松樹山は、日露戦争・旅順攻囲戦のクライマックスとなった激戦地で、帝政ロシア軍の強固な要塞があった場所です。
その名のとおり、松の木々が生い茂る山です。
一応は観光地として解放されているようですが、ほとんど手が入っておらず、生々しい戦闘の跡が手つかずのまま残っています。
(生々しい弾痕が残っています)
(大正5年、満州戦績保存会による記念碑)
(当時の説明書きがありました)
(1930年代の写真です)
(これも当時の写真)
1904年12月、二〇三高地、東鶏冠山、二龍山と次々に帝政ロシア軍の主要要塞攻略に成功した日本軍は、31日早朝、松樹山堡塁への攻撃を始めます。
日本軍は坑道爆破で帝政ロシア軍守備兵を攻略し、同日午前中のうちに占領に成功します。
これまで何度も跳ね返されてきた松樹山を、ついに陥れます。
そして日本軍は翌1月1日未明から虎頭山や望台への攻撃に入り、その日のうちにロシア軍は降伏を申し入れます。
松樹山堡塁跡には、今も日露戦争時の爆破の跡と思われる瓦礫がごろごろ転がっています。
(坑道に入ってみました。人がギリギリ1人分通れそうな広さです)
(暗くて静まり返った空間です)
(爆破の跡です。内側から)
(外側から見た爆破跡です)
山を登り切った堡塁の入口には入場券売場や古びて文字が読めなくなった案内板がありましたが、今や人影がなく、利用されていないようです。
ここを訪れる観光客が減ったため、入場管理やメンテナンスをやめたのでしょうか。
しかし、却ってそれが古びた要塞の雰囲気を醸し出しています。
旅順の隠れた観光スポットです。
その名のとおり、松の木々が生い茂る山です。
一応は観光地として解放されているようですが、ほとんど手が入っておらず、生々しい戦闘の跡が手つかずのまま残っています。
(生々しい弾痕が残っています)
(大正5年、満州戦績保存会による記念碑)
(当時の説明書きがありました)
(1930年代の写真です)
(これも当時の写真)
1904年12月、二〇三高地、東鶏冠山、二龍山と次々に帝政ロシア軍の主要要塞攻略に成功した日本軍は、31日早朝、松樹山堡塁への攻撃を始めます。
日本軍は坑道爆破で帝政ロシア軍守備兵を攻略し、同日午前中のうちに占領に成功します。
これまで何度も跳ね返されてきた松樹山を、ついに陥れます。
そして日本軍は翌1月1日未明から虎頭山や望台への攻撃に入り、その日のうちにロシア軍は降伏を申し入れます。
松樹山堡塁跡には、今も日露戦争時の爆破の跡と思われる瓦礫がごろごろ転がっています。
(坑道に入ってみました。人がギリギリ1人分通れそうな広さです)
(暗くて静まり返った空間です)
(爆破の跡です。内側から)
(外側から見た爆破跡です)
山を登り切った堡塁の入口には入場券売場や古びて文字が読めなくなった案内板がありましたが、今や人影がなく、利用されていないようです。
ここを訪れる観光客が減ったため、入場管理やメンテナンスをやめたのでしょうか。
しかし、却ってそれが古びた要塞の雰囲気を醸し出しています。
旅順の隠れた観光スポットです。
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