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中国と日本のぶらぶら街歩き日記です。2024年5月からは東京から発信します

炮局胡同 - 日本陸軍拘置所の痕跡

2022-01-14 | 北京を歩く
北京市東城区の炮局胡同に行ってみました。

東直門の近くです。



日中戦争時に日本陸軍の拘置所があった場所ですが、今も拘置所の痕跡が残っているといいます。

炮局胡同は、その名前が示すとおり、砲を製造する武器工場があったことが由来です。清代の話です。

通りに入ると、道幅が狭く、庶民的なごく普通の胡同に見えます。





文献によると、拘置所の周囲はレンガの壁で覆われていて、7つのトーチカがあったようです。

壁が見えてきました。この辺りから雰囲気が変わってきます。



壁の高さは3メートルほどでしょうか。







トーチカの高い位置に銃眼があります。



周囲を歩いてみたところ、トーチカは3箇所にありました。
ネット上には4つ残っているとの情報もありますが、もう一つは公道から見えない場所にあるのでしょうか。







清代末期になると、砲を海外から輸入するようになったので、砲の工場としての役割を終え、拘置所として使われるようになりました。その後、近代中国になってからもしばらく拘置所として使われていたようです。

北京には、「你小子再不老实,就送炮局」(行儀よくしないと炮局に送りこまれるぞ)という慣用句があるそうです。子どもに言い聞かせるときに使うのだと思いますが、それぐらい市民にも恐れられた場所だったということだと思います。

このレンガ壁やトーチカはいつ頃作られたのでしょうか。
レンガは黒レンガと赤レンガの部分があります。時代が違うのだと思います。黒の方が先でしょうか。

この拘置所には3千人以上を収容することができたそうです。

この拘置所には、かの川島芳子も一時期収監されていました。

芳子は終戦後の1945年10月10日、北京市内で身を潜めたいたところを拘束され(2021年3月25日の日記)、北海公園近くの迎賓館で数か月拘留されたあと、この拘置所を経て最期の場所となる北平第一監獄に移送されました。

この拘置所に収監されていた期間は不明ですが、芳子はここで収監されている間も取調官に悪態をついたりして困惑させたようです。

文物保護単位などのプレートは見当たりませんでしたが、開発著しい北京の中心地にこうして施設の一部を残しているということは、なんらかの保存の意思の現れのだと思います。

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