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中国と日本のぶらぶら街歩き日記です。2024年5月からは東京から発信します

墨田区両国 連合艦隊駆逐艦「不知火」の錨

2018-10-25 | 東京を歩く
墨田区両国の両国小学校の公道に面した一角に、錆びた大きな錨が2つ並んでいます。



説明書きによると、日露戦争で活躍した連合艦隊の駆逐艦「不知火」の錨だそうです。

なぜこんなところに保存されているのでしょうか?



説明書きはこのように書かれています。

錨の由来
この錨は日露戦争(1904~1905年)で活躍した日本海軍の駆逐艦「不知火」のものである。
この艦は英国ソーニクロフト社製造・起工明治31年・進水32年・326トン・(艦長63.5メートル・5,470馬力・30ノット・火砲6門・発射管2基・煙突2基)の構造である。
錨の裏側にあるアルファベットと1898の刻印は錨の製造年と推定される。
猶この錨は両国一丁目の鉄鋼業岡田商事(旧岡田菊治郎商会)が軍艦の解体作業で得たのを昭和の初年に江東(現両国)小学校に寄贈したものである。
平成三年月
両国(相生・江東)小学校同窓会


調べたところ、「不知火」は第2艦隊第5駆逐隊に所属した駆逐艦で旅順口攻撃、黄海海戦、日本海海戦、樺太の戦いなどに参加したそうです。



かの「天気晴朗ナレドモ波高シ」の作戦にも参加したわけです。
1904年2月には、旅順口閉塞作戦にも参加しています。
日露戦争の主要な海上戦はすべて関わっていることになります。





説明にある「1898」の刻印はどこにあるのでしょうか?
上から下から、錨を舐め回すように探してみました。

見つけました。





裏側に回って下から見上げたところに刻印されていました。

19世紀末、英国の造船技術は世界でもっとも進んでいたそうですから、日本も英国を頼ったのだと思います。
日本の支出も相当な規模だったでしょう。

不知火は1925年の退役ですので、26年間稼働したことになります。
日本が近代化に向けて「坂の上の雲」を追いかけた時代です。

日露の戦いから1世紀以上を経た今、こうして歴史的な遺産を目にすることができるのも、解体を引き受け、錨の保存を思い立った岡田商事さんの方々のおかげです。

ところで、錨の保存を思い立った岡田商事とはどんな会社で、どこにあるのでしょうか?

調べてみて、驚きました。

僕が以前から認識している建物でした。
両国橋の東詰に建っている昭和初期建設と思しきレトロモダンな2階建ての老建築です。







僕はここを通るたび、戦火を逃れ、地震や風雪に耐え、よくこんなに良好な状態で保存しているものだと感心していましたが、なるほど、この会社だったのですね。

ビルの裏側に広がる広大な駐車場も、岡田商事が管理しているようでした。

岡田商事の目と鼻の先に、日露戦争戦没者のための大きな表忠碑が建っているのは偶然でしょうか。



錨も自社ビルも大切に扱う、よい会社です。
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