雲のたまてばこ~ゆうすげびとに捧げる詩とひとりごと

窓の雨つぶのような、高原のヒグラシの声のような、青春の日々の大切な箱の中の詩を、ゆうすげびとに捧げます

時を巡る二つのお話

2013年06月11日 | エッセイ
 時をめぐる二つのお話


 身体と頭の中に違和感を覚えながらも、朝食を食べるために、ランドセルを持って母屋に向かった。ベッド代わりの押し入れの布団の中で、寝ていた私は、「朝だよ。」という家族の呼び声で起こされたのだ。
 小学校の4年生か5年生の私は、空いていた敷地内の離れの一室を勉強部屋代わりに使っていた。日が短い師走のことだったと思う。庭を横切る時には、外はまだ明け切れず薄暗かった。
 寝起のぼんやりとした頭のまま、ランドセルに教科書やノートを入れながら、なんかおかしいなと思っていた。学校から帰ってすぐに、宿題は済ませていた。でも昨日のその他の記憶が無いのだ。夕食は何を食べたのか、その後は何をして過ごしたのか。それでも母屋の洗面所に行き、顔を洗って歯を磨いた(子どものときは朝起きて顔を洗うときにセットで食前に歯磨きをしていた)。
 それから、家族そろって食事をする茶の間の障子戸を「おはよう」と言いながら開けた私を迎えたのは、家族全員の爆笑だった。
 誰の発案か、「朝だよ」という姉の呼びかけは、イタズラだったのだ。
 まんまとイタズラにひっかかった私が、茶の間に入ると、そこはいつもの夕食の情景だった。しかし、茶の間の戸を開けて、爆笑に包まれるまで、記憶の無いことを不思議に思いながらも、私はいつもの朝の時間を過ごしていたのだ。
 「時」のことを考えると、小学校の時のこのエピソードを思い出す。もう一つ、「時」に関しての体験がある。
 私が結婚した前後の20代後半のことだった。その頃の仕事場には、テレビはあるがつけることが無く、腕時計をする習慣の無い私に時間を知らせるものは壁にかけられた時計のみだった。毎日遅い時間まで一人で仕事をしていて、その日も夜10時になったら帰宅しようと思っていた。
 さすがに時間の流れが遅い、何か変だと気がついたのは、壁の時計が午後9時半を過ぎた頃。テレビのスイッチを入れて時間を確認すると、すでに10時台の番組が終わろうとしている時間だった。壁の時計の電池切れで、針の進み方が急に遅くなっていたのだ。8時過ぎ位までは人の出入りもあったから、時計が大幅に遅れていたら気がついて指摘する人がいるはずだ。だからこの2時間程の間に、遅れ気味だった時計の針の進み具合が、さらに急速に遅くなっていたのだ。いっそのこと止まってくれていたら良かったのに、時計としては、燃料が無いのに一生懸命に一歩でも先を目指して頑張ってくれたのだろう。わずかずつでも進んでいたために、却って針の遅れに気がつかなかった。
 時間の進む早い、遅いの感覚は、そのときの自分の都合でずいぶんと違う。よく出される例えが、サッカーの試合で贔屓チームが勝っているときと負けているときの終了間際の5分、10分の時間の進み具合。とても同じ時間とは思えないのだ。そして、私の場合、自分の感覚よりも、家族の言葉や壁時計の示す時間、進み具合の方を信じ、本来の時間と1時間以上の差や半日の差さえも疑わなかった。
 ヒトには、体内時計があって、実は体内時計の1日が24時間より1時間ほど長いらしい(そもそも1分、1秒って誰がどのように決めたのだろう)。だからヒトは朝になって日光を浴びることでその時差がリセットされているそうだ。私の時に関する二つの体験は、自分の体内時計や時間の感覚があてになるようで、だまされることもあるのだと、私の中で身をもって実証された出来事だった。
 長男が小学生だった頃、親戚の集まりで正午の5分前にお腹の減り具合を叔母さんに聞かれた。長男は「いや、おなかはすいていない」と答えていた。ところが5分後に、彼が付けていた玩具の腕時計の正午を告げるチャイムがなった途端、「腹減ったあ」と声を出したので、「腕時計に自分の感覚まで支配されている」と、皆から笑われていた。
 我が家の犬は、毎日ほぼ決まった時間にご飯を食べ、ご飯をあげる時間が数分過ぎると、「ワン」と吠えてご飯の催促をする。その正確さに驚くが、もしかしたら彼女の犬小屋の壁には、時計がかかっているのかもしれない。
(2013.6.7)
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