。赤の他人だからお金も払わない。」
「ナメてるのか、お前は!」
これが私の学生時代だったというのだからお笑いです。その後、私はヤブとは二度と口をきかなくなりました。
類は友を呼ぶ。私自身が利己主義になっていたので、同じような利己主義の人間が集まってきたのです。もちろん、私はずるいことは大嫌いで責任感も持っているタイプなのでこのようなことはしませんでしたが、それでも「お金が第一」という利己主義は同じわけです。
なぜ、そうなっていたかというと「愛情をもらえない飢餓」とそのために必死に努力してきた苦しみと、そういう世の中の姿勢に対する反発が原因です。

・・・くやしかった。どんなに頑張っても認めてもらえない、そのことに対する反発が「お金さえあればいいんだ」という世の中への冷めた見方としてあったわけです。


このヤブは「受け」ができないという点も私と同じでした。
自分から言い出した賭けの1万円です。負けたから本当は払わなければならない状況です。でも損したくない・・・だから友情を犠牲にした。

その結果はどうなると思いますか?
彼は二度と私に助けを求めることができない。人生は長いのです、どこでどんな形でまた再び私と出会うことがあるかわからない。
もしかしたら命に関わるような危険にさらされることもあるかも知れない。でも彼は私には「助けてくれ」と言えないのです。

因果というのは政木和三先生の言うとおり、絶対にまわりまわって帰ってくる。
その話しを聞いた他の友人達はどう思いますか?「信用して付き合って大丈夫だろうか?」とまわりの人間の信頼や信用も失ってしまうのではないですか?

損失を受け入れることなんか簡単です。自分を捨てればいいんです。
「自分が幸せになりたい。」「自分が良ければいい。」「自分はこうしたい。」
自分が・自分が・自分が・・・

この自分中心の考えを全部捨てる。自分が大事だという考えを捨てる。これが「受け」です。
そして、相手のことを優先して生きるのです。相手が喜ぶことはなにか?
馬鹿にされようが、笑われようが、自分は誰かの役に立つことをするんだ。自分は誰かの喜びにつながることをするんだ。
これができるかどうかですね。

幸も不幸も含めて自分の人生に起きるすべてを受け入れる。
目の前におきる不幸を「あ、そう」と受け入れる。
意外と慣れれば簡単にできるようになります。そして受けができれば「攻め」ができるようになる。
これは次回にでも紹介しますがメチャクチャ楽しいですよ。
まさに人生はまったく別のものになる。

私にできたのですから今苦しんでいる人や辛い状況にある人にもきっとできます。
ちょっと今回は過去を思い出して熱くなってしまいましたが参考になれば幸いです。



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調和

2010-05-23 14:18:50 | 日記
さて、「受け」ができないということについてもう少し掘り下げてみたいと思います。
普通の人だと嫌なことは受け入れられない。だから目の前の嫌なことから逃げようとする。
これが極端な人もいます。ノイローゼという状態の人ですが、いろんなことが嫌なのでできる限り現在の状況を拒否するという極端な精神状態になってしまったというケースです。
この「受けがまったくできない人」の状態が理解できれば、なにかわかるかも知れません。

ということでなぜ、そうなるのか?原因を探っていきましょう。





神経が図太くなる本 (桜木健古 著)より


性格学では「気質+反応=性格」という方程式があります。
反応とは外界との心理的、行動的な関係の仕方で、これが後天的に形成される部分です。
だから、気質は変えることもできないし、その必要もありませんが、反応の仕方は変えることができる。

反応の仕方とは、砕いて言えば「心の姿勢」ということですが「外界と調和できるか、できないか」ということです。
誰に対しても心の壁や対立感情を意識しない人は、外界と調和ができている、すなわち心の姿勢が正しいわけであり、これまで述べたような他人と和合できない気にし屋は対人的な適応ができない人たちです。
彼らが対人的な和合のできるようになることを、性格改造というわけです。

神経質と言う気質は先天的のもので、これ事態は善でも悪でもありません。いや、他の素質に比べ、特別に創造的な才能を内包しているのです。
「感受性が強い」ということです。これはまさしく才能ではありませんか?
感受性は鈍いより鋭い方が良いに決まっているからです。問題はこの「感じやすさ」が外界との関係においてどう発現されるかという一点にあります。
心の姿勢がゆがんでいると、せっかくのこの才能が実在性の無いものを描き出すと言う「悪用」にばかり用いられる。



小心と似て非なるものに「細心」という概念があります。こまかいところに配慮や観察力が行き届く、という意味です。
感受性強く想像力豊かという素質が、主観の世界の中で活躍すると、根拠の無いクヨクヨ=すなわち小心となりますが、これが客観的な対象の世界に向かって発露されると「細心」と言う才能になる。
対人関係であれ、仕事の上であれ、「こまかいところに注意がとどく」ならこれすなわち創造能力の豊かさに他ならないはずです。

小心と細心の別れ道が、恐れの有無、外界との調和か不調和か、想像力の善用か悪用か、にあることはもはやおわかりでしょう。
「小心であって細心でない」ひとつの人間像を描いてみましょう。


28歳の男性に「話したいことがある」とはがきを出したのに、2週間も返事がない。
用件は、かれの方の依頼で私が奉仕的にやってあげたことなのです。
はがきが着かなかったのかと重ねて連絡したら「何日にお伺いする」と返事が来た。遅れたことのいいわけには自分ひとりの都合だけを書いている。しかもその日にちというのが、返事が着いた日の翌日、さらに驚くべきことに時刻が指定していない。
どうでしょう、このでたらめ!気がきかない、という程度ではない、細心の反対の極地です。

その自分中心の態度はよくわかっていましたから、教育のために、予定はなかったのに外出してやろうと計画した。会社の寮から2時間以上かかるのですから、徒労によって少しは感じるだろうと思ったのです。
昼ごろ家をあけるつもりでいたらなんと11時にやってきた。親しい仲でさえ訪問を遠慮する時間です。
神経質な人が主観の世界に立てこもると、相手の立場という客観的な対象には、このように無神経になる。面白い現象です。
こんなことでは社会人失格と言うべきですから、コンコンとさとしてやると、恐縮した顔色の底に「口やかましい人だ」といわんばかりの反発がチラチラと見える。外界との調和がまったくない、対人関係の音痴なのです。

夕食のあと、酒が好きと言うから1杯のみに連れていった。店へ入ってまもなく「もう帰らなくては」とソワソワし始める。
聞いてみると門限も用件もあるわけではない。ただ、知らぬ土地にいることが落ち着かない、とにかく寮に帰りたいということだけらしい。それなら付き合いを断ればよかったはずです。
今にも立ち上がろうとするから、「ここは駅前なんだ。時間評を見てから間に合うように行けばよい。」と時間の使い方を教える。すると次の電車まで30分ほどある。
ここでその小心が病的に発揮されて、1分おきに腕時計を除いている。いわゆる神経質、人から嫌われる典型です。
15分もたつと、いたたまれずに立ち上がってしまう。「プラットフォームまで2分で行けるんだ。」と無理に引き据える。
私とマダムのおしゃべりが彼に興味の持てるテーマに入ると、時計をのぞくことをすっかり忘れて、自分が話の中心になってしまう。ハッと我にかえって時計を見ると電車はもう出てしまっている。
ほんとうにその電車に乗るべきなら、ヨモヤマ話などで時を忘れるのがどうかしている行為です。
他の客がギョッと振り向くような大声をあげ、顔には人生の大失策をやらかしたような、悲しみと悔恨の色がいっぱいに広がる。「電車は何本もあるんだ、次のに乗ればいい。」とどやしつけて落ち着かせる。幼児をあつかうようなものです。
次の電車が来るまでの間、例の如く時計ばかりのぞいていましたが、15分前になると有無を言わせず立ち上がってしまった。私が勘定を払うのももどかしく、アタフタとドアを開け急ぐ。
駅に来てみると待合室で待てばいいのに、寒風のさらすホームへ追われるみたいに立っている。電車が着くその場所に立ってしまわないことには、安堵感が得られないらしいのです。

どうですか、このすさまじき青年像!
彼は完全なノイローゼなのですが、それだけに「小心にして非細心」の典型を体現しています。
彼の心から恐れがなくなり、小心が細心へ、主観の妄想が客観的な配慮へと完全に転化されたらどうなるか。
「人が変わったようになる」のは当然のこと。その人生はただ楽しく、行動力は何倍にも増すに違いないでしょう。

失敗を恐れる小心な人に事業の成功はあり得ない。配偶者の心と身体に細心な注意が届くなら夫婦生活は調和しないわけにはゆかない。友情関係も同じ。職場での対人関係はなおさらでしょう。
感じやすさが内にこもるか、外へ向けられるか、人生の成否、幸と不幸はこの1点にかかっていると言えます。






私が以前大学で出会った友人は、うまく表現できないのですがキラキラと輝いているのです。それはオーラとでもいうのか、雰囲気というのかわかりませんが。
どんな状況でも肯定的に受け取る、笑顔でいつも返事をかえす。普通の人とは反応がまったく違うのです。
苦労して現役で大学に行った私とは違い、その友人は4浪して大学に入ったのですがまったくあっけらかんとしたものです。
何度か会話するうちに「ああ、私とは生まれた環境が違う。この人は愛されて育ったんだな。」とわかりました。

私は経済的に苦労したことはありませんでしたが、精神的には辛い幼児期を過ごしました。
だから、ものごとを慎重にかつ警戒心を持ってとらえる。上記のようなノイローゼになったことはありませんが、こんな雰囲気を出すと初めて会うような人は警戒するでしょう?
その「受け」がまったくできない私と違い、友人はなんでも受けができているのです。表情で言葉でわかる。
嫌な出来事を聞いて「良かった~」なんて言えますか?ありえないでしょ。


私が物心ついたころからの記憶ですが、私の父親は目を見て話をしてくれないのです。
一度も子供である私に目を合わせてくれない。私は理解に苦しみました。
私自身が「愛される価値のない存在」なのだろうか?どうして父親は私を見てくれないんだろうか。どうして話しかけてくれないのだろうか。
私は父親とキャッチボールをしたこともありません。私はいったい父にとってなんなのか?


その受け入れてもらえない分を母親にかまってもらうことで満たそうとしました。
しかし、私の母は私の存在を「そのままでいい」と受け入れてくれることはなく、常に「もっと頑張れ。」と言う人でした。
「頑張って勉強して、いい大学に入って、いい会社に入って・・・」といういわゆる受験勉強の世代を育てた頃の親でした。
私はいつまでたっても愛されることはありませんでした。

「良くやった。」ただその一言が欲しかった。でもいつも「次はもっといい点数を取れ。」
「他人より抜きん出なさい。」と言われて育ったのです。
私は勉強ができて、他人より優れていることを要求されました。
私は常に頑張っていなければならず、自分の実力以上のものを出さなければならず、期待に答えなければならなかったのです。
息苦しさを押し殺し、努力・努力・努力・・・
「大学に行けば仕事はなんでもある。なにがなんでも大学に行きなさい。そしていい会社に入りなさい。」
そして頑張って勉強をして、大学に入ったあたりから「いったい何のために生きているのか?」と自分の存在に疑問を持ちはじめます。

「いったい自分はなんなんだろう?」
・・・燃え尽きてしまった。もう他人の期待にこたえるのは嫌だ。
もう必要以上に努力するのは嫌だ。もう社会の要求に素直に従うのは嫌だ。


嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!


何をするにも面倒くさい、できるだけ人と関わりたくない。俺のことはほうっておいてくれ。
もうどうでもいい。冗談じゃない。人と比べて競争に勝つこと、人と比べて試験で勝つこと、人と比べてより努力をすること。
もうごめんだ。俺はなんにもしたくない。生きる意味も見失ってしまった・・・

そんな大学時代を過ごしました。
そして、ちょうど卒業する頃には「超氷河期」と言われる就職難。求人は大幅に落ち込み、100社面接を受けても落ちるという有り様でした。
「大学に行けば仕事はある」って親も世間も言ったじゃん?なんだ、全部嘘だったのか・・・
世間に対する悔しさ、社会に対するうらみから私の心はゆがみ、人と調和して生きることは難しかった。
いわゆる利己主義に取りつかれ「金さえ稼げばいいんだろう!好き勝手なことばかりいいやがって。」という価値観でしたから、人と調和できないのも当たり前です。



そんな私が心のゆがみを無くし、今では他人と調和して楽しく生きることができているのですから人生わからないものです。

人と話しをすることが楽しくて仕方ない。仕事が楽しくて仕方ない。
そしてできるだけ人に親切に生きよう。これが今の私のモットーですが、こんな風に外界と調和できなかった人間が、調和できるようになるのです。
不思議なことです。しかし、この謎が解ければ誰かの役に立つのではないか?
同じように調和ができない人はたくさんいる。その人たちが幸せに生きるためには一体どうしたらいいか?

普通、「調和できる人」は一生そのまま調和できる、「調和できない人」は一生調和できない、と考えてしまいます。
しかしこれは間違いです。人は変われる。人は強くなれる。
誰でも「受け」ができる状態になれるはずなんです。それはどうしたらいいのでしょう?
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受け

2010-05-17 11:39:11 | 日記
神経が図太くなる本 (桜木健古 著)より


「命知らず」と評される人がいます。命なんかいらない、自分一身などどうなってもよいというのですから恐れるもののある道理が無い。世にこれほど強い精神状態はあり得ないでしょう。
この危険を母親が身を捨ててかばうと言うような時、この「命知らず」の精神が、とっさに本能的に出てくるわけですが、別に急の時に限らない。
仕事であれ対人関係であれ、対象に没入してこれと一枚になる時、人は誰しも「自分を忘れる」状態になることができます。こういうときに、人間は強くもあり、幸福でもあるのだと私は思います。
そして、自分を投入する、そのためには生命の危険にさらされても恐れを持たない、と言うのであれば、かれは不死身の強さの持ち主と評されて良いでしょう。「我欲の無い人は強い」ということでしょうか。

ある男性が好きな女性に告白できないとします。
男性が告白する勇気を持てないのは「失敗を恐れる心理」のためです。プロポーズして拒否された場合の自分の惨めさ、それ以後のつきあいの難しさなどに耐えられそうに無い。話がバレて第三者から笑いものにされる可能性も屈辱として描かれる。
この恐るべき事態を回避するために、意思表示の機会をいつまでも先延ばししようとする。
この男性は女性本人をも恐れています。「彼女が自分をどう評価するか」を恐れているのです。低く評価されることに耐えられない、だからプロポーズが拒否された場合を恐怖しなくてはならないわけです。

彼に恐れの心理がかけらほども無かったとしたら、彼はいいたいことを言い、やりたいままをやるというたくましい生き方ができたに違いない。
失敗を恐れず、他人の批評を恐れない-これではブレーキなし、アクセルだけの自動車のようなもの。
恐れの感情がまったく消えてしまった、と仮定して御覧なさい。ただそれだけであなたは別人のように強くなってしまうはずです。





受けについて別の角度から見ていきましょう。
誰だって幸せに生きたいです。前回「損失を受け入れて、人の役に立つ」という考えを説明しましたがどんどん色んな人の役に立っていると、何かあったときに「あいつにたのもう」「あいつを使おう」となりますね。
つまり自分の運命が変わってくるんです。仕事であれば新しい仕事を任されるかもしれない、また別のたいしたことでないことに呼ばれるかも知れない。
「パソコンが使えないんだけどこんな文書を作って欲しい」「こういう料理の作り方を子供に教えてあげて欲しい」「ボランティアでゴミ拾いするんだけど一緒に行ってくれないか?」
なんでもいいんです。人の要求にたいして笑顔で「いいよ」と答えることです。そして普段から頼まれやすい人物でいること。
そして頼まれごとには自分の全力を尽くす。
そうすると、また次回べつの新しいところへ呼ばれて行きます。
どんどんあっちこっちへ連れて行かれる・・・そうすると、ふと新しい出逢いがあるんです。

思いもかけないところで友人ができたり、新しい分野に引きづりこまれる。
運命というのは人が運んでくるんです。だから人を大切にしなければいけないんです。
子供だからといいかげんに対応したり、お年寄りだからと軽く扱ったりしていると思わぬしっぺ返しがあります。
それはすぐには出てこないんです。まわりまわって自分のもとに返って来る。結局、因果というのは絶対に逃れられないんですね。

私は「自己保存」をできるだけ捨てて人の役に立つことをずっと説明しているんですが、この自己保存とは一体なんでしょう?
損を受け入れて、あるいは苦しみを受け入れて、余分な労力を使うことを受け入れて、人のために尽くせれば自分の運命が変わり始めるんですが、これがなかなかできない。

自分をなぜ守る必要があるんでしょう?それは自分の体が物質であり、有限だからですね。
自分の体がトヨタのトラックに引かれても大丈夫であれば、なにも守る必要はありません。
あるいはスパイダーマンのようにサタニストの手のサインをしながらビルから飛び降りても無事であれば、なにも守る必要はないんです。
ロスチャイルドの作ったイスラエルを支援しているマクドナルドの「えびフィレオ」に全財産をつぎ込んで、1週間後には食べるものが何も無いが絶対に飢え死にしないのであれば、なにも守る必要はないんです!

でもそんなわけにはいきませんね。


だから自分の「有限である体」を守るために人は恐怖を感じるようになっているんです。
この恐怖を克服することができれば「自己保存」の問題も消え去るはずです。





恐怖とはそもそも何でしょう?
もし人間に恐れの本能が無かったらどういうことになるか。いま殺されようとしているのに死への恐怖がまったくない、としたら人の命などいとも手軽に、次から次へと地上から姿を消すでしょう。
とすると、恐怖心とは人間の自己保存のために神が与えたもうた才能である、と考えることもできます。

「他人の批評が気になる」というとき、その批評なるものは、本当に実在するものなのでしょうか。
悪評であるからといって、これを気にすべき理由がどこにあるでしょうか。それらによって自分の生命や生活に実害が及ぶというのですか。相手はべつに刃物をふりかざして迫ってきているわけではないのです。
人が何を言っていようと、口と言う物体がパクパク動きそこから空気が放出されて声と言う音になっているという物理現象があるに過ぎないのです。

受験勉強中のある高校3年生から手紙をもらったことがあります。
「落ちたらどうしよう」その想念ばかりで頭がふさがって勉強に全然手がつかないというのです。
彼が恐れているのは落第そのものではありません。親の期待、先生や友人の関心、これらのものの前に落第と言う事実がさらされたとき自分の立場が耐えられないとよそうされるために落第を恐れるのです。落第した時の他人の眼をこそ恐れているわけです。
もしかれの周辺に、関心を持つ人がひとりもないとした場合どうなりましょうか。
合格しようが落ちようがほとんどどうでもよいこと。どっちにしたってその結果を笑ってこうていするだけでしょう。それなら落第への恐れなど生じようが無い。たんに勉強し努力するほかに手がないはずです。
失敗への恐れとは「自分の失敗に向けられる他人の眼への恐れ」と定義することができるでしょう。





恐怖にはどうも2種類あるようで、本当に「自己保存のための恐怖」と「まったく恐れる必要もない想像上の恐怖」がそれぞれある。
これってよくありますよね。夜の学校がなんとなく怖いとか(自分を傷つける存在がいない)。
また、人間はなにか新しいことを始める場合にも「大丈夫かな」と恐れを感じることがあります。

生きている限りこの恐怖から逃れられないのでしょうか?
そんなことはありませんね。子供が危険にさらされた時に母親が身をていして助ける、その時に恐れの感情はない。
同じように目の前のいくばかの苦しみを受け入れ他人のために役に立つことをする。

共に「受け」ができている状態です。
現実を受け入れることができている。

外界と調和ができている。これが現実を味方につけるということです。

人間、嫌なことが目の前に来た時につい「いま」から目をそむけてしまいます。
めんどくさいな、やりたくないな、損したくないな、苦しいのは嫌だな・・・
しかし「いま」はあなたにとって辛い状況になっているかもしれませんが、これが後になってどう転ぶかなんて誰にもわからないわけです。めんどくさい仕事を引き受けた・・・その結果まったく別の分野から収入が得られることになった。苦しいのを我慢して誰かの用事を手伝った・・・その結果新しい出会いがあった。
「今」目の前のものが自分にとってマイナスに見えても、その出来事がどう転換するのかまで見えない。だから、嫌だなと見える今を拒否してしまう。
派遣にお金を払っているのは嫌だな、と思うからイキナリ
御手洗「九州で派遣を1000人切ります。」というまぬけなことをしてしまうんです。
経済界の連中は経済のことなんかまったくわかっていないのでしょう。

長い目で見ることができるようになれば簡単なんですが、なかなかそういうことができる人は少ないようです。教育で、社会で、家庭で、「できるだけ効率よく、できるだけ早く、できるだけ無駄なくいろんなことをしなさい」と言うように基本的な考え方や行動をゆがめられてしまっているからですね。
これを改善して運命をよくしようと言うんですから、こいつはわけのわからん奴だと思われる方も多いかも知れません。


にがいピーマンを食え、というのか。その通りです。その目の前の「にがさ」があなたの身体を、健康を形作るでしょう?
赤と黄色と緑のピーマンと焼き鳥を食え、炭火焼がおすすめだぞ、というのか。
そんなことは言ってません。

でもみんな笑顔になって、協力的になって、みんなの運命がどんどん良くなれば日本全体も良くなっていくでしょう?
じゃあ、自分の知っていることは惜しみなく全部伝えよう。そう思っています。









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誰かの役に立つ

2010-05-16 19:11:47 | 日記


楽しく上手にお金とつきあう (小林正観著) より



神様は、この世に存在するすべてのものを、喜ばれるために作りました。
「お金」も、もちろん「喜ばれるため」に存在しています。
人口3000人ほどのある村で、78歳のおばあさんが亡くなりました。葬儀をあげたところ、村民の半数以上が参列したそうです。村長が亡くなっても700人ほどの参列者だったのに、そのおばあさんの葬儀には1500人もの人が参列したのです。
このおばあさん、小学校の先生をしていましたが、ほかには特に目立ったことはしていません。
ただ、死ぬまで教え子の店でしか物を買わなかったそうです。
村に大型スーパーやディスカウントストアができてもスーパーより2、3割高い教え子の店にしか行きませんでした。
そのおばあさんは、いつもお店の人たちから心のこもった「ありがとうございます」という言葉を浴びて暮らしていました。

どこでもいいから1円でも安くではなく、喜ばれるお金の使い方をしていたのです。
その結果、おばあさん自らが喜ばれる存在になっていた。





人はみな損をしたくないと思っています。そりゃそうです、同じ商品なら1円でも安く買いたいと思うのが道理ですよね。
問題は「なぜ1円でも安く買いたいのか」ということです。このような気持ちが出てこなければ安売りのお店に人が集まることはないでしょう。
あなたはなぜ、安く買いたいのですか?








新潟市の東南に横越という地区があり、そこに北方文化博物館という建物があります。
大地主である伊藤さんと言う方のお屋敷でしたが、それをすべて寄贈し、現在は財団法人北方文化会館となっています。
1964年に新潟大地震がありました。マグニチュード7.5の大地震で、津波や火災による被害もあり、2万戸移住斧家が家事や倒壊の被害にあいました。
伊藤家は瓦一枚落ちなかった。壁にひびも入らなかったそうです。いったいなぜでしょうか。

昔、米どころの新潟で、3年間の飢饉があったそうです。そのとき当時の伊藤家の当主が近隣の農家に
「うちの庭園に築山を造ってくれ」と声をかけました。
ただし、機械は一切使わないで下さい。ブルドーザーや大八車も使わず、手で作ってください。
手で少しずつ土を運ぶなんて大変です。ブルドーザーでやってしまえば、いっきにできる。それにもかかわらず、手で運ぶことにこだわりました。

手で運ぶのは誰にでもできます。80歳のお年寄りにも、5歳の子供にもできる。
伊藤家は土を運んでくれた人たちに、誰にでも同じ賃金を払いました。
今もあるその築山は、高さ4~5メートル、幅10メートルくらい。それほど大きな築山ではありません。
それを造るのに3年半かかったそうです。その間、伊藤家では賃金を払い続けました。

飢饉が回復し、築山が出来上がったとき、近所の人たちは言いました。
「伊藤さんのおかげで、私達は一家心中しないですみました。あの仕事のおかげでどれだけ助かったか。」


伊藤家は藍染めをしてきた家ですが、初代の頃から飢饉の時にお金を放出して来ました。
それもただあげるのではない。仕事をつくってあげるのです。
周囲の人たちは
「伊藤家にはずっと栄えてもらいたい。いや、栄えてもらわなければ困る」と思ったのではないでしょうか。
伊藤家に富が集まっても、妬み、そねみは浴びせられなかったそうです。

そして新潟大地震のとき、まったく被害を受けなかった伊藤家は、何十室もある自宅を開放し、多くの人がそこでしばらく生活しました。食べ物などもたくさん放出しました。
神様からご覧になったら、この家は無傷で残しておく必要があった。その方が多くの人のためになる。
だから伊藤家は被害を受けなかったのでしょう。






人は無意味なことはしたくありません。
無意味なことをずーと続けていると次第に発狂してくるのだとか。
例えば、右の皿に山盛りの豆がある。それを左のカラっぽの皿にお箸でひとつずつ移動させていく。
左の皿が山盛りになったら、今度は右の皿にひとつずつ移動させていく。
意味は?ありません。

お金も同じです。
高い店で買うとその分タダ働きをしなければならない。他に欲しかった物を買えなくなるかもしれない。食費が無くなって給料日まで食べ物が食べられなくなるかもしれない。
そんなことは誰だって嫌です。「自己保存」の本能が全面に出てくるんですね。これは本能です。

でもよく考えてください。いったい人は何のために生まれてきたのか?
自分だけ良くて、他人は不幸になってもいい。それがより良い生き方でしょうか?
あるいはロスチャイルド・イルミナティのように経団連の奥田のように、他人を不幸に陥れて自分達だけ繁栄すればいい。そんな生き方が果たしてまっとうでしょうか?
違いますよね。
人は「誰かの役に立つために生まれてきた」
人以外の動物も植物も物質も「何かの役に立つために存在している」

いくらお金を持っていても死ぬ時に持ってはいけません。
だから、損失を受け入れることです。相手が喜んでくれる時に自分は損を受け入れて生きる。
苦しいことを受け入れることです。誰かが幸せになれるなら、そのために労力を惜しまないことです。
そして「誰かの役に立つ」存在として生きることです。それを受け入れられるかどうかがその人の運命を左右します。

いかに自分の立場を離れて、相手の状況を思ってあげられるか。
その自分本位の考えを捨てることができれば、世の中の流れが変わります。
あなたのまわりだけ思いもよらないことが起こり始めます。
今の苦しい状況を「受け」入れることができるか。この世界はあなたを「受け」ができるかどうかためしているのです。





私はいつも「人に喜ばれるようにした方が、結局は自分の得になる」という損得勘定の話をしているのです。
福島県は果樹の栽培が盛んで、桃、なし、りんご、ぶどう、かきなどがたくさん生産されています。
ある道路沿いに十数軒の観光果樹園が並んでいました。ところが、その十数軒のうちにぎわっているのはわずか2軒だけ。
同じ地域で作っているのですから、気候などの条件は同じはず。それほど差が出る理由は一体何なのでしょうか。

近くで宿を営む人が、こんな話を聞かせてくれたのです。
「店頭で試食されていますよね。お客さんは試食して買いますから、試食には一番おいしい果物を出すんです。けれども注文を受けたら、もう少し安物を送る。このほうが儲かりますから。試食した時と味が違うと苦情を言われても、果物は一つ一つで出来が違う、と言えばそれまででしょう。」
観光客相手で一回限りのことだから、それでいいと思ったのかもしれません。当初はそれでよかったのですが、数年経つうちに、だんだん売れなくなってきたそうです。
ところが2軒だけは違いました。

その2軒は試食に出したものと同じレベルの品を送っていました。「味が違う」と苦情を言われた時には「おいしくなかったら信用問題だから」とわざわざもう一度送り直したりしていた。そのうちに他店と差が出てきたんです。




この積み重ねが人生を大きく変えます。
目の前の損を、苦しみを、受け止めて人の喜びのために生きる。短い目で見ればその時のわずかな損が、後になってあなたの大きな力になるのです。
法律をねじ曲げて、労働基準法を無視して派遣を使い捨てるような経団連のようなことをしていると後で必ず戻ってきます。
「人件費を削って得をした」
アホですね。将来の自分に降りかかってくる火の粉を増やしているだけです。
自分で作った原因が後になって戻ってくる。因果応報という世の中の仕組みがわかってないから目の前の小さな損にとらわれるのです。


コメント

工作員ですか、そうですか

2010-05-16 01:12:42 | 日記
さて、前回からずいぶんと間隔が開いてしまいました。
この間に2~30冊の書籍を読み漁り、黒幕さんについて色々と調査をしていました。掲示板でASさんが「まったくソースを示さないで想像だけで語るのは間違いだ」というような発言をされていたので、ふむそう言われればユダヤ関連の書籍は対して見ていないなあ。
じゃ、根拠を提示するためにも少し本を読んでおくかと思い一心不乱に読み漁る・・・それで今日に至るわけです。
まだ、最後に買って読まなければならない書籍がありますがちょっと一息。
途中でこのブログの続きを書こうかとも思いましたが、そもそもソーゾーさんへの恩返しで始めたのにこのブログを続ける根拠が崩れてしまう出来事が起こります。
それは通貨発行権のカラクリを教えてくださった私の師であるソーゾーさんが私をイルミナティの手先扱いしたことです。




136 :ソーゾー君 ◆0aWIMuV0Ro :2010/04/23(金) 11:41:20 ID:vsuMnLFY
「早めに民間銀行FRBの中抜き額を語れw」
俺はね中抜きの額の問題より蛇口(発行権)のほうが重要な事は知ってるのヨンw
だから百式とコンビ打ちで中銀の中抜きの話題に振って行ったわけだww
それと百式は新たに作ったカルト応援ブログ?一人応援ブログを消したのか?
図星過ぎて呆れるな・・・・サバタイ子武器方式が通用するかアホ・・・
「私は考える力は無いが人を見る目がある!」by百式
両方とも無いなw何時まで演じるか楽しみだなww




コンビ打ちなどしたこともないのですが、まあここまで勘違いされればしょうがない。
ブログを続ける必要もないだろう、と放置していました。
しかし、ソーゾーさん以外の方もたくさんこのブログを見ていただいていましたしそういう意味では続けることに意義もあるかな?と考えなおしました。
今まで私の未熟な点に目をつぶって温かく見守ってくださっていた多くの方への恩返しとして、(時間があるときだけですが)細々とやっていこうと思います。




186 :百式 ◆K.oTJPZF2. :2010/04/25(日) 23:08:17 ID:BjX1ysyQ
復活しましたか。
ソーゾーさん、「マネー/金融 システムの闇の超起源」(R・D・ウィリング)
という本を読んでください。
ぱらぱらとめくっただけで何か重要なことが書かれていると判断しました。
しかし、内容が紙幣の起源そのものに迫るものであり宗教や歴史や聖書の知識も理解する上で必要であり、現在の私のブログで扱えるレベルをはるかに超えてしまっています。
ソーゾーさんならなにかつかめるかも知れません、期待してます。




193 :ソーゾー君 ◆0aWIMuV0Ro :2010/04/26(月) 08:55:59 ID:NgmUqPsY
ぱらぱらっと読んだだけで重大な事が書いてあると思うだと?自分で読めドアホ
目を血走らせて視力が低下する位まで読んで理解して重大な事が書いてあると判断してから
進めろアホ・・・伊藤一人のマンセーカルトブログは削除したのか?w
「私は考える力は無いが人を見る目がある」by百式←嘘っぱちだなw
お前のブログでその本を一文でも貼って何が重要なのか語ってろアホw
で・・・・対抗手段になる?こんな内容で?何が出来るの?
伊藤一人と一緒じゃないかww
「歴史や宗教と言う迷路に迷い込ませてゴールに辿り着かないようにする」
昔のスレに戻ったなwASの次は百式をオピニオンリーダーにするのか?




歴史や宗教と言う迷路に迷い込ませてゴールに辿り着かないようにする・・・などという目的はまったくないので、どうぞご自由に掲示板でユダヤ問題を語ってください。
私はリーダーになれる器でもなく、ただ純粋にみんなが平和にまともに暮らせる社会が来てほしいだけです。
そのためにこの問題を追っている。
それからカルトという言葉は「宗教」という意味で使われますが、どのような宗教法人名の人の話題をブログで扱ったというのでしょう?
斉藤一人氏をはじめこのブログで紹介した文章では誰一人、宗教法人に属している人はいないのです。
もし「カルト=考え方がおかしい」というのであれば人はそれぞれ違う考えを持っているのであり、非難する人自身が「カルト」呼ばわりされても仕方が無いことになりますね。



750 :ソーゾー君 ◆0aWIMuV0Ro :2010/04/29(木) 03:13:00 ID:8nG8pGKS
「伊藤一人のマンセーカルトブログは削除したのか?w」←ここw
もう一つの疑問→「現在の私のブログで扱えるレベルをはるかに超えてしまっています」
扱えるレベル?初心者用ブログって言うけど読者なめてるなお前w
で・・・上級者ブログって何処にあるの?上から目線で物言うなよw




ブログを削除したのではなく、あなたが恩返しに値しなくなったんです。
私は読者の方を馬鹿にしたことは一度もありません。
どうぞ、ご自由に掲示板で議論をお続けください。
私は通貨発行権を取り戻すこと(全銀行国有化)にも賛成ですし、民主党にも賛成しています。
その議論の邪魔をするつもりは毛頭ありません。この国を守りたいですから。

というわけでこれからはソーゾー君と呼ばせていただきます。
あなたの今後の議論に期待していますよ。

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