瀝瀝(れきれき)散歩道

瀝瀝というのは「水が音をたてる様子/風が音をたてて吹く様子」つまり、「ありのままの風景」ということでしょうか。

抜いたり抜かれたり〜100年後の大逆転

2020-06-30 13:29:14 | 日記



先週は、ライバル社に仕事を落札され、少々落ち込みました。
これが現実だとわかるのですが、ここ数年、私たちが引き受けていた仕事ですから、少々ショックが大きかったです。
ふ〜っ、
人生、抜いたり抜かれたり、、、ですね。

先日、主人の父が改修の設計に携わった赤坂の迎賓館を見学に行きました。
赤坂迎賓館は明治42年竣工、明治以降の建築物では初めて国宝に指定されたたった一つの建物です。



義父は4年前に亡くなりましたが、いいお仕事をしたものだなぁと、改めて思いました。



ところで、この建物を設計したのは長州藩出身の片山東熊という建築家で、東大建築学科の前身、工部大学校の一期生でした。
同期生には東京駅や日銀を設計した辰野金吾、丸の内の三菱オフィス街を設計した曽禰達蔵がいます。
明治の工部大学校の教員はすべて外国人で片山東熊たちはイギリス人建築家、鹿鳴館を設計したジョサイア・コンドルの教え子でした。
ジョサイア・コンドルは工部学校着任当時(1877年)は若干25歳、片山東熊たちは23歳、ほぼほぼ同年代でしたが、
弟子たちに建築史から製図、施工方法まで丁寧に教えました。
座学だけでなく、現場実習や実際の設計の手伝いなどを通し、東熊たちはわずかな期間で西洋建築の高度な知識と技術を習得していきました。

実は工部大学校を首席で卒業すると、その後ヨーロッパへ留学、帰国するとそのまま母校の教授になる、
つまり当時の建築界のリーダーとなる道が約束されていました。

残念ながら、片山東熊は5人中3番で卒業、首席は辰野金吾でした。
聞くところによると辰野金吾は野心にあふれる積極的な性格、片山東熊は人の良い穏やかな性格だったと言うことです。
恩師のジョサイアコンドルは、今後の日本の建築界をリードすると言う視点から、辰野金吾を首席にしたのかもしれませんね。

その後の辰野金吾は飛ぶ鳥を落とす勢いで明治を代表する建物を作り続けます。

一方、片山は東京国立博物館、京都国立博物館、そして明治42年の旧東宮御所(赤坂迎賓館)を設計していきます。
有栖川宮熾仁(たるひと)親王邸の建築掛(がかり)に任命され、ヨーロッパに1年間滞在し、
室内装飾品の調達を行い、ルネサンス様式の壮麗な邸宅を完成させました。
その後、外務省の建築掛として清国の北京公使館の建築を担当。約2年間を北京で過ごし、帰国後は皇居御造営事務局に出仕します。


京都国立博物館

当時の皇太子殿下(のちの大正天皇)のご成婚を機に、1897年、ご夫妻の新居として東宮御所建設計画が浮上。
東熊は技術部門のトップである技監に任命され、生涯最大の仕事に取り組むことになりました。
1909年、実に10年の歳月をかけて東宮御所は完成。この間、東熊は宮内省内匠寮の最高ポストである内匠頭(たくみのかみ)に技術者として初めて昇進し、
名実ともに栄誉を手にしました。

次の天皇の住居である東宮御所の建築には相当な気合を入れた片山東熊ですが、明治天皇からは「ちょっと贅沢過ぎる」と軽くお叱りを受けたようです。
彼はかなり落ち込み、その後は病気がちになってしまったということです。
なんだか気の毒ですね。

平成21年(2009年)、ちょうど明治42年(1909)の竣工から100年目、迎賓館は国宝に指定されました。
工部大学校を3番で卒業し、穏やかでちょっと控えめな片山の作品は1番の辰野金吾を抜いて、
明治以降の建物で最初の国宝となったのです。

「斗そう(とそう)の小吏たる我願にあらず、大器まさに晩成を期すべし」
(『日本博士全伝』より。「斗そうの小使」は「薄給の小役人」という意味)


人生何が起こるかわからないですが、100年たってからの大逆転というのも、あり得るのだなぁと、感じました。




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