ひろさわの人生ダメ詰まり--No Liberty--

現在アニメ「山月記」を制作中です。囲碁もゲームもご無沙汰です。

ゾンビ赤松貞村が応仁の戦場にいる問題

2017-08-23 21:45:38 | 花の乱

右から
古典文庫版「応仁記(一巻本≒二巻本)」+「応仁別記」
群書類従 第二十集 「応仁記(三巻本)」
・学研 歴史群像シリーズ37 応仁の乱(通称:学研の赤い本)
・応仁の乱 完全ガイド(晋遊舎)
・その下:図解 応仁の乱(枻出版社)
・奥:マンガ 応仁の乱(宝島社)
だいたい、右のほうが古い本です。

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このうち、4つの本において、
応仁の時点で存命していない赤松貞村が応仁の戦場にいるのですが、(通称:ゾンビ貞村)
結論から言うと、

「応仁記(一巻本≒二巻本)」+「応仁別記」「応仁記(三巻本)」へとリミックスされる過程で、
たぶんあまり赤松家の事情に詳しくない編纂者が、
嘉吉の乱(1441)の赤松伊豆守=赤松貞村が、応仁の乱(1467)の赤松伊豆守(おそらくは貞村の息子・貞祐)でもあると混同してそう書きこんでしまった。

●学研の赤い本の作図者は、群書類従版「応仁記(三巻本)」を参照して作図した。

●「応仁の乱 完全ガイド(晋遊舎)」や、「図解 応仁の乱(枻出版社)」などの最近出ている関連本は、
学研の赤い本をそのまま参考にして戦況図を作っているので、エラーが継承されてしまった・・・

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<もすこし詳しく>

まず大前提として、赤松貞村は、応仁の乱のときには、すでに亡くなっています
例として、wikipediaをコピペしますが、
死亡時期については、他の紙の本にも書かれています。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E6%9D%BE%E8%B2%9E%E6%9D%91

wikipediaは改訂されるかもしれないので、現時点での記事をコピペしますが・・・

嘉吉元年(1441年)6月24日に将軍義教が西洞院にある赤松邸で殺害された際、貞村も幕臣たちとともに参加していたのだが、
満祐の嫡子・赤松教康が足利義教を襲撃すると、その場から逃げ出した。
後に幕府軍が満祐を討伐する際、貞村は細川持常が指揮する幕府大手軍に加わったのだが、目ぼしい活躍はなかった。
嘉吉元年閏9月には、貞村の所領が闕所とされ、軍功の対象となった[2]。
『建内記』嘉吉元年九月二十四日条には貞村が落馬あるいは夜討されたという記述があるが、嘉吉3年(1444年)ごろまでは活動していたとされる[3]。
「赤松氏大系図」では文安4年(1447年)に死亡したとされている。



万一生きていたとしても、明徳4年(1393年) 生まれなので、応仁の乱の1467年には数えで75歳、
若年の当主・赤松政則(1455生まれ、数えで13歳)を旗頭にして主軍を率いるにしても、老年過ぎないでしょうか。
※いえ、(大和国の筒井氏の)成身院光宣は数え78歳で戦場に出てはいるのですが

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<源流にあると推測される「応仁記(一巻本)」ではどう書かれているのか>
※なぜ一巻本三巻本の源流なのか、については省く

(古典文庫の)「応仁記」を読んでみると、

洛北の合戦(p73)では、
「舟橋より下をば、細川下野守・丹波の守護内藤、赤松伊豆守をぞ向られける。」(カタカナをひらがなにしました)


(古典文庫の)「応仁別記」のほうには、
p137に<山名金吾(宗全)が文正元年末(開けると文正2年=応仁元年)に集めた一味の大名として>赤松伊豆千代寿丸
p138に<文正2年正月15日に(細川)勝元のほうに味方した人々のうちに>赤松次郎政則・同伊豆守貞祐(実際は示+右なのですが、漢字が出ない)、

p165に 赤松伊豆守○貞村(小さめの○の横に貞村と小さく書かれている)、の名前がありますが、
この赤松伊豆守○貞村は、嘉吉の乱(1441)のことについての記述です(なんか時代が行ったり来たりするのです)。

つまり、これらすべて、「応仁の戦場の赤松伊豆守」が赤松貞村だとは言っていません。
※ほかにもなんか伊豆に関する記述があったらすんません。

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<だがそのリミックスの「応仁記(三巻本)」では・・・>

ものすごく端折った言い方をすれば、
応仁記(一巻本) + 応仁別記 ⇒ 応仁記(三巻本) ですが、
その応仁記三巻本(群書類従版)を、ありがたいことに私訳された方(芝蘭堂さま)がおられまして、
http://muromachi.movie.coocan.jp/ouninki/ouninki19.html
そちらと群書類従版の原文を読み合わせて分かったのですが、

>舟橋より下へは、細川下野守、丹波守護内藤備前守、赤松伊豆守貞村を向けられた。
(原文「舟橋ヨリ下ハ細川下野守。丹波守護内藤備前守。赤松伊豆守貞村ヲゾムケラレケル。」 p378) 
ここが(群書類従版)応仁記三巻本で、応仁の戦場にいる赤松伊豆守が貞村だと(初めて)明言してしまった部分です。


ややさかのぼりますが、(三巻本)応仁記には、
http://muromachi.movie.coocan.jp/ouninki/ouninki12.html
>- 義就・政長闘乱の事 -
に、
(山名方についたほうとして)
赤松伊豆守が子息千代寿丸
(細川方についたほうとして)
>赤松次郎入道政則、同貞祐、同道祖松丸、
とありますが、
(原文「赤松伊豆守ガ子息千代寿丸」「赤松次郎入道政則。同貞祐。同道祖松丸。」p368)

赤松円心の次男・貞範を祖とする赤松伊豆殿(春日部家)についての考証は、
こちらで見事に行われているのですが、
http://ochibo.my.coocan.jp/rekishi/akamatu/ikka/aka_izu_kakei.htm
「落穂ひろい」ふーむ様)

もし、この伊豆守を貞村としてしまうと、いまだ子息が幼名なのがおかしい(気がします)。千代寿丸は貞村の子ではない(はず・・・)。
千代寿丸の父の伊豆守は、貞村の息子・教貞だろう(貞村・教貞は応仁元年時点で、すでに死去している)。
だが、教貞は伊豆守を称したであろうか・・・
ところで、「入道」とはいかに!?
赤松政則の幼名は「次郎法師(丸)」(赤松則村(円心)の幼名も「法師丸」だった気がするが、ソースが見つからん・・・)だが、
さすがに、この年で入道はしていないはず(それとも寺に預けられていたのでもいうのだろうか)。
また、一巻本に比べ、貞祐の前の「伊豆守」が消えてしまっている。

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<つまり何が起こったのか!?>


(古典文庫の)応仁記(一巻本)+ 応仁別記 ⇒ (群書類従の)応仁記(三巻本)

のリミックスが行われる際に、応仁の赤松伊豆守=貞村であると勘違いし、
そのつじつまを合わせるために、間違った加筆修正がされてしまった。

「応仁別記」を記述した作者は、
・「伊豆「」の子息」ではなく、伊豆殿(系)の千代寿丸であり、
・応仁の乱のさいの赤松伊豆守は貞祐
だとわかっていたのだが、(※「伊豆」と「伊豆守」を明確に区別している)
三巻本にまとめあげられるときのエラーにより(これは意外に後世のことなのかもしれないし、群書類従にまとめあげられるときのエラーかもしれないのだが・・・私・ひろさわの調査不足です)、応仁の乱にゾンビ貞村が跳梁跋扈することになってしまった。
・・・ということではないでしょうか(弱気)

※赤松教貞が「伊豆守」を名乗ったかどうかは、のちの研究課題に。
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<これは想像ですが>

伊豆殿(系)内部で継承権争いがおこり、
継承権を奪取しようとしている千代寿(教貞晩年の子と考えれば幼名でもおかしくない)とその取り巻きが山名方につき、
継承権を持つ伊豆守貞祐(もし貞村が応仁に生きていれば「じいさん」なので、この貞祐は「おっさん」)が細川方について赤松本流の政則(こちらは元服したけど子供)を旗印として、お家再興を名目に、邪魔な兄の子の千代寿(もうすぐ元服の子供)と戦っていると考えれば、
いかにも応仁の乱でありそうな流れである・・・・
「花の乱」で描かれたほど、赤松政則は戦さバカ活躍していなかったのではないだろうか・・・


なお、赤松政則も伊豆守であるとする記述がある系図もあると付け加えておきます。



※いまひとつ強く主張することが出来ないのですが、問題提起として、とりあえず、公開しておきます。

応仁の乱・完全ガイド執筆にご協力しました

2017-08-23 21:29:15 | 花の乱
公式サイトはこちら。
http://www.shinyusha.co.jp/media/kanzen190/

アマゾンはこちらです。

このうち、p16からp20の「花の乱 全37話 完全ガイド」の元原稿を執筆させていただきました。
どうもありがとうございました。

写真右:花の乱のガイド本。お仕事のご依頼を受けたとき、運よく実家にいたので、花の乱を録画したDVDはこっちに持ってこれたのですが、
運悪くガイド本は忘れたので、新しく買い直したものです。
最初の10話ぐらいまではガイドに載っているのですが、そのあとは無いので、自分のブログを参照しましたが、
どうした過去の自分!! 全話感想を書いていたわけではないので、新しく書き直しました。
見直すうちに、新しい発見もありましたよ。

写真左が、出来上がって頂いた御本です。20年以上の時を超えた!

また、執筆途中で、応仁記のゲームをプレイしていただけたので(これ前の記事に書いてますけど)、
それも参考になりました。


呉座さんの「応仁の乱」ヒットの後、いろいろな関連本が出ましたけど、
花の乱の全話紹介はこれだけじゃないかという気はします。(さすがに全部の関連書物はチェックできてない)

全体的にビジュアルやレイアウトが優れているので、気軽にお手に取ってお読みください。
・・・と、その前に。

いろいろ誤植に気が付いてしまったので、こちらにまとめておきます。
なお、重版がかかった場合は、修正されているかもしれません。
他にも誤植がありましたら、コメント欄にでも追加してください。随時追加しますんで。


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p16 花の乱完全ガイド

△日野富子のイラストが、服のピンクの部分の重ね合わせが、逆になっているものがあります(表紙を含め、他のページも)
イラスト自体は、私には描けないタイプの絵で、大変好きです。

大内政弘(藤岡弘)
×当陰謀嫌いで ○陰謀嫌いで

p17 第3話 月と銅銭
△畠山義就(よしひろ) ○義就(よしなり)
最近は「よしひろ」と呼ぶのが主流のようですが、当時は「よしなり」が主流で、また、ドラマの中では「よしなり」でした。

p18 第14話 宗全謀反
×その息子・春王(しゅんおう) ○春王(はるおう)
ルビの単純ミス。
といっても、この誤植のおかげで、一つ事実を知ることが出来ました。
足利義尚の幼名は不明だという事実です。
私はてっきりドラマの「三代将軍・足利義満の幼名「春王」にならって名付けた」というのが事実だと思っていたのですが、
「しゅんおう」という読み方が歴史的にあるのかを調べているうちに、
義尚の幼名が分からない、ということに気が付きました。つまるところ、ドラマの「春王(はるおう)」は市川森一さんが名付けたフィクションであったと!
(だから、たとえば「応仁記」では「若君」としか書いていない)
以前、赤松政則を山名政豊よりも年上に漫画に描いてしまったことがあって(改訂新版で修正した)、さてさて、私はどれだけ「花の乱」に引っ張られていくのやら・・・


p20 第36話 大文字
△ 森女の死に 嗚咽する富子
これは私の元原稿が悪かったのだと思うのですが、
嗚咽は、息子・義尚のためではないかと。大文字焼が義尚の死を悼むものだったことでもありますし。
富子は森女が浄土に召されたことにはあまり驚いていなかった気が・・・


p25 下段 真実7
×若干16歳 ・・・の16が右に90回転している

p51 下段 真実51
×和国 ○大和国・・・でしょう

p63 下段
×細川宗全がいったん軍を退いたことで・・・
細川勝元? 山名宗全?(たぶん細川勝元だと思います)


p63 p67の合戦図
△戦場に赤松貞村がいる
赤松貞村は、嘉吉の乱の年、あるいはその後数年で亡くなっているので、応仁の乱の戦場には存在しえない。
とはいえ、これは根の深い問題がありそうなので、別の記事で詳述します。


p70 応仁の乱 ブックガイド 上段 図解 応仁の乱
×出版社 ○枻(えい。木+世)出版社
「いったい何出版社なんだ」と思い、本屋さんに行って、納得しました。
この難しい文字なら、フォントが無いかもしれない。
別の関連本では「エイ出版社」とカタカナに開いていました。


というわけで、ゾンビ赤松貞村と
「第36話 大文字」以外はケアレスミスみたいなもんなので、あんまし気になんないところだとは思います(そうでもないのかな)

「大文字」については、私の解釈はこういう風に記事に書いているのですが、総集編だけ見ると、富子の泣くシーンって無かったと思うんですね。
これについては、というか、「花の乱」全話、ご覧になって確かめてみてください(ちょっと難題かな)

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私は、呉座さんとラスプーチン(違)との対談が面白かったですね。
多分、今の人って(山岡荘八の小説とかとは違って)
オレも三大天下人に協力して新しい秩序を造っていくのだ、なんてことは思えずに、
政治家のわけのわからない大義に振り回され、餓死するか、巻き添えで家を燃やされるか、そういうモブだって思ってるんじゃないか。
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つうわけで、構想を練ったりした(実際はかなりの部分、なんもせずぼーっとしている)カフェの香りを思い出したりしながら、
この記事は終わりです。
本屋さんで手に取ってくださいね!

つうわけで、次は赤松ゾンビ貞村が応仁の戦場にいる問題です。

適当に近日報告を

2017-08-11 07:31:45 | 日記
近日と言いつつも、4月30日から始まるんですけど・・・
新世界の動物園の虎を見に行ってきました。

泊りがけです。この辺りは宿泊も結構安いですな。
夜の通天閣。


朝の通天閣。

5月1日はメーデーだったので、労働運動のメガホンの声が聞こえました。

朝9時だったかの開園から並んで、すぐさま虎を見に行きました。
適当に写真を張っていきます。








なんか虎じゃないのばっかりですが・・・最後のは生物ですらないし。
なんで行ったかと言うと、虎の歩き方を観察したかったんですね。
姫路動物園の虎は亡くなってしまい、神戸の王子動物園の虎は かなりのおじいさんでして、
若い虎の歩き方を知りたかったのです。

なんというか・・・前足は、濡れたあぶらあげ(どん兵衛に入ってる四角いやつ)みたいな感じで、
小指が残るような足の上げ方をします。
一本のラインを綱渡りするような足跡です。(これをずいぶん勘違いしてきた気がする)
あ、そうそう、花魁の歩き方に似ているかも。

写真はあまりとっていないのですが、スケッチを結構してきました(いまは棚の肥やしになっています)
まだこのころは、真面目に一日6時間(前日・翌日へのシフト無し)お絵かきをしていたので、
まあ暑い中、6時間スケッチをしてましたよ。
昼ごはんのおにぎりのご飯粒を、机の下に落として、「まあいいか、あとで拾おう」とか思っていたら、
野良のハトに食べられていたとか、いろいろ面白いことがありました。
遊園地は併設されてないのね・・・

終了後は、新世界界隈のゲーセンに。
うおおお! ダライアスバーストがあるぜ!! マイケルジャクソンのムーンウォーカーってこんなに操作性悪かったっけ?
別のゲーセンのバーニングファイトをプレイしたかったのですけど、そっちはタバコがあれなんであきらめました。

フェルメール見に行った17年前と同じく、スマートボールありましたねえ。
しかもすんごい人気あるじゃないですか。
景品もらいましたよ。


あとはおとなしく懐かしの日本橋・電器街を通って帰ろうと思っていたのですが、
なんかこんなもんを見つけてしまったので、

寄ってしまいましたわ。
コスプレとかフィギュアのお店だったかな。

中にレッドマン立像がありまして。

大事な立像なので二度貼りました。(これだけ撮影可能)

中で上映されていた全話連続の動画を見た通りすがりの地球人の方々の会話
「普通の地球に見えるけど、レッド星いうて、木が何十メートルもあるという」
「要するにウルトラマンやろ」
「全然違うわ」

グッズはお値段高めだったのであきらめましたw

うん、まだこのころは、アニメを完成させられるという希望があったころだ。

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6月の相楽園碁会。
アジサイがきれいでした。

このころになると、帰省や外出・外泊、深夜徘徊の多さにより、かなり作画リズムが崩れていました。
一番の悩みは、たぶん、このペースでアニメ制作しても、広島アニメフェスの締め切り3月末日に間に合わないんじゃないかというところですね。
間に合いそうなら、そのまま順調に続けていたはず。

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7月の囲碁会。暑くて相楽園ではできないというので、神戸囲碁サロンにて。

リッチな碁盤と碁石です。
なお、大魔王のD氏には勝てない模様(写真はツイッターにて)

その翌日、西宮のカブト会。
歴史研究の一環としてシミュをプレイします。これは応仁記。


自作の全国版マップです。これで一挙に応仁の乱の対立関係が分かるという。

とはいえ、この時点ではただのコマ置き場です。
詳しくは、mustattackあるいはシミュのブログで書くかもしれません。

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8月に入ると、もうボロボロで、夏休み状態です。また間に合わない投稿締め切りを迎えるのか・・・