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【異文化交流クイズ】【2-9問題】ジャポニズムとティファニーの関係

2021-02-09 12:00:00 | クイズ
異文化交流クイズ、ジャポニズムシリーズ第9回。今回は「ティファニー」関連からの出題です。
前述の通り、1890年代を通して盛りあがった新しい総合的な装飾様式への願望は、90年代末にフランスでアール・ヌーヴォーとして花開くわけですが、この動きは1890年頃から1910年頃にかけて欧米で広く見られ、ドイツやオーストリアではユーゲント・シュティール、イギリスではグラスゴー・スタイル、アメリカではティファニー・スタイルとして花開きます。
これらは今日ではいずれも広義の意味のアール・ヌーヴォーと考えられています。
アメリカでのジャポニズムの具体的な呼ばれ方としては「ジャパネスク・スタイル(日本風様式)」が挙げられます。
これは日本から輸入した美術品、特に陶磁器を、欧米で発達していた銀細工の技術で模倣し、新たな装飾技術の様式として確立したものですが、このスタイルを普及させたのがティファニー商会でした。
ティファニー商会は1837年、NYのダウンンタウンで元々東洋美術の骨董品を扱う店として創業されたのですが、正札による定価販売、カタログ通信販売、そして大量のダイヤ・宝石の買い付けなど、新たな商法を生み出し、勃興しつつあったブルジョワジーと中産階級の女性を購買層としてがっちりゲット。僅か十数年でアメリカ国内屈指の宝飾・銀細工店へと成長します。
更にティファニーの価値を高めたのは、銀器のデザインにジャパネスクスタイルをはじめとする絵画的で、高度な装飾の技巧を凝らし、その92.5%以上の銀含有率を「純銀」と謳う高い基準によってブランドイメージを高めることでした。
そしてティファニーの製品の芸術的価値を決定づけたのが、またもや万博ということになります。
1876年に開催されたフィラデルフィア万博はアメリカ独立百周年を記念した壮大なものでしたが、この万博がアメリカで初めて日本美術が本格的に紹介されるきっかけとなります。明治政府の並々ならぬ意気込みで、日本美術品が溢れかえったこの万博で、ティファニーはプラチナのバネの上に固定された六百以上のダイヤモンドによる「ピーッコク・フェザー」と呼ばれる髪飾りなど、ダイヤモンドによる宝飾を主に出展しています。
これらの文様とイメージも異国情調と繊細な技巧溢れるジャパネスク的なものでしたが、更にその次回の1878年のパリ万博になるとその傾向は顕著となります。
この万博でティファニー商会は、フィラデルフィア万博で出展された日本美術品に更にインスパイアされた(笑)、ジャパネスクタイルの銀器セットを出品して見事に賞を受賞。
この受賞と栄誉によってティファニーはヴィクトリア女王とドイツ皇帝、エジプト総督からの注文を獲得し、高級メーカーとしての世界的名声を確立します。
……そういう「ティファニー商会」の歴史的経緯を知ると、直接は関係ないとは云え「ティファニーで朝食を」の日系人の描写は酷すぎるのですが、当時のアメリカ人がティファニー商会の商品の歴史的経緯など知るはずもなく。
さて、ここで今回のクエスチョン。ティファニーの勃興期と丁度重なる、南北戦争後の復興と産業化、資本主義の発達と富裕層が登場したこの時代を、アメリカ史では俗に「○○○時代」と呼びますが『ある色』を含む、この『○○○』に当てはまる三文字(もしくは『○○○○時代』とも云いますが)は一体なんでしょう? 

【異文化交流クイズ】【2-8回答】エミール・ガレに影響を与えた日本人官僚がフランスで学んでいた学問は?

2021-02-08 12:00:00 | クイズ
異文化交流クイズ。ジャポニズム特集第8回は「有名なガラス工芸家エミール・ガレに、日本のモティーフや季節感などを直接伝え、その後のガレの作風に強い影響を与えた高島北海は、明治政府の官吏として何を勉強にフランスに留学していたのでしょう?」という問題でした。
今回の正解は……『林業』でした。
明治18年なんて時代に、林業を学ばせる為にフランスに留学させるとは、明治政府もそれなりに色んな所に目を配っていたんだ、という点には感心させられます。もっとも日本の美術・工芸を売り込むべく作った官製会社はあっさり潰れ、後の美術史に名を刻んだのが個人の美術商やら、芸術なんて全くの門外漢のこの高島北海のような人物だった、というのは、皮肉と云うべきか、ある意味「当然」と云うべきか?
更にこの林業に関しても皮肉な話ですが、江戸時代の日本の森林保護、植林技術は世界的に見てもピカ一でした。
具体例を挙げると非常に分かりやすいのですが、以前開催された愛知万博。その本来の会場予定地だった瀬戸の「海上の森」は数百年前には一度ほぼ禿げ山化しています。これは陶磁器を焼く為の薪を作る為に木を伐採しすぎた為です。勿論そのまま放置すれば洪水や土砂崩れが発生します。ですから人々は長い年月を掛けて「陶器を焼くために伐採した分を植林して」というリサイクルシステムを構築したわけです。
実際愛知万博開催当時、一部だけ使用された瀬戸会場を見てきましたが、確かに奥凄く深い森というわけではありませんけれど「この山が一時は全山禿げ山だった」と云われてもピンと来ませんでした。江戸時代の日本はこうして少なくとも一般的な日常生活に必要なモノは自給自足できる体制を確立していたわけですね。
もっとも江戸幕府が倒れた時、木曽の山奥の人々は「これで(今まで幕府に禁じられていた地域で)木の伐採が自由に出来る」とはしゃいだわけで、その代表的な姿が描かれているのが島崎藤村の「夜明け前」なわけです。
更に蛇足ですが、明治政府は「禿げ山だらけのとある地域」に長い時間と大量の資金を投入して植林に励んだわけですが、ほんの70年程で完膚無きまでに全土禿げ山に逆戻りしたようです。なんでもその地は「地上の楽園」を自称しているそうですが。

【異文化交流クイズ】【2-8問題】ジャポニズムが第二の隆盛期とアール・ヌーヴォー

2021-02-07 12:00:00 | クイズ
異文化交流クイズ、ジャポニズムシリーズ第8回。今回は再びアール・ヌーヴォー関連の話題からの出題です。
ジャポニズムが第二の隆盛期を迎えたのは、前述の通り1890年頃になります。
初期のジャポニザンたちがマネ、モネ、ゴーギャン、ゴッホなどの(当時としては)前衛作家たちだったのに対し、この時期になると絵画だけでなく、版画、ポスター、装飾品の分野にその影響力が現れてきます。
というのは、絵画は比較的早めに印象派の画家達によって「市民文化」と呼ぶべき芸術が構築されるわけですが、装飾品に関しては、ルイ一五世式、ロココ様式といった古い様式が未だに幅を利かせる一方、一般市民たちは機械生産による画一的で、粗悪な日常品を使う以外ない境遇に甘んじていました。
これに関してはこのジャポニズム特集の第2回で取り上げたフランス人批評家が、日本で体験したことを綴ったこの証言が、ある意味裏付けているといえるでしょう。
『この国においては、ヨーロッパの如何なる国よりも、芸術の享受・趣味が下層階級にまで行き渡っているのだ。どんなに慎ましい住居の屋根の下でも、そういうことを示すものを見いだすことが出来る。ヨーロッパ人にとっては芸術は金に余裕のある裕福な人々の特権に過ぎない。ところが日本では芸術は万人の所有物なのだ』
そんな時代背景の中、フランスでは市民社会に見合った近代デザインが、日常の生活の場で楽しめるための装飾品が時代の要求として求められ、まさにそこにジャポニズムがすっぽりハマりこんだわけです。
この動きの原動力となったのが第6回で紹介したサミュエル・ビングで、彼の出展した店の名前「アール・ヌーヴォー」が、新たに生まれたこの時代の装飾様式の名の由来となったのは前述の通り。
この運動が絶頂に達したのが1900年のパリ万博であり、この際ビングは「アール・ヌーヴォー・ビング」というパビリオンまで出展し、これによりフランスのみならず、欧米各国にアール・ヌーヴォーが浸透していくことになります。
アール・ヌーヴォーの特徴としては、定義的に云うと「絡まった蔦やうねる波のような流麗な曲線、植物や昆虫などの自然のモティーフの多用、象徴主義、唯美主義への沈潜が挙げられる」とありますが、こういう小難しい話より一番分かりやすいのが「なんでも鑑定団」でもお馴染みとなったエミール・ガレのガラス工芸ですね。
さて、このガレ。ロココ芸術の栄えた町ナンシーの装飾的伝統を受け継ぎ、イスラム陶器からエナメルの表現を、中国ガラスからカメオ・ガラスを工夫し、ジャポニズムからは細やかな自然のモティーフを取り入れ、あの芸術的なガラス工芸を完成させるわけですが、このガレに直接的な影響を与えた日本人がいます。この人物の名を高島北海と云い、1885年から3年間ナンシーに留学していた折りに、日本のモティーフや季節感などを直接伝え、その後のガレに強い影響を与えます。
さてここで今回のクエスチョン。この高島北海、後に(1900年以降)画家となるのですが、この当時は画家でも何でもなく、明治政府の「一官吏として」留学していたわけですが、この高島北海は一体何の勉強の為に留学をしていたのでしょうか?

【異文化交流クイズ】【2-7回答】ゴッホがアルル時代に作った共同体の名前が冠していた色は?

2021-02-06 12:00:00 | クイズ
異文化交流クイズ。ジャポニズム特集第7回は「ゴッホがアルル時代に作った芸術家たちの共同体の名前が冠していた色とは一体何色だったでしょう?」という問題でした。
今回の正解は・・・『黄色』でした。ああ、太陽が黄色いわ……というわけでもないのでしょうけれどw、それも近からずも遠からずといったところでしょうか?
さてファン・ゴッホは牧師の息子であり、キリスト教の聖職者を志したこともありますが、周知の通りその志は果たせぬまま人生を終えました。
聖職者どころか牧師にさえなれなかった理由が「過度なまでの宗教的熱情」だったというのが如何にもゴッホらしいというべきですが、彼はその宗教的熱情を、理想を日本に求めたわけです。
もっともそれは「現実の日本」ではなく、浮世絵を、小説を通して得た断片的知識を「切り貼り」して作り上げた、ゴッホにとっての「理想の日本」「理想としての日本人」でしたが。
ただその元になった小説がピエール・ロティの「お菊さん」――実際に来日したフランス人の日本愛好者たちにとっては、日本人像を歪めているとして酷く評判の悪い――というのは、なんとも皮肉な気がします。
ですがゴッホは、ロティの小説などを元に、アルルの少女を日本の「ムスメ」として描き、ゴッホにとっての日本人とは「まるで自分自身が花であるかのように自然の中で生き」、「兄弟愛に満ちた」「素朴な労働者」であり、更に神道も仏教も同時に許容し「真の宗教」を実践している民族である、と信じたわけです。
これは我々日本人からすれば「何処の国の話?」てなところですが、実際これはゴッホの考えた「日本人像」ではなく、彼の宗教的情熱の結晶としての「理想の人間像」。あの世界的に有名な「僧侶としての自画像」はそのような背景の下で生まれたファン・ゴッホにとっての理想的自画像でした。
そしてここで本題に戻るわけですが、アルルに作ろうとした芸術家の共同体「黄色い家」とは、つまるところ「理想の日本人」という「信仰」のための、修道僧の共同生活の場であった、と。
こんな理由ですから、幾らジャポニズムに影響を受けていてもゴーギャンがゴッホについていけるわけもなく、呆気なく崩壊したのは当然のことでした。
そしてその崩壊後、ゴッホの作品からは日本色が急速に消えていきます。これは芸術家の共同体としてのゴッホのユートピアと、理想の国「日本」とは、心の中で分かちがたく結びついていて、このユートピアの実現の試みが失敗した時点で「日本」もまた彼にとっては殆ど意味を失ってしまったと解釈されています。
「日本」と出会ったことがゴッホにとって幸せだったのか、不幸だったのかは、当のゴッホ以外には誰にも答えられない話でしょうね。

【異文化交流クイズ】【2-7問題】ジャポニズムとフィンセント・ファン・ゴッホ

2021-02-05 12:00:00 | クイズ
異文化交流クイズ、ジャポニズムシリーズ第7回。今回は日本人にも馴染み深い、オランダ人画家フィンセント・ファン・ゴッホからの出題です。
オランダは江戸時代、公式には唯一の日本との窓口でしたから当然の事ながら日本美術の流入は最初期に始まったわけですが、何故かジャポニズムの影響は殆どと言っていいほど、残されていません。
手元の専門書によると、そもそもオランダでは日本美術よりも旧植民地であったインドネシア的要素の美術の影響力が強かったことに加え、第二次大戦の結果「日本のせいでインドネシア植民地を失った」という事実が反日感情に火を付けた結果、日本美術の自国への影響を検証しようという努力を放棄した可能性が高いそうで。
と云うこともあってか、今日知られる画家ゴッホへのジャポニズムの影響は1886年にパリに出て来て、当時のジャポニズムの大流行の中に身を置いたことが原点とされています。
もっともゴッホのジャポニズムの影響は直接的なものではなく、まず印象派の明るい色彩の絵から入ったと考えられています。
それでもゴッホを、あの原色に近い大胆な色面表現に踏み切らせたのは、浮世絵の模写を通じてでした。
手法としては、浮世絵の上に半透明の紙を置いてまず輪郭線を敷き写し、その紙に格子状の線を引いてカンヴァスに拡大模写を。ここまでは所謂「トレース」ですが、彩色に当たって色彩の彩度を高め、より鮮やかに描き出したのがゴッホの特徴。
ちなみにパリ時代の油彩によるこの浮世絵模写は現在三点のみ残されており、ゴッホはこの「浮世絵模写」という行為を通して初めて、西洋絵画の伝統から解き放たれ、全く新しい色面表現に移行するきっかけを掴みます。
そしてゴッホのジャポニズムは、単に日本風のモチーフや描法、様式を取り入れるだけに留まらず、浮世絵の鮮やかな色彩世界を通じて、陽光に満ちた国「日本」を夢見始め、彼は「日本の太陽」を求め、南フランスへと向かいます。これがかの「アルル時代」ですね。
このアルルでゴッホは芸術家の共同体を作りますが、結果的にこれに賛同したのはゴーギャンのみで、しかも周知の通り僅か二ヶ月足らずで崩壊します。
以後、ゴッホの作品からは日本的モチーフは殆ど見あたらなくなりますが、この辺については解答編で改めて解説することとして、ここで今回のクエスチョン。
ゴッホはこの共同体の名に『ある色』の名を冠していますが、浮世絵から連想したと考えられている、この『色』とは一体何色だったでしょう?

【異文化交流クイズ】【2-6回答】アール・ヌーヴォーの生みの親の店に特別に出入りが許されていた画家は?

2021-02-04 12:00:00 | クイズ
異文化交流クイズ。ジャポニズム特集第6回は「アール・ヌーヴォーの生みの親とも云えるビングの経営する日本美術品店に自由に出入りすることを許可され、その死後浮世絵コレクションを残した自然主義の画家は誰でしょう?」という問題でした。
今回の回答は・・・『フィンセント・ファン・ゴッホ』でした。
ゴッホは1885年以前のオランダ時代にも既に日本の美術品を見ていたようですが、芸術家として日本美術に強い関心を示したのは1886年にパリに出て来て、当時のジャポニズムの大流行の中に身を置いてからだと考えられています。
まさにビングが日本の美術品を大々的に商売&宣伝していた時にゴッホが現れたということで、これも運命の悪戯というやつでしょう。
もしこの当時ジャポニズムが流行していなければ、まず間違いなくゴッホが画家として世に名を残すこともなかったでしょうし……恐らくその最期もまた違ったものとなったでしょう。ゴッホについては長くなりますので、次回の出題に回したいと思います。

【異文化交流クイズ】【2-6問題】ジャポニズムがアール・ヌーヴォーに与えた影響

2021-02-03 12:00:00 | クイズ
異文化交流クイズ。ジャポニズム特集第6回の今回はジャポニズムがアール・ヌーヴォー(Art Nouveau)に与えた影響からの出題です。
アール・ヌーヴォーという名称は、パリの美術商、ジークフリード・ビングの店の名前に由来します。このビング、元々はドイツ人で1870年代に日本の美術品を売って成功し、フランスに帰化します(帰化後の名前はサミュエル・ビング)。後に美術の一つの時代を築き上げるきっかけとなったのは、このビングが1888年から91年にかけて発行した月刊誌『ル・ジャポン・アルティスティック(芸術の日本)』
色刷りを含む多くの図版を掲載紙、浮世絵、金工、陶器から建築、歌舞伎に至るまで数々のジャンルを紹介し、仏、英、独の各国語版で出版されたこの雑誌に感銘・影響を受けた作家としては、ゴッホ、スーラ、ロートレック、ゴーギャンの影響下にあったナビ派の大部分の画家達が挙げられます。
ビングの一義的な意図は日本の美術品を愛好する層を増やすことによって販路を拡大することでしたが、それと同時にフランスの美術作家たちの手本となるような作例を提供し、新しい美術の制作を促すことも強く意識されていたと考えられています。
そして圧巻だったのは1890年にはパリの国立美術学校で開いた大浮世絵展。師宣、北斎、広重に至る流れを作家毎に配列。その展覧総数は725点の単品と421点の冊子という、空前絶後の規模。
この展覧会は画家達だけでなく、版画家やポスター画家たちにも影響を与え、革新の契機となったと考えられています。
このビングが1895年、パリにおいて、日本美術を扱う店に隣接していた従来の店を全面改装、店名も改めて営業を再開します。この店の名「アール・ヌーヴォー」(フランス語で「新しい芸術」の意)が、後に使われる1900年前後に流行した装飾様式の名の直接的な由来です。
このアール・ヌーヴォーは幾つかのギャラリーに分かれ、建築装飾から家具、壁紙、食器に至るまで総合的にデザインされていました。
具体的に言えば、浮世絵に見られるような平面的かつ装飾的な空間構成を取り入れたジャポニズム色の濃厚なロートレックの原画を、アメリカのティファニーが制作したステンドグラスに嵌め込む、といった形の総合的装飾美術がここに生まれたわけです。ティファニーのステンドグラスは昔よく「なんでも鑑定団」で取り上げられたことがあるので、目にしたことのある方も多いでしょう。
他にもアール・ヌーヴォーの特徴として、蝶、蝉、蜻蛉などの昆虫、雀、孔雀、鷹、蝙蝠などの鳥や動物、竹、桜、梅などの植物、時には蚕の蛹や海月などの些か異様と思われるモティーフが意匠化されて用いられていますが、これも従来の西洋美術に見られなかったもので、こちらも明らかに日本の浮世絵やら工芸品の影響を受けていると考えられています。
さて、ここで今回のクエスチョン。
このビングの店には常時日本の美術品が置かれていましたが、当時としては既に浮世絵は高価なものになっていました。
しかし『とある印象派の画家』はビングと親しかったお陰でその店に自由に出入りが許され、また決して恵まれていたとは思えないその生涯を終えた際に、彼の手元には貴重な浮世絵のコレクションが残されていました。さてこの『とある印象派の画家』とは一体誰でしょう? 

【異文化交流クイズ】【2-5回答】最初期のジャポニザン達が結成した団体名が由来とした日本の『とある飲食物』とは?

2021-02-02 12:00:00 | クイズ
異文化交流クイズ。ジャポニズム特集第5回は「最初期のジャポニザン達は『ジャングラールの会』という会を結成していましたが、この会は文字通りの意味で云うと、日本の『とある飲食物』を愛好する者たちの集い、ということになりますが、その『とある飲食物』とは一体なんでしょう?」という問題でした。
今回の正解は・・・『日本酒』でした。どうやら醤油と同様に、日本酒も輸出されていたようです。ただ醤油を絶賛する記事は枚挙に暇はありませんが、日本酒を絶賛する方は圧倒的に少なく、逆に「アンモニア臭がする」だの「《サキ》をどうしてもわたしたちは好きになれなかった」なんて記録はよく見かけます。
で、実は今回の正解に関してはとある本に書いてある事の受け売りで「多分フランス語なのだろう」と推察していた程度なのですが、このクイズを元のブログで公開していた際に回答者の方に教えていただいた話によると「ジャングラール」というフランス語はそもそも存在しないようで、かつ『“グラール(GRAAL)”に聖杯の意味もある』ということだそうですので、恐らくこの言葉は「ジャポネ(日本)」と「グラール(杯)」を融合した造語だと思われます。
『“saint graal”だと文字通りの「聖杯」になりますが、フランスに来るとアーサー王伝説の方ではなく、一般的にはテンプル騎士団の方を指すのではないか?』という指摘も当時頂きました。
さて、こんなところでジャポニズムの影響が色濃く見て取れる前期印象派に関する話題は今回でいったん終了して、またべつの切り口からの出題となります。

【異文化交流クイズ】【2-5問題】「前期印象派」とジャポニズム

2021-02-01 12:00:00 | クイズ
異文化交流クイズ、ジャポニズム特集第5回はマネ、ドガ、モネ、ゴーギャン、ゴッホらの前衛的画家が中心となった「前期印象派」についての纏めの出題です。
印象派の画家達と日本美術の関係を示唆する文章が本格的に現れるようになったのは1870年以降。
以下の証言は時代的には更に後のものとなりますが、大変分かりやすいので引用。
パリで開かれた「歌麿と広重」展を観覧した印象派の画家ピサロのものです。
『日本の展覧会でモネに出会った。やれやれ、この展覧会は我々が正しいことを示してくれたよ。驚くべき印象派風の灰色の夕日が幾つもあるんだ』『日本の展覧会には感服する。広重は素晴らしい印象主義者だ。私もモネもロダンも夢中になってしまった。私が描いてきた雪や洪水の効果に満足しているよ。日本の芸術家達は我々の視覚的な偏りに確信を与えてくれるのだ』
ただこれは何処までも一方的な隷属的模倣を行った結果のものではありません。丁度19世紀後半のフランス。従来のルネッサンス以来の絵画の表象体型が崩れ始め、表現の重心が線と明暗と空間から、色彩と筆触と平面へと移行しつつあった時代。袋小路に陥っていた従来の絵画や工芸品に、新しい方向性、新しい美的価値を付与する必要があった時代。そうした時代にまさにタイムリーに日本美術はもたらされ、フランス美術の刷新を促す触媒となった、というわけですね。
そして一番上でサラリと書きましたが、フランスの絵画に斬新な風を吹き込んだ前期印象派の画家達を、現在の我々はごく普通の「絵画」として認識していますが、当時としては「前衛芸術家」そのものだったのです。だからこそ彼らは自分たちの「正しさ」の裏付けを求め、上の証言のこの部分が意味を持つわけです。
『日本の展覧会でモネに出会った。この展覧会は我々が正しいことを示してくれたよ』
『日本の芸術家達は我々の視覚的な偏りに確信を与えてくれるのだ』
そして事実、印象派世代の全画家に日本美術の本質的な影響があったわけではなく(セザンヌなどは浮世絵版画に批判的な証言が残っていますから)、しかも明らかに日本の浮世絵の影響を受けている画家たちでも、彼らは自分なりに浮世絵版画を咀嚼し、新たなる絵画を生み出したわけです。
印象派の擁護者であったシェノーの以下の証言はそれを端的に示しています。
『聡明にも彼ら(印象派画家たち)は、自らの才能の上に否応なしに及ぼす働きかけを統御することが出来た。各々が日本美術から、己の天与の才と最も近い類似性を秘めた特質を吸収したのである』
さてそんな初期ジャポニズムですが、1876年のパリ万博の後、画家や批評家、そして何故かセーブル陶器工場の工芸家らの最初期のジャポニザン達は『シャングラールの会』というものを結成していました。一説には共和主義を奉じる政治的な集まりに近いものと云われていますが(当時のフランスはナポレオン三世の第二帝政下)詳細は今も不明です。
ただフランスのジャポニザンの政治的立場としては共和主義者が多かったらしく、これは彼らが美術においても古典主義、アカデニズム、貴族主義などを否定し、自然主義、印象主義、民衆性に連なる価値観を支持する者たちが多かったからだと考えられています。
……形式上、浮世絵はどこまでも「バリバリの封建制」の下で生まれたものから考えると少々皮肉な話ですけれど。
さてここで今回のクエスチョン。この『シャングラールの会』。文字通りの意味で云うと、日本の『とある飲食物』を愛好する者たちの集い、ということになりますが、それではそのその『とある飲食物』とは一体なんでしょう? 
ヒントとしては、その『とある飲食物』、中には絶賛する人々もいるのですが、概して幕末維新期に日本にやってきた外国人達にはあまり評判は宜しくないですね。

【異文化交流クイズ】【2-4回答】『笛を吹く少年』をジャポニズムと絡めて高く評価し、後にマネが肖像画を描いた批評家兼作家とは一体誰?

2021-01-31 12:00:00 | クイズ
異文化交流クイズ。ジャポニズム特集第4回は「『笛を吹く少年』をジャポニズムと絡めて高く評価し、後にマネが肖像画を描いた批評家兼作家とは一体誰でしょう?」という問題でした。
今回の正解は・・・「テレーズ・ラカン」「居酒屋」「ナナ」などの小説で知られる文学者『エミール・ゾラ』でした。
この『エミール・ゾラ』は後にヨーロッパ中を震撼させることになった、かの有名なドレフュス事件における「私は弾劾する」の一文で有名ですね。
なお「居酒屋」や「ナナ」などの連作シリーズは《ルーゴン・マッカール叢書》として纏められていますが、これは物語が基本的にルーゴン・マッカール家という一族に連なる人間たちを描いているからです。
ですがこの一族……殆ど全員と云って良い程、破滅的な人間ばかりで(例外はごく一部)、代表作とも云うべき「ナナ」に至っては、本人のみならず、誘蛾灯に引き寄せられるようにナナの元に集まってきた男たちを悉く巻き込みながら盛大に破滅していきます。
特に最終盤でのその様は圧巻です。いや、破滅すると分かっていても、そんな女性に熱を上げるフランス男性の生き様に感嘆すべきかも知れませんがw。
ちなみに完全に余談ですけれど、自分が一番好きなゾラ作品はマイナーこの上ないですが「十数年前に」「数十年ぶりに」再版された『ボヌール・デ・ダム百貨店』という作品。
この作品、フランスの片田舎から出てきた少女がヒロインで、極貧や苛めに耐えながらも最後には幸せになる、というゾラらしからぬ小説です。というより、この長大な叢書シリーズで「唯一の」ハッピーエンド作品、と云われている作品なのです。
ですが本書の見所はヒロインたる彼女ではなく、描かれた百貨店の勃興そのもの。
この百貨店に集う客達に対する、ゾラの慧眼たるや凄いです。女性客の集客方法――女性の購買心理の突き方、目玉となる特売品とそれの店内での配置方法、ディスプレイの工夫の仕方、更なる客を集める為の店内の無料喫茶店の設置やら、百貨店内での展覧会開催――に関しては、現在の百貨店の戦略と殆ど変わりません。「都市に住む女性の購買心理」というのは、今も昔も、洋の東西を問わず変わらない、ということなんでしょう。
ちなみにこのボヌール・デ・ダム百貨店は当然架空のものですが、当時パリにあった百貨店を複合的にモデルにしているそうで、当然の事ながら作中でも日本製品売り場の記述もあり「年を経るに連れて拡大中」というところまでしっかり描写されています。
お暇がありましたら是非ご一読を・・・と云いたいところですが、この本の「厚み」、一時期の京極夏彦の本以上に分厚いため寝転がらないと読めないのが難点だったりします。