倉敷・大原美術館横「似顔絵・宏プロ」

倉敷・大原美術館横で長年・似顔絵を描き、お世話になっている者です。

鮎川議介

2007-08-01 22:57:47 | 掲示版(感想、批評何でもよろしく)
生涯

鮎川義介16歳
満州重工業総裁時代1880年(明治13、0歳):明治の元勲井上馨の実姉の長女を母とし、旧長州藩士 鮎川弥八(第10代目)を父として、山口県氷川郡大内村(現在の山口市大内地区)に生れた。
1903年(明治36、23歳):東京帝国大学工科大学機械科を卒業後、芝浦製作所に入社。身分を明かさない条件で日給48銭の職工となる。
その後、当時の技術はすべて西欧の模倣であったので、西欧の状況を体験すべくアメリカ合衆国へ渡る。約1年強を可鍛鋳鉄工場(グルド・カプラー社)で労務者として働く。
1909年(明治42、29歳):井上馨の支援を受けて戸畑鋳物(現日立金属)を創立。
1928年(昭和3、48歳):久原鉱業の社長に就任し、同社を日本産業(日産)と改称。義弟久原房之助の経営する久原鉱業は、当時は、第一次世界大戦後の恐慌と久原の政界入りで経営破綻に瀕していたが、政友会の田中義一(陸軍大将)らは鮎川に再建を懇請し、しぶしぶ応じたものである。
この会社を持株会社に変更。公開持株会社として傘下に、日産自動車、日本鉱業、日立製作所、日産化学、日本油脂、日本冷蔵、日本炭鉱、日産火災、日産生命など多数の企業を収め、日産コンツェルンを形成。
1933年(昭和8、53歳):自動車工業株式会社(現在のいすゞ自動車)よりダットサンの製造権を無償で譲り受け、同年12月ダットサンの製造のために自動車製造株式会社を設立する。
1934年(昭和9、54歳):自動車製造株式会社を日産自動車製造株式会社と改称。
1937年(昭和12、57歳):日産を満州国に移し、満州重工業開発株式会社として、初代総裁・相談役、同時に、満州国顧問、貴族院勅撰議員、内閣顧問を兼務。満州国の財界は、松岡洋右(満鉄総裁)、岸信介(産業部次長)など、後にスケの付く山口県出身の「3スケ」が牛耳っていたと評された。政界の「2キ」(東條英機・星野直樹)を含め「2キ3スケ」とも。
1939年(昭和14、59歳):この頃、白洲次郎らと世界情勢を語り合い、ドイツと英仏との戦争では英仏が勝つとの結論を得る。関東軍との関係悪化から日産グループの満州からの撤退を検討し始め、1942年頃に満州重工業開発の総裁を辞任。
第二次世界大戦終結後、戦犯容疑を受け1945年12月に逮捕され巣鴨拘置所に20箇月拘置されたが、容疑が晴れる。獄中にて日本の復興策を練る。
1952年(昭和27、72歳):日産グループ各社の出資を得て中小企業助成会を設立。会長に就任。以後、中小企業の振興に力を入れる。
1953年(昭和28、73歳):帝国石油社長、石油資源開発社長。参議院議員に当選。
1956年(昭和31、76歳):日本中小企業政事連盟(中政連)を創立し、総裁に就任。その後主として政治家としての晩年を送る。また同年設立された全国中小企業団体中央会の会長にも就く。会長、この間、岸内閣経済最高顧問、東洋大学名誉総長。
1959年(昭和34、79歳):全国区より参議院に再度当選したが、同時に当選した次男金次郎派運動員の選挙違反容疑が高まり、12月親としての責任をとり議員を辞職した。
1966年(昭和41、86歳):持病の胆嚢炎を手術したが、高齢により回復がはかどらず入院が長引く。
1967年(昭和42):合併症により急性肺炎を起こし、2月13日に駿河台杏雲堂病院で死去、享年86。墓所は多磨霊園10区 1種、7側1番。

[編集] 家族 親族
父・鮎川弥八(長州藩士)
母・ナカ
大叔父・井上馨(長州藩士、政治家)
姉・スミ(高知県,士族木村正彦養母)
妹・キヨ(山口県,実業家、政治家久原房之助に嫁する)
妹・フジ(福岡県,実業家貝島太市に嫁する)
妻・美代(京都府,実業家・高島屋創業家 飯田二郎長女)
長男・弥一(実業家)
中小企業助成会は長男・弥一の代にベンチャービジネス向けの投資会社「テクノベンチャー」に改組している。
二男・金次郎(政治家) 妻 雅子 ノーネスユニバーシティ学園長
孫・純太(実業家・テクノベンチャー社長)
2005年1月に女優の杉田かおると結婚したが、7ヶ月後の2005年8月に離婚した。
その他の親戚 岸信介(官僚、政治家・首相)


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