確定拠出年金の掛け金、増額しやすく 社員に裁量
政府検討、企業年金改革の柱に
- 2014/8/5 1:38
- 日本経済新聞 電子版
素材抜粋
実践IR
三ツ谷 誠『実践IRー自社株マーケティング戦略』
NTT出版 2000年
この出張を契機として、単なる技術論ではなく、「思想としてIRを把握する」必要を強く感じたことを思い出す。
つまり、IR活動を突き詰めれば、それは「企業にまつわる情報の生産」と、「その情報の流通戦略の策定・実行・評価」の活動となる。
IR活動の二つの頭文字は、「“Investor Revolution”(投資家革命)のIRでもある」という議論(投資家革命論)である。
高度に発展した資本主義は、いまや企業自身をも「株式という商品」として資本市場で売買される状況を作り出した。このことが意味するのは、「商品」の需要者である「投資家」が、その影響力を行使し、自らが望む方向に「商品」である企業自身をも変革させることができる、という認識である。一方で企業の側にも、「商品」としての永続性を考えた時に、需要者である「投資家」の声に耳を傾け、常に良い「商品」として存在するように、自己革新を図ろうとする誘因が存在する。
そして、その「投資家」とは年金などの回路を通じた「機関化」の流れを前提に考えれば、すでに「大衆」そのものなのである。
「国際会計基準」の求めるものは、グローバル化する経済のなかで「市場=価格機構」を資源配分の機構として正しく機能させるための、「国際間で比較可能な共通の土俵の設定」そのものなのだ。
IRとは、“Investor Relations”の頭文字を取ったものであり、わが国では「投資家向け広報」と訳され紹介されることが多い。ちなみにこれによく似た言葉にPR(Public Relations)があり、日本語ではそのまま「広報」と訳されている。
しかし資金調達の回路がメインバンクを中心とする銀行団から市場にシフトし始めた昨今、現実はそのような配慮はしてくれない。そこには日本的なヒエラルキーなど存在せず、純粋な資金の委託者と受託者の関係があるだけである。資金の受託者がその委託者の質問に対して(それがどれほど耳の痛い質問であろうと)誠実に答えるのは単なる義務でしかない。いわゆる「説明者責任」(accountability)である。
当然のことながら、「自発的」決算説明会が企業の一方的な説明の場になるはずがない。それは委託者と受託者の対話の場、まごうことなき「第二の株主総会」なのだ。
しかし単純に巨大なGDPを誇るわが国企業の株式の約8%が、この10年間に文化も慣習も異なる外国人投資家の手に渡ったことの意味合いは、想像以上に大きい。単純にその「日本買い」の総額の巨大さわれわれを圧倒するし、それ以上に海を渡ったそれら株式が外国人投資家に与える巨大な権限が、わが国を「市場主義の普遍性」の流れのなかに染め上げてゆくことが恐ろしい。「大袈裟な話だな、たかが株の話じゃないか」と思われる方もいるかもしれない。しかし高度資本主義社会においては生産の主役は事実上「株式会社」であり、株式とは社会変革の原動力それ自体、あらゆる運動の根本主体なのだ。
「攘夷か、開国か」という議論は再び決着を見ようとしている。「株式持ち合い」により達成されたかにみえた攘夷は敗れ去り、株式市場が海外に開かれたことによってわが国は再び、そして永劫に「市場主義」の世界に開かれたのでないだろうか。
(以下略)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます