ひろじいのエッセイ(葦のずいから世の中を覗く)

社会と個人の関係という視点から、自分流に世の中を見ると、どう見えるか。それをエッセイ風にまとめ、ときには提案します。

世間と個人Ⅰ章 世間とはどういうものか3

2016年04月01日 | エッセイ-世間
世間とはどういうものか3

流行と世間
 ヨーロッパやアメリカの街角を歩くと、街を行く人々の服装がまちまちで、今何がはやっているのか分かりにくい。それに比べると日本では、何かはやりだすと、みないっせいに追いかけるから、一目瞭然服装の流行が分かる。
 流行は服装に限らない。家の建て方(間取り、壁材、瓦の色など)から始まって、車や家電製品などの耐久消費財、日常使う生活用品にいたるまで、形や機能に流行がある。一時テレビで放映された「きれいな景色」には、一面の菜の花、一面の芝桜、一面のラベンダーというように、見渡す限り同じ花が咲きそろっている風景が多かったが、これも一種の流行である。
 流行とはおよそ無縁と思われる学者の世界にも流行があって、好んで取り上げられる研究テーマは、時代状況、つまり周囲の学者の関心対象がどこに集中するかによってどんどん変わる。
 わが国で流行現象が激しい理由が二つ考えられる。一つはわれわれが新しいものを好む傾向を強く持っていることである。
 あるとき年配女性と話をしていたら、「(あなたって)意外に古いのね」と言われて驚いたことがある。実は、そのときの話題が何であったか憶えていないのだが、教養も見識もあって内心敬意を抱いていた人に、「古い」という言葉で切り捨てられたことを、こちらも意外に感じて、その部分だけを憶えている。
 われわれの社会には、何でも新しいことはいいことであり、古いことは時代遅れでよくないことだという価値観が普遍的に存在する。「古い」という言葉は、相手をひるませるのに十分な力をもっている。
 この価値観自体は、新しく出現したものではなく、古くからあるものだ。周知のとおり、日本はペリーの黒船以来欧米の文明を海綿のように吸収し、日本社会の隅々にまで急速に近代化が及んだが、これも日本の民衆が新しもの好きだったことが大いに寄与している。
 人々は、世の中に新しいもの、新しいことが出現すると、それが人間の精神や社会関係にどのような影響を与えるかを吟味することもなく、新しいがゆえに受け入れてしまう。いったん、新しいことが時代の風潮になると、人々は、その波に乗り遅れまいと、いっせいに新しいことを目がけて走り出す。新しいことは燎原の火のように、たちまち全国規模の広がりを見せるのである。
 だが、「新しいことは、いいことだ」という価値観に支配されることは、「善い、悪い」「正しい、正しくない」を自分自身の基準で判断することを放棄したようなものだ。新しくてもよくないものがあり、古くてもよいものがある、という是々非々の姿勢はできるだけ維持したいものだ。
 流行現象が顕著になるもう一つの理由は、世間の動向から外れたくないという人々の心理である。どんな場合でも人並み基準、世間基準は尊重され、それに従わないと、周囲から白い目で見られるのではないか、馬鹿にされるのではないかという一種の不安心理が常に働いている。特に若い人は他人に野暮とか今時はやらないとか思われるのを避けようとする傾向が強い。年配者のように、これまで自分流のやり方で生活してきて、大して問題もなかったという経験が無いから、よけい世間基準から外れることを恐れるのであろう。
 こんな具合だから、みなが今何をしているか、何を楽しんでいるか、中身にかかわらず、それをすることで楽しいように思ってしまう。今こんな花が咲いてきれいな公園があるとか、どこのラーメン店がうまいとか、そういう情報がメディアから流れると、たちまち付近はたくさんの人が押し寄せて交通渋滞が起きるのも、同じ心理によっている。

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