現実を味方につけよ

今までに出逢った「真実」を伝えていきます

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豪胆で細心になる方法

2010-05-29 14:09:52 | 日記
神経が図太くなる本 (桜木健古 著)より


私を感激させた一つの事件

「豪胆にして細心」と評されるものを、私は人間の理想像のように思うのですが、豪胆な人はいくらあっても。細心を兼ねている人は少ない。
これは神経質であってしかも強い、という人間だけが体得できるものなのです。

私の上司である支局長の例を見てみましょう。
支局長の社宅の二階で、うちわの宴会をした時、お酒の適量をまだよく自覚していなかった私は、つい飲みすぎて潰れてしまいました。
翌日昼ごろ目を覚ましてみると、夕べの部屋で布団にくるまって寝ている。大変な失態をやったと飛び起きて下へ行き、支局長に迷惑をわびると、
「迷惑?馬鹿いいたまえ。君が寝てしまったから布団に放り込んだだけさ。」
と失笑される。頭が割れるようなので、仕事は休ませてもらった。二日酔いで仕事を休むなんて大醜態なのですが、苦労人の彼は叱るどころか恐縮するぐらいいたわってくれる。
飲みつぶれただけならと、と醜態の中にもわずかに自分を慰めていたのですが、一週間ほどののちに給仕君が「じつは大変だったんですよ」と真相を聞かせてくれました。

私はつぶれたあげく、はでなコマモノ屋を広げてしまったのだそうです。同僚はみな帰ってしまい、奥さんも寝てしまっていて、その場にいたのは支局長と給仕君だけ。支局長は、そのコマモノ屋を自分で片付け、私の顔を冷水で清めてくれる。給仕君だの手を借り、私のシャツはだかにして布団にかつぎこんだという。
これだけでも翌日どやしつけられても頭の上がらない立場です。それなのに支局長は、その不快な作業が終わった後、給仕君に
「恥を書かせる必要は無い。たんに寝つぶれたことにしておけ。」
とコマモノの件の口外を禁じたという。

これは対人関係における最新の局地と言うべき行為でしょう。部下を傷つけまいために、自分の感情をおさえ、徳行も秘してしまおうと言うのですから。
この話を聞いたときの私の恥と感動は、今もわすれえないもの。「この人のためなら」という気持ちが熱く全身をひたしました。私は謝意を表することをしませんでした。支局長の本意にそむくと考えたからです。
その代わりに行動をもって支局長の部下愛に報いようと決心しました。

この人は神経質であるからこそ、精密と評すべきほどの対人関係ができる。そして、細心な配慮への自身があるからこそ、豪胆な行為をとることも可能であったのです。






親を選んで生まれてくれば良かった


幼児期には、家庭とは世界のほとんどすべてであり、肉親との交わりが対人関係の大部分です。
幼児期に、母親が不安やイライラにとりつかれていると、子もまた情緒の安定を失います。
夫婦仲が悪く、軋轢が絶えなかったりすると、これも悪い意味で影響を与えます。
人生を悲しみの場所のように感覚する人は、必ず幼児期に家庭で悲劇的なものを見、これにおびえた経験を持つ人です。
調和した明るい夫婦のもとで育った子が、人生に悲壮感や緊張感を抱いたりするような事例は絶対にあり得ないのです。
対人関係で調和できない人は、その昔の全世界であった家庭の中で、人間関係の不調和を見、体験して、これに神経を痛められた人です。
その頃の感情や認識が潜在意識のなかに残り続ける。その結果、社会への適応ができなくなってしまう。

「他人の非難を恐れる」とは、裏を返せば「人に褒められたい」心理です。まさにこれこそは親の叱責と賞賛によってしか事故の行動の価値を決められない、幼児や少年のそれに他なりません。他者に心理的に寄りかかっているから自分に対する批評が気になるのです。
ノイローゼ的な人たちは、幼児が母親の胸の中にあるときのような受動的な安全感を社会に求めている。
その安全感が得られないために不安やイライラが生じるわけです。

受けが完璧なら相手はこれに勝ちようがない。「受け」とは相手を包み込む」ことにほかなりません。
強者とは自分に与えられた境遇をー人であれ仕事であれー抱擁できる人でなくてはならない。
外界のあり方から逃げるような弱者に、自己創造の機会は与えられない。
意志の強い人をうらやんではいけない。彼らが「受け」のできる人であることに気がつかなくてはなりません。
受け止めるとは「くじけない」ことなのですから。違いはその姿勢だけにあるのであり、別に神様が、強い意思や弱い意志を人間に配給されているのではないのです。

自分を客観視するとは「他人のように自分を見る」ということです。
人に笑われた時にも、人と一緒に自分のこっけいを笑い飛ばすことのできる人が、自己客観視のできる人です。
自分の人生をアカの他人のように傍観できなくてはならない。
他人のことはどうでも良いが、自分の幸・不幸や成功・失敗は重大なことだとかんがえるのが自己中心主義である、ここから人間のあらゆる弱さが生じます。
幸福や成功を獲得せねばならないと執着する、まさにこれこそが人間をストレスや神経症に追いやる極悪犯人であるのです。
自由でおおらかな人生とはこの「ねばならない」をひとつも背負わないことです。

自分を強くするとは、「自分+何か」ではなくて、「自分-主観」という方程式です。
何かをプラスするのではなくて、何かを、つまり主観をのぞくことなのです。
調和した家庭の中ですくすくと成長した人は、おのずからたくましさを身につけている代わりに、それ以上の強さの持ち主になある機会は与えられていないのです。
特別の強さ、不死身と言うほどの精神力の持ち主はたいてい、かつて弱さに苦しみ、それを克服した人です。





「受け」ができる人と言うのは、いわゆる自分を捨てることができるということですね。
自分の幸せになりたいとか、希望とか、受け入れられたいとか、そういった主観がない状態。
そして、どんなに現実が嫌なものに見えてもそれをあるがまま受け入れる。
辛いこと、苦しいことから逃げない。
「今」という状況から目を背けないことこそ「受け」入れができているということです。


私の大学時代のヤブという友人の話をしましょう。
ヤブと私はとても仲が良く、いつも一緒にいました。学校にいる時もそう。メシを食ってるときもそう。
たいていヤブと数人の友人と一緒に大学でつるんでいました。

このヤブとある日「賭け」をすることになりました。
具体的な内容はなにか忘れましたが、テレビか芸能の話しで「白」「黒」と意見がまっぷたつに分かれることがあったんです。
「いや、あれは間違いなく白だったよ。」
「なにを言っているんだ、あれはどう考えても黒だろ。」

結局最後まで折り合いがつかずに、じゃあ賭けようということになった。
このときにヤブが
「俺は自分の意見に自信がある。あれは間違いなく白だから、俺は1万円賭ける。」と言うのです。
しかし、私も自分ではっきり覚えていましたから「じゃあ、俺も1万円賭けよう。」ということになったのです。
この不毛なやり取りはいかにもアホな大学生という印象ですね、すいません。

では真実はどうだったかというと・・・私の勝ちです。事実は私が言った通り「黒」だったのです。
だからヤブにいいました。
「黒だったね。賭けは俺の勝ちだよ。」
するとヤブは驚くことを言うのです。

「俺、賭けた1万円は払わない。お前と親友だったけど付き合いをヤメるから。」




「は?」
一瞬、私も耳を疑いました。過去に無いケース。
もちろん大学に行きながらアルバイトで1万円を稼ぐのは結構骨が折れますから払いたくない気持ちはわかりますが、付き合いをヤメる・・?
つい自分の勢いで1万円払う賭けをしてしまい、それをなんとかしたいならですね、違う方法もあるでしょう?「すまん、1000円に負けてくれ。」とか「晩飯を1回おごるから勘弁してくれ。」とか。
私が負けたのであれば、私は約束を守る責任感あるタイプですから10回払いにしてくれ、とか自分のカバンを8000円くらいで買い取ってくれ残りは現金で払うから、とか言うでしょう。

でも友人であることをヤメる・・?

「そう、もうお前とは友人でもなんでもない。赤の他人だからお金も払わない。」
「ナメてるのか、お前は!」
これが私の学生時代だったというのだからお笑いです。その後、私はヤブとは二度と口をきかなくなりました。
類は友を呼ぶ。私自身が利己主義になっていたので、同じような利己主義の人間が集まってきたのです。もちろん、私はずるいことは大嫌いで責任感も持っているタイプなのでこのようなことはしませんでしたが、それでも「お金が第一」という利己主義は同じわけです。
なぜ、そうなっていたかというと「愛情をもらえない飢餓」とそのために必死に努力してきた苦しみと、そういう世の中の姿勢に対する反発が原因です。

・・・くやしかった。どんなに頑張っても認めてもらえない、そのことに対する反発が「お金さえあればいいんだ」という世の中への冷めた見方としてあったわけです。


このヤブは「受け」ができないという点も私と同じでした。
自分から言い出した賭けの1万円です。負けたから本当は払わなければならない状況です。でも損したくない・・・だから友情を犠牲にした。

その結果はどうなると思いますか?
彼は二度と私に助けを求めることができない。人生は長いのです、どこでどんな形でまた再び私と出会うことがあるかわからない。
もしかしたら命に関わるような危険にさらされることもあるかも知れない。でも彼は私には「助けてくれ」と言えないのです。

因果というのは政木和三先生の言うとおり、絶対にまわりまわって帰ってくる。
その話しを聞いた他の友人達はどう思いますか?「信用して付き合って大丈夫だろうか?」とまわりの人間の信頼や信用も失ってしまうのではないですか?

損失を受け入れることなんか簡単です。自分を捨てればいいんです。
「自分が幸せになりたい。」「自分が良ければいい。」「自分はこうしたい。」
自分が・自分が・自分が・・・

この自分中心の考えを全部捨てる。自分が大事だという考えを捨てる。これが「受け」です。
そして、相手のことを優先して生きるのです。相手が喜ぶことはなにか?
馬鹿にされようが、笑われようが、自分は誰かの役に立つことをするんだ。自分は誰かの喜びにつながることをするんだ。
これができるかどうかですね。

幸も不幸も含めて自分の人生に起きるすべてを受け入れる。
目の前におきる不幸を「あ、そう」と受け入れる。
意外と慣れれば簡単にできるようになります。そして受けができれば「攻め」ができるようになる。
これは次回にでも紹介しますがメチャクチャ楽しいですよ。
まさに人生はまったく別のものになる。

私にできたのですから今苦しんでいる人や辛い状況にある人にもきっとできます。
ちょっと今回は過去を思い出して熱くなってしまいましたが参考になれば幸いです。



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