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ウキウキ

楽しくてうれしいお話

部活

2007-04-25 01:09:28 | 思い出
今日、夜のテレビ番組で、吹奏楽部のことをやっていた。

そういう番組は必ず見てしまう方で、今日の番組の内容は、担当の先生への感謝!というような内容でやっていた。こういう内容って、自分にとって弱くって、なんか誰も泣いてないような所から、なぜか今日は涙・涙してしまった。

私も中学時代、吹奏楽部に入り、とっても厳しい部活での3年間を過ごした。
1年生の時に、担当の先生にまず、やりたい希望の楽器を聞かれることから始まるということを聞き、どの楽器がいいかなあ~と考えていたら、母が、「オーボエがいいんじゃない?」と言い、私は、中学時代、母の言うことを素直に聞く娘だったのでその通りに「オーボエがやりたいです」と先生に言った。

母は、オーボエの音がとてもきれいだったので、その楽器をやらせたいと思ったようだけど、部活の先生にその希望を伝えると「オーボエ希望なんて珍しいな」と言われて、一発で『オーボエ』に決定してしまった・・というか、されてしまった

楽器を覚えるとき、まずその楽器をやっている先輩から個人指導を受ける。
私は、3年生の先輩から一つ一つ丁寧に教えてもらった。その先輩は、『失敗』という文字が頭にはないようなくらい、全体での練習においても、コンクールの中においても『失敗』はまったくない優秀な先輩だった。

「オーボエ」は、大きさはクラリネットよりやや細身で、口に含む部分は、竹のようなリードというものでできている。音をより出しやすくするため、リードを削ったりなどの調整がとても難しいし、時に割れてしまったりも・・音どうこうの前にいつもそのリードのことを心配しなければならないし、途中で割れてしまったらどうしようとか、そういう心配がいつもつきまとっていた。

「オーボエ」という楽器は、オーケストラの中でも、ソロを吹くことが多い楽器。
母は、その音に魅了されて、私に勧めたようだけど、何もわからずに母の言いなりになって希望してしまった私は、オーボエを選んだことを何度後悔したことか・・

『コンクール』に出場できるのは、2年生と3年生だけだった。
私たちが1年生の時、先輩達は、県大会・関東大会を『金賞』で突破し、全国大会で『銅賞』を獲得した。
その時、私たち1年生は、楽器の運搬作業をして同行させてもらったけど、全国大会まで行けたのは感動だった。


そして、2年生になり・・。
私たち吹奏楽部の練習は、本当に普通ではないくらい厳しかった。
なんといっても厳しかったのは、この部活の先生。今も顔ははっきり思い出せる。
でも、あのK先生が担当でなかったら、吹奏楽部の成績は伸びなかったはず。
毎日の放課後の練習はもちろんのこと、コンクールはいつも8月に県大会があるため、夏休みはもう毎日毎日練習。パートごとに各教室を使い、午後から体育館で全体練習。この全体練習が緊張するものだった。

この全体練習の中で、私は、何度、先生に顔ビンタや頭をたたかれたことか。吹奏楽部のメンバーは、先生にたたかれることは、日常茶飯事のこと。
でも皆の前で、大声で怒鳴られ、たたかれ、それでも全体練習を続けなければならない苦しさ。涙を必死でこらえながら、楽器を吹いた。

私が怒られた理由。

それは、コンクールに出す自由曲の中で、私のソロがあり、練習で何度も何度も、急に変な音を出してしまったり、音がスムーズに出なかったりなどから。

今でもそのソロのメロディを忘れていない。それから指も。それくらい、たたきこまれていたから。楽器を右手親指で支えるのだが、そのことにより、私の親指は左右対象ではなく、右手親指の方が太く、形が少し変形している。それが、私がオーボエを3年間やったという証拠なのかな。

全体練習の中で、私の失敗は何度も続いた。

そして県大会コンクール本番の日。県民文化センターで行われた。
本番前にも外での練習で、またそのソロが失敗。忘れてしまったが、その失敗に対する先生の言葉も厳しかった。

そして、自分たちの学校の番。前の学校が終わって、舞台袖から入り、一番前列右から3番目に座る。


課題曲を無事終え、自由曲へ。
自分のソロは、曲が始まって、すぐくらいに始まる。


その時が来た。


指揮をしている先生と目が合った。私は本当に祈るような気持ちで音を出した。

すると・・・「ワァー 音がスムーズに出ていて、すごく吹きやすい」と感じ、
本番では、全く失敗がなかったのだ

演奏が終わり、舞台袖に降り、先生に笑顔で「おまえは、心臓に毛が生えてるな」と言われた。まだ幼かった私には、その先生の褒め言葉もちょっと素直には喜べない感じもあったけど、本番が失敗しなかったことだけが、超うれしかった。

そして、結果は・・・県大会・金賞で関東大会出場となったわけです。

そして、関東大会も金賞をとり、でも金賞の中でも段階があり、全国大会出場はできなかった。

3年生の時も、同様の結果で、関東大会・金賞どまりだった。


そして、卒業を迎えて。

卒業する時、部活の後輩たちが色紙を作ってくれた。真ん中に、自分の写真が貼られ、周りにメッセージがたくさん書かれていた。


真ん中の写真の脇に、書かれていたK先生のメッセージ。


それは  『すばらしい soloを ありがとう』  という一言。


先生は、ものすごい厳しさで接してくれていたけど、この厳しさがあったから、良い成績を残すことができたんだ、と今でも感じる。先生から褒められるということは、ほんと滅多なかったけど、卒業の時のこの一言が、私の心の中で、3年間の苦しさを一気にうめるものとなった。
今でも、この色紙は、大切に保管している。

1人暮らし ~part 2 ~

2007-04-10 00:59:03 | 思い出
1人暮らしで、私を襲った様々な事件。

【 事件ファイル その1 】

   こんな経験をした人って、私以外にもいるでしょうか・・

あれは、1軒屋の素晴らしい豪邸に住み始めて、たしか2ヶ月たった6月の出来事。なんだか、蒸し暑い日だった
仕事を終えて、どこにも寄らず、まっすぐ自宅へ。その豪邸は、職場から車で2~3分の所だったので、すぐ家に着いてしまい、6月でもあったので日も長く、家に着いてもまだまだ明るく暑かった

自宅のドアを開けて、まっすぐお風呂場に向かった。蒸し暑かったので、お風呂を沸かそうかと思って・・。何を隠そうその豪邸は、あまりにも古~い家だったのでシャワーとやらが付いてはおりませなんだ
まあ、それは引っ越した時点で仕方がないや・・と諦めていたことではあったのだけれど。
玄関を入り、4畳半の和室を抜け、台所を通り、お風呂場へ。
お風呂のドアを開ける。ドアを開けると、そのお風呂場も、サンサンと西日がさし、とっても明るかったのを覚えている。
タイル張りで、風呂桶が洗い場より低い位置にあって、洗い場から届くところに、段になっていて物を置ける場所もあった。

お風呂のドアを開けた瞬間。
私の目に飛び込んできたもの

こんな経験は、きっと私しかしていないはずだーーー

ドアを開けて真正面の段になっているところに、すぐ目を奪われた。

今でも目に焼きついていて、その光景は、鮮明に私の脳裏から離れていない。

 それは・・・・・・・

  直径15cmくらいの黒い円が2個。

  いったいあの円は、なななななななんなのじゃ

  目を奪われつつ、心臓は破裂しそうで、その場でぶっ倒れそうになりつつ、
  意識が遠のいていきそうな自分を強く保ちながら、発見したもの。

  その物体とは・・

   アリンコ野郎でござんす。
   
  「ありんこ」と言えば、そりゃあ1匹から数匹くらいにお目にかかるくらい
  でしたら、私もなんてこっちゃあないですよ。
  しかし、直径15cmにぎっしり円を描いて、皆でおしくらまんじゅうのように
  中心点を守りながら、うごめいておるわけです。
  その真っ黒い円が、2個。

  よくぞ私は、あの時、命が守られたもんです。心臓発作というものは、こうい
  う時にも起こるのであろうと、後で考えました。

  その場に立ち尽くしながら、動揺しつつ、このアリンコ野郎どもをどうすべき
  か、私には手立てもなく、どのくらいの時間だったか、呆然とした後、すぐさ
  ま大家さんに電話をしました。大家さんは、この家を貸してくださった上司の
  お兄さんでした。

  すぐ駆けつけてくださり、その後どのように退治してくださったか、それは覚
  えておらず。
  ただ、私の脳裏にやきつく黒い円。

  これは一生忘れない思い出だろう。

  しかし、私を襲った事件はこれにとどまらなかったのです

1人暮らし ~part 1~

2007-04-07 09:34:41 | 思い出
4月になると思い出すこと。

○年前に就職した際のこと・・。私は県北から、今いるこの地に就職するため引っ越してきた。最初は、自宅から通えるところ、ということで就職先を探していたが、私の職種では自宅から通える場所は、その年は募集人員が少なく、自宅からの場所は難しかった。そこで、急遽考えを変換して、この県南で・・となり現在の所に就職が決まった。そうすると、自宅から通うことは到底不可能で、一人暮らしをすることが前提となる。私は、石○市から先は、全く市町村の位置関係がわからず、就職するその市町村が県南のどこに位置するのかが、ごっちゃになるくらいわからなかった。
そんな私なもんだから、就職先の上司が、アパートを探すのも大変だろう・・というご好意で、上司が昔、新婚時代に住んでいたという1軒家を貸してくださることになったのだ。地域的な部分が全くわからなかった私にとって、家を貸していただけるというのは、とっても感謝なことでした。しかし、1軒家といえば聞こえはいいけど、実はとても古くて。引越しは、3月にしたけど、その前の2ヶ月間くらい、実家から何度も家族で通い、掃除にあけくれたものだ。

だって、たしか10年以上は住んでいずに、そのまま放置されていた家だったものだから、家の中の掃除から、外の掃除まで家族4人でとても大変だったのを覚えている。そして、掃除も終わり、引越しも済み、初めての一人暮らし。それまで実家を離れたことがなかったもんだから、とにかく寂しくて寂しくてたまらなかった。弟が隣県の大学に通っており、先に隣県で一人暮らしをしていたが、寂しくていられないので、5月くらいには、弟にこの1軒家にまで引っ越してきてもらい、大学生活が修了するまで一緒に住んでもらっていた。
就職したばかりの時、家を貸してくれている上司が、すぐ近くに住んでおり、私にとても気を配ってくださって、布○○天の夜桜に連れて行ってくださった。その夜桜にとても感動したのを覚えている。

私はその1軒家に約4年住んだ。よく4年も住んだなあと今思うと不思議だが・・・私が引っ越してからは、もちろん誰もそこに住む人はいず、その家は取り壊された。何年もその家には誰も住んでいなかったわけだから、私が住み始めた1年目は様々な出来事・事件がいくつか私を襲った。これは、また長くなるので、次回にお伝えすることとしましょう

郷愁

2007-03-21 22:54:18 | 思い出
私が生まれてから、就職して実家をでるまでの21年間住み慣れた場所。今は合併して、○○○宮市となったが、合併前は○宮町。住んでいた家は、狭い家で同じような家が20件近く建っていた。そこに住んでいた子供達も、年齢構成は、上は私の5~6歳上、下も私の10歳下くらいまでという感じで、年齢差も感じず皆でよく遊んだ。。私の家のすぐ裏が、通称「砂場」と呼ばれていた広場。その広さは家が2件分くらいだったかなあ。そこにいつの間にか子供達が集まることが多かった。夏は、そこで誰かが花火を始めると、どこからともなく子供が集まってきて、いつの間にか皆で花火を楽しんでいたり、缶蹴りでかくれんぼをしたりー。花火をたくさんして、煙がたくさん出ると「ケムリの世界だぁ~」と皆で駆け回った。一つ一つが懐かしい。今はもう全員がそこから引越しているため、数年前にすべての家が取り壊された

取り壊されてから、私はその場所に行っていない。行きたいけど行きたくないのだ。なぜなら、鮮明に覚えているあの場所の細かい一つ一つが、違った印象として私の頭にインプットされてしまい、小さい頃からの思い出が消えてしまいそうだから。それでも本当は行きたい遊んだ場所、通った道、近くにあった高校、アイスを買いに行った○賀商店、○田書店、たんぽぽという名前だったか喫茶店のような小さなお店。近くにあった高校は、小さい頃からの遊び場だった。高い裏門をよじ登って飛び降り、高台にあったグランドによく行った。そのグランドに行くまでに水路?のような水が流れる長い水路があり(しかし水が流れたことはない)そこを下から上っていったり、滑りながら下りていったり。探検のようで楽しかった
そして高台のグランドから見渡せる景色も好きだった。今では、昔はなかった道路ができたり、総合病院が建ってしまったり、大分様変わりしてしまったようだ。寂しい・・・

不思議だが、やっぱり思い出深い場所だからか、時々昔のままの景色が夢に出てくる。すると余計行きたくなるそんな話を母にすると「お母さんも夢によく出てくるんだよ-」と言う。母にとっても私にとっても特別な場所なんだなあと思わされる。やっぱり今度実家に帰ったら行ってみようかなー

一生忘れないだろう

2007-03-12 01:00:27 | 思い出
この経験は、たぶん私の子孫にも語り継がれていくであろう。この話は、私が専門学校時代の出来事。そこは、女性ばかりの全寮制。3年生の時、4人部屋だった。3年生ともなると、上級生もいないし、他学年とも部屋が一緒にならないのである意味、好き放題だったかな!?同じ部屋だった、ぶ○○んと私、やけに腹をすかしていて、部屋に何か食べ物はないかと部屋じゅうあさったけど、何もなかった。しかし唯一あった食べ物!それが「エノキだけ」。私はエノキがとっても好きだったし、たしか、ぶ○○んも好きだったかな。私達は、あまりの空腹に耐え切れなくなっていたため、そのエノキを食することにしたわけです。どのように食べようか二人で考えた揚句、そのまま食べようという結果に至ったわけです。なぜそのような方向に走ったのか・・そのままというのは、ほんとにそのまんま。何故あの時、エノキを茹でようとしなかったのか今だ不明。茹でる時間も待てなかったのか、頭がちょっと足りなくて、茹でることまで思いつかなかったか・・・。私達は生のエノキをたしか2個、下の部分だけ切り落とし、白い皿の上にめいいっばい広げた。そしてドレッシングはかけた?それともかけなかった?ちょっとその点は記憶があいまいになってしまった~。まあどちらにしても、生のエノキ~。味わかります?一口食して「まっず~~!」。まずかった記憶は鮮明だ。どんな味か興味がひかれたら、ぜひご経験あれ~~。20歳くらいの時の貴重な体験。。。

電車での出来事

2007-03-06 18:19:42 | 思い出
実家で急用があり、先週の土曜日の夜、家族で帰りました。私は月曜日まで休みをもらうことができ、主人は仕事だったため、車で月曜日の早朝、帰途につきました。私と息子は、久しぶりに電車で帰ろうと月曜日の夕方実家を出て、高校時代に通学でのっていた電車に、何年ぶりかわからないくらいお久しぶりに乗ったわけです。いや~ほんとに久しぶりで、周りの風景を見ながらでしたが、変化した風景と全く変わっていない風景とちょうど夕方だったので、下りの電車には帰宅途中の高校生がたくさん乗っていて、私の母校のセーラー服の学生もたくさんいて・・私もこんな風にこの電車に乗って、通ってたんだなあ。。と昔のことを思い出しました。高校時代、朝、乗る電車の両はいつも同じ場所で、乗ってくる人たちも同じで、今でも印象に残っている人もいます。ある女性は、いつもドアの前に立っていて、なぜか降りるまで、目を上→下→右→左とず~と動かしているわけです人の目も気にせず。私は友達3人で通学していたけど、いつもその女性の「目の体操」(私たちはそう呼んでいた)に自分たちの目を奪われるのでした。それから途中から乗ってくる男性3人組み。1人だけカッコよくて、私たち3人はその人のあだ名を『一番』とつけ、「今日も『一番』はかっこよかったね」と言い合ったものでした。う~ん、懐かしい思い出だあ話はまた戻って、昨日、一度電車を乗り換えて、横の列の3人かけの席で、息子は眠ってしまい私も横抱きにしていたため、2人分の席をとってしまいました。電車はすいていたのですが、隣に大学生くらいの男性が乗ってきました。息子が寝ながらも動いてしまい、気をつけてはいたものの息子の足が少しその男性にあたってしまい、「すみません・・」と謝ると、「いいえ大丈夫です」とこれまた素晴らしい笑顔で接してくれるじゃああ~りませんかなんて好青年なんだろうと私はとっても感謝しました。その大学生が降りる前に、もう一度お礼を言おう・・なんて思っているうちに、私も息子と共に爆睡してしまい、あっと目が覚めたときには既に違う男性がお座りになっておられました。残念でも笑顔ってとっても大切だなあと、いろいろな人に接して感じる今日この頃です。笑顔ってほんとに癒されますね