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Mean

2009年11月11日 | Weblog
先日の大阪での研修資料の中に大変感銘を受けた文章があったので
勝手ながら掲載させていただきます





どっかの1コラムの中で埋もれさせるのには
もったいないほどの内容かと思ったんで

ちょいと長くなりますが

読んでみて下さい

何か心に引っ掛かってくれれば




「失われた命の意味について」

岡 知史(上智大学 教授)

新聞を開くと、毎朝、必ず死んだ人の記事が載っている。交通事故や火事や山の遭難など、人の命を奪う事故はたえず起こっているものである。
 先日も、幼い二姉妹が焼け死んだという記事を見た。母親は炎に包まれた家を前にして呆然としていたという。焼け死んだ子にとっても、それを目の前にして何もできなかった母親にとっても、ひどく残酷な話である。
 潜水艦とぶつかって沈んだ船の話も同じ様に酷い出来事だった。せまい船室に閉じ込められて溺れていくとは、どれほどの恐怖であったことか。それを思うと、ぼくは恐ろしくて寒気がしそうだ。
 多くの人たちは、年をとり身体が弱まるまで生き、消えるようにして死んでいく。しかし、その一方で若くして、しかもたいへんな苦痛を受けながら死んでいく人たちがいる。それはどういうことなのだろうか。
 そういう人たちはただ「運が」悪かったに過ぎないのだろうか。
 それではあまりにやりきれない。人が死んでいくことには何か意味があると思いたい。いや、意味があるかないかは、ぼくたち人間が決めることなのだから、そこに意味を見いださなくてはならない。それが死者に報いるということだと思う。
 ひとりの人の死が「むだ死に(なんという残酷な言葉だろう!)」かどうかは、生き残った者たちが決めることである。死んでいった人の命の意味は、生き残った者たちの手にかかっているのだ。
 「死んで仏になる」とは、日本にもともとあった死者崇拝と仏教が一つになってできた考え方だと聞いているが、ぼくはそれを美しい思想だと思うのである。
 人は死んで完全なものとなる。人は生きているかぎり不完全なものだが、死ぬと完全なものとなる。なぜなら、死んだ人の命の意味は、死んだ人本人によって決められるのではなく、生き残った人たちによって与えられるものだからである。
 死んだ人は彼岸にいて、その言葉を聞くことができないが、それだけに多くを語り合うことができる。生きた人と語るには電車に乗って行ったり、電話をかけたりしなければならないが、死んだ人と語るには、ひとり静かに祈るだけで良いのである。
 生きている人は、ぼくたちに向って「そうだ」とも「そうでない」とも言ってくれるが、死んだ人は何も言わない。だからこそ、死んだ人はすべてを生き残っている人に託している。生きている人は、死んだ人のすべてを受け取るよう死んだ人から期待されているのである。
 それだから、死んだ人はしばしば生きている人の誰よりも、人を動かす。生きている人に応えようとして動く人は少ないが、死んだ人に応えようとして動く人は多い。なぜなら生きている人の命は生きている本人のものだが、死んだ人の命は、生き残った人たちのものだからである。
(1988年12月「サロン・あべの」第30号掲載)
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