ひろじいのエッセイ(葦のずいから世の中を覗く)

社会と個人の関係という視点から、自分流に世の中を見ると、どう見えるか。それをエッセイ風にまとめ、ときには提案します。

なぜ民主主義が根づかないか

2010年11月25日 | エッセイ
なぜ民主主義が根づかないか
 明治元年に5か条の誓文が公布され、その第1条に「広く会議を興し万機公論に決すべし」とうたわれてからほぼ140年、現憲法の制定から60年たつのに、日本の民主政治はなかなか成熟しない。
 日本に民主主義が根づかないのは、日本の政治は実質的に職業官僚に牛耳られており、立法府に比べて行政府の役割が肥大化しているからだ、という見解がある。もちろん、それもある。しかし、ちがう角度から見ると、もっと別の、しかも根本的な理由が見えてくるように思われる。それは、もともと日本には議論をするという文化風土がないということである。
 今日では、国会や地方自治体の議会のような政治の場に限らず、企業の株主総会、団体の理事会、商店会、町内会などの寄り合いでも、民主的に人々の合議によって公式の意思決定がなされる。ところがその過程を見ると、多くの場合は事前の根回しがなされていて、合議の当日はあらかじめ決めておいた筋書きに従って大した波乱もなく議事が進行し、結論に至るということが多い。
 事前の根回しは日本の専売特許ではないとはいうものの、どうもわが国では会議の場で甲論乙駁の議論をすることを避け、前もって書いておいた筋書き通りに事を運ぼうとする傾向が強い。
 われわれは、議論することをあまり好まない。たとえば、会社の会議などでも、口角泡を飛ばして議論するようなことは極力避ける。私は日本労務学会という学会に所属していたことがあるが、そういう研究者の集まる学会ですら、まともな議論は成り立っていなかった。
 こうなるのは、日本の社会が対立回避社会だからではなかろうか。何事によらず、われわれは常に対立を避けるように、避けるようにと行動している。激しく言い争うと、あとあとまでしこりを残すので、できるだけ対立を回避する。言い争いがやまないと、「まあまあ」と仲裁が入って、意見の対立は一時棚上げしてその場の和が保たれる。
 会社の会議などで、ある案件について反対論が出ると、反対された方は、まるで自分の人格を否定されたかのように受け止め、反対者に対して、顔をつぶされたと遺恨をおぼえたりする。反対論が正論であれば、なおのことである。会議で議論した当事者は、以後しばらくお互いに口をきかないようなこともある。
 日本人は繊細で傷つきやすい。そういうわれわれが人間関係を良好に保つために、古来発達させてきた知恵が対立の回避ないし和ではなかろうか。
 欧米人は、概して対立を回避しない。それどころか、むしろ対立をよしとする気風さえある。欧米には、個人はそれぞれ利害と意見が異なり、潜在的に対立しているという人間観がある。彼らにとって意見の対立は自然なことで、むしろ対立のない方が不自然な状態である。
 欧米人は意見が違えば、お互いに譲らず延々と議論を続け、しばしばけんか腰で激しくやりあう。われわれが見ていると、あれでしこりを残さないのだろうか、と気になるほどだが、当人同士は終わればケロリとしている。そして、双方が対立を避けなかったおかげで議論が深まり、対立の中からよりよい意見が創造され、公正な結論に到達できたと考えるのである。
 この違いはどちらが優れているか、というような問題ではない。だが、日本の社会には対立ないし議論を避ける文化風土があるために、欧米的な民主主義をそのままの形で移植しようとしてもうまく根づかない、と私は考える。少なくとも、このことを念頭において政治の諸制度を設計すべきであろう。
 7月22日のこの欄(雑種文化と雑居文化)で述べたように、われわれは日本固有の文化と外来の文化を融合させることが巧みである。それにもかかわらず、政治の世界に限って、いつまでも欧米を範とするばかりで文化融合が進まない。経済界が日本型経営を作り上げたように、日本の文化風土にあったやり方、つまり日本的民主主義を追求すべきではないだろうか。

茶の本、日々是好日

2010年11月18日 | 読書日記
茶の本 岡倉天心 講談社学術文庫
 「茶の本」という題から想像して、茶道について西欧人向けに解説しているのかと思った。そういう部分もあるにはあるが、この本全体は茶の解説ではなく、茶道に表れた日本人の美意識の奥深さを説く一種の日本文化論である。英文で書かれたこの本が発行されたのが1906(明治39)年。文明開化真っ盛りの時代に、日本の文化価値を主張した天心の見識には謙虚に耳を傾けるべきであろう。
 茶道が建築や庭園、工芸、陶器、生花など今日に伝わる日本文化の母胎になったことがよくわかる。新渡戸稲造の「武士道」が日本人の倫理意識述べたものとすれば、本書は日本人の美意識の源泉を描いたものといえる。その意味で、両書は相揃って明治期日本の文化を西欧に伝える「半双の二曲物屏風」である。

日日是好日 森下典子著 新潮文庫
 「茶の本」を読んで、もう少し茶のことを知りたくなって、この本を読んでみた。著者は25年にわたる自らのいわば個人的な茶道体験をつづっているが、読後感がきわめてさわやかで、読み手もお茶を体験したような気分になる。
 著者は母親に勧められてお茶を習い始める。初めは作法がやかましく、決まり事にがんじがらめにされていて、不自由極まりないと感じていたお茶だが、稽古を積み重ねていくうちに、あるとき突然何かを「感じる」瞬間があって、奥深さが少しずつ見えてくる。「何か」は湯の沸く音、生けられた一輪の花、掛け軸、茶器、四季の移ろいなど、いろいろあるが、その順番は人によって異なる。そして、「感じた」瞬間から、世界が少しずつ変わっていき、一つ一つ感覚が研ぎ澄まされていく。
 お茶の先生は、忍耐強く決まり事だけを教え続け、生徒が自分で気づくまで待つ。茶の気づきは言葉で教えることはできない。その心は、長い年月を積み重ねることによってのみ身につけることができるもののようだ。
 茶道は、何百年の間に形づくられ、受け継がれてきた「型」である。型を守ることによって感覚が磨かれ、さまざまなことに気づき、ひいては自分の人生を見通す人生観を得る。型を持った文化の力をあらためて思い知らされたような気がする。
 著者は「学校も、お茶も目指しているのは人の成長だ。けれど、一つ、大きく違う。それは、学校はいつも『他人』と比べ、お茶は『きのうまでの自分』と比べることだ」と言う。
 しかしながら、お茶に対してちょっと疑問を感じるところもある。お茶の世界で大切にされる「自然」は、人の手が加わった自然で、手つかずの自然ではない。「わび」は演出されている。桂離宮や修学院離宮の建築や庭園に、西欧の建築とは違った「人工」性を感じるのと同じことである。この私の感覚にお茶の先生はどう答えてくれるだろうか。

日本語散歩-その2(「する」と「なる」)

2010年11月11日 | エッセイ(日本語)
日本語散歩-その2(「する」と「なる」)
 電車に乗っていると、車内放送が「この電車はあと2分で発車となります」と言う。「発車します」とどうして言わないのだろうか。だが、注意して聞くとこの言い方はそこいら中にあふれている。駅では「○○駅は通過となります。ご注意ください」と言う。先日長距離バスに乗ったら運転手が「このバスは間もなく○○に到着となります」と放送していた。
 そば屋では注文の品を運んできた店員が「ざるそばになります」と言うし、商店では1品買い物をしても、支払いのとき「1500円になります」と言われる。
 若い二人からきた結婚案内に「このたび、私たちは結婚することになりました」とあった。会社の経営者は「売上が2倍になった」と言い、「2倍にした」とは言わない。
 「天気がよくなった」のとは違って、多かれ少なかれそこに話し手の意志が働いているはずなのに、自分の意志は表に出さず、自然の成り行きでそうなったかのように表現するのが、日本語表現の一つの特徴である。
 8月12日のこのブログ記事(自分の意志を隠す)で、われわれは人にある行動を求めるとき、それが自分の要求であっても自分の意志を伏せて、別の人の意志が働いているかのように見せかける、と書いた。この自分の意志を明確に出さないという心理が、言語表現にも表れて、とかく「ものごとが自然にそうなる」ような言い方を好んでするのであろう。
 これに対して、英語では、「誰かがそうする」と動作の主体をはっきりさせた表現が好まれる。新幹線の英語の車内放送で到着駅を知らせるとき、「We will soon make a brief stop at Kyoto.」と言っていた。「誰が…する」という表現になっていて、動作の主体は明確である。
 自分の意志を前面に出さないのは、一種の婉曲話法である。われわれは、「それは私の考えです、私が要求しています」とはっきり言うと、いかにも生意気というか不遜に響き、相手の心証を害してしまうのではないか、と心配になるらしい。そこで、自分の意志を隠す配慮が知らず知らずのうちに働く。これは些細なことでひびがはいりやすい人間関係を維持しようとする知恵と見ることができる。

一丸となるべきか

2010年11月04日 | エッセイー個人
一丸となるべきか
 われわれは、組織の成員が一つの達成すべき目標に向かって、異論をさしはさまず一致して努力することを美徳と考えている。たとえば、高校野球の全国大会で優勝したチームの監督が「選手全員が一丸となって試合に臨んだことが勝因です」といい、惜しくも決勝で敗れたチームの監督も「負けたけれど、最後まで一体となったプレーが見られ、仲間意識も高まって本当に良かった。」などと言う。
 チームで試合をするスポーツなら当然の考え方だ、とわれわれは思うが、これが外国人のチームになると、必ずしも当たり前ではない。フランスで野球指導をした元阪神監督の吉田氏は、犠打を理解させるのに苦労したという。
 一般的に言って、西洋人は組織の目標のために自分の意志を殺し、組織の中に自分が埋没してしまうことを好まない。チームプレー、集団行動であっても、組織の成果に対する自己の貢献度をはっきりさせたがる。フランス人は犠打よりも自分が安打を打ってチームに貢献したい、ひいては自己顕示したいのだ。
 スポーツの試合なら、どんなチーム運営をしようと、天下の大勢に影響はない。しかし、これが仕事をする集団となると、一丸となる組織運営は看過できない問題をはらんでくる。
 たとえば、ひところさかんに報道された医療過誤問題について言えば、医師個人の過ちであることがはっきりしている事案でも、病院長は記者会見で「再発防止にむけて病院一丸となって取り組みます」というようなことを言う。
 病院長は、どんな風に取り組むつもりなのだろうか。製造業の会社では、作業者が重大事故につながる間違いをすると、警報が鳴ったり、機械装置が停止したりするシステムになっているところが多い。これをフールプルーフとかポカよけという。病院内にポカよけの網の目を張り巡らすのだろうか。
 多分そうではあるまい。手術に当たる医師だけでなく、周囲の医療補助者もお互いに注意しあい、チェックを強化するというような、金のかからないシステム作りを考えているのではないか。たしかに、そういうシステムによって、単純な間違いが防げるという面がある。しかし、本来これは医師個人が気をつけることである。もし周囲のチェックによって、誤りを減らせたとすれば、やがて本人は自分の努力よりも、周囲に頼るようになる。
 そもそも日本では、本人がうっかりしていることを周りの人が注意して行動を正してやるということが多すぎる。たとえば、雨の日は電車の中で「傘の忘れ物が多くなっています」と車内放送がある。小学校高学年になっても、学校へ持っていくものを親が点検してやる。学級をいくつかの班に分け、忘れ物をしないようにお互いに注意しあう、という学級運営をしている小学校もたくさんある。これでは、個人はいつまでたっても自立しない。自立心が育たない風潮を、一丸となる組織運営が助長している。
 一丸組織の問題点がもう一つある。一丸となった集団は異質の存在を認めず、異論を唱えた者を袋叩きにする。だが、どこを切っても同じ発想が出る金太郎飴集団は社会情勢や経営環境の変化に弱く、環境が変わったとき、それに適応できず全員討ち死にになりやすい。こういうときに、異質の人を少数かかえていると、新しい環境への対応策が出やすい。それに一方で個性尊重といいながら、異質の存在を認めないのでは、個性は育たない。
 一丸となる組織運営はほどほどにすべきである。