ひろじいのエッセイ(葦のずいから世の中を覗く)

社会と個人の関係という視点から、自分流に世の中を見ると、どう見えるか。それをエッセイ風にまとめ、ときには提案します。

世間と個人 Ⅰ章 世間とはどういうものか2

2016年03月21日 | エッセイ-世間
世間とはどういうものか 2

身内と他人
 われわれは身内の人にはとても親切だが、他人にはかなり冷淡になる。身内とは、必ずしも親族とは限らず、学校の級友とか会社の職場で一緒に仕事をする同僚とか、趣味の会の仲間とか自分と同じ世間に属している人々である。
 わたしは30代半ばに転職して、業種も規模も異なる会社に移ったが、会社を変わって2、3年ははかばかしく仕事ができなかった。重要情報はなかなか教えてくれないし、こちらの提案や説得は簡単には受けつけてくれない。
 小なりといえども前の会社では、管理職も経験し、それなりに仕事をしてきたつもりだったのに、どうも勝手が違うとあせりを感じたものだ。後になって考えてみると、無理もない。人間関係ができていないから、「どこの馬の骨か分からない人にうっかり情報を与えて、他に洩らしはすまいか。この男はどこまで本気か、今は調子のいいことを言っているが、後で掌(たなごころ)を返すのではないか」と疑ってかかられたのだ。要するに、わたしは同じ世間に入っていない人間だったのである。
 同じ世間に入れてもらうには、公私にわたる付き合いを重ねて、まわりから信頼されなければならない。会社では、職場に新人が加わるとき、前から居る社員と仲良くするための儀式が行われる。新人歓迎会から始まって、さまざまな機会に同僚、上司と飲みかつ歌うことが繰り返される。その儀式によって、新たに参加した者は、集団の人々と気脈を通じ、集団に同化して身内になる。
 日常生活で、身内と他人に対する態度の違いを毎日のように観察できるのは、電車の中だろう。いくつか例をあげてみよう。二人のサラリーマン風の中年男性がつり革につかまって話しているとき、前の席が一つ空いた。二人はお互いに「どうぞ」「いや、どうぞ」と譲り合ってなかなか座らない。「座らないのなら」と横の人が座ると、二人は横取りされたかのように座った人をにらみつけた。
 わたしが50代初めのころ、休日に電車に乗ったら知り合いが座席に座っていた。「やあ、しばらく」と声をかけたら、わたしより若いその人は「ほんとに、ひさしぶりですね」などと応じながら、さっと立って席をゆずってくれた。一応型どおり遠慮したあと、ありがたく座らせてもらったが、もしこれが他人だったら、よほどよぼよぼに見える老人でもない限り、知り合いは席をゆずらなかったろう。
 電車の中の化粧がよく話題になる。若い女性がかたわらに人無きがごとく化粧をしているのはみっともない、と年配女性が新聞に投書している。その若い女性にとって車内の人々は他人だから、少々恥ずかしいところを見られても気にならないのである。もしそこに彼女の知り合いがいたら化粧はしないだろう。
 先日テレビが、休日に多摩川の河川敷でバーベキューをした人々が後始末をせずに引きあげ
て、ごみが散らかっている様子を報じていた。わが家の近くの小公園でもバーベキューをする人がいるが、ごみはきちんと片付けられている。
 近隣の公園では世間の目が光っているから、うかつなことはできない。つまり近隣は身内と意識されているのである。これが家から遠い河原なら完全に外の世界になり、同一人物が旅の恥はかきすてとばかり勝手なことをする。わが国ではもっと公共の精神を育てる必要がある。
 これと同様のことが、日ごろわれわれが集団運営をするとき重要視する和についても起き
る。職場でも趣味のグループでも集団の中では和が最も大切で、人々は集団内の人間関係が良好で成員の間に意見の対立や争いがなく、なごやかな雰囲気が保たれている状態を好む。
 和の尊重が集団の組織の隅々にまで浸透すると、ときには組織本来の目的よりも和が優先され、和そのものが目的性を帯びてくる。集団内で意見の対立が生まれた場合には、両者の言い分をよく聞いて、それぞれの長短を比較するよりは、とりあえず対立点を棚上げし、両者が自己主張をすすんで引っ込め、仲直りするような措置がとられる。和は美風ではあるが、対立点をぼかし、うやむやのうちに事案が処理されるという欠点を持っている。
 それはともかく、和の精神はどこまでも無制限に広がっていかない。人々が和を保とうと気を使うのは、自分が属している身内の集団つまり世間の範囲にとどまる。身内集団の和に腐心する人が、集団の外にいる者に対しては無関心、冷淡、排他的で、ときには闘争心をむきだしにする。

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