なぜ民主主義が根づかないか
明治元年に5か条の誓文が公布され、その第1条に「広く会議を興し万機公論に決すべし」とうたわれてからほぼ140年、現憲法の制定から60年たつのに、日本の民主政治はなかなか成熟しない。
日本に民主主義が根づかないのは、日本の政治は実質的に職業官僚に牛耳られており、立法府に比べて行政府の役割が肥大化しているからだ、という見解がある。もちろん、それもある。しかし、ちがう角度から見ると、もっと別の、しかも根本的な理由が見えてくるように思われる。それは、もともと日本には議論をするという文化風土がないということである。
今日では、国会や地方自治体の議会のような政治の場に限らず、企業の株主総会、団体の理事会、商店会、町内会などの寄り合いでも、民主的に人々の合議によって公式の意思決定がなされる。ところがその過程を見ると、多くの場合は事前の根回しがなされていて、合議の当日はあらかじめ決めておいた筋書きに従って大した波乱もなく議事が進行し、結論に至るということが多い。
事前の根回しは日本の専売特許ではないとはいうものの、どうもわが国では会議の場で甲論乙駁の議論をすることを避け、前もって書いておいた筋書き通りに事を運ぼうとする傾向が強い。
われわれは、議論することをあまり好まない。たとえば、会社の会議などでも、口角泡を飛ばして議論するようなことは極力避ける。私は日本労務学会という学会に所属していたことがあるが、そういう研究者の集まる学会ですら、まともな議論は成り立っていなかった。
こうなるのは、日本の社会が対立回避社会だからではなかろうか。何事によらず、われわれは常に対立を避けるように、避けるようにと行動している。激しく言い争うと、あとあとまでしこりを残すので、できるだけ対立を回避する。言い争いがやまないと、「まあまあ」と仲裁が入って、意見の対立は一時棚上げしてその場の和が保たれる。
会社の会議などで、ある案件について反対論が出ると、反対された方は、まるで自分の人格を否定されたかのように受け止め、反対者に対して、顔をつぶされたと遺恨をおぼえたりする。反対論が正論であれば、なおのことである。会議で議論した当事者は、以後しばらくお互いに口をきかないようなこともある。
日本人は繊細で傷つきやすい。そういうわれわれが人間関係を良好に保つために、古来発達させてきた知恵が対立の回避ないし和ではなかろうか。
欧米人は、概して対立を回避しない。それどころか、むしろ対立をよしとする気風さえある。欧米には、個人はそれぞれ利害と意見が異なり、潜在的に対立しているという人間観がある。彼らにとって意見の対立は自然なことで、むしろ対立のない方が不自然な状態である。
欧米人は意見が違えば、お互いに譲らず延々と議論を続け、しばしばけんか腰で激しくやりあう。われわれが見ていると、あれでしこりを残さないのだろうか、と気になるほどだが、当人同士は終わればケロリとしている。そして、双方が対立を避けなかったおかげで議論が深まり、対立の中からよりよい意見が創造され、公正な結論に到達できたと考えるのである。
この違いはどちらが優れているか、というような問題ではない。だが、日本の社会には対立ないし議論を避ける文化風土があるために、欧米的な民主主義をそのままの形で移植しようとしてもうまく根づかない、と私は考える。少なくとも、このことを念頭において政治の諸制度を設計すべきであろう。
7月22日のこの欄(雑種文化と雑居文化)で述べたように、われわれは日本固有の文化と外来の文化を融合させることが巧みである。それにもかかわらず、政治の世界に限って、いつまでも欧米を範とするばかりで文化融合が進まない。経済界が日本型経営を作り上げたように、日本の文化風土にあったやり方、つまり日本的民主主義を追求すべきではないだろうか。
明治元年に5か条の誓文が公布され、その第1条に「広く会議を興し万機公論に決すべし」とうたわれてからほぼ140年、現憲法の制定から60年たつのに、日本の民主政治はなかなか成熟しない。
日本に民主主義が根づかないのは、日本の政治は実質的に職業官僚に牛耳られており、立法府に比べて行政府の役割が肥大化しているからだ、という見解がある。もちろん、それもある。しかし、ちがう角度から見ると、もっと別の、しかも根本的な理由が見えてくるように思われる。それは、もともと日本には議論をするという文化風土がないということである。
今日では、国会や地方自治体の議会のような政治の場に限らず、企業の株主総会、団体の理事会、商店会、町内会などの寄り合いでも、民主的に人々の合議によって公式の意思決定がなされる。ところがその過程を見ると、多くの場合は事前の根回しがなされていて、合議の当日はあらかじめ決めておいた筋書きに従って大した波乱もなく議事が進行し、結論に至るということが多い。
事前の根回しは日本の専売特許ではないとはいうものの、どうもわが国では会議の場で甲論乙駁の議論をすることを避け、前もって書いておいた筋書き通りに事を運ぼうとする傾向が強い。
われわれは、議論することをあまり好まない。たとえば、会社の会議などでも、口角泡を飛ばして議論するようなことは極力避ける。私は日本労務学会という学会に所属していたことがあるが、そういう研究者の集まる学会ですら、まともな議論は成り立っていなかった。
こうなるのは、日本の社会が対立回避社会だからではなかろうか。何事によらず、われわれは常に対立を避けるように、避けるようにと行動している。激しく言い争うと、あとあとまでしこりを残すので、できるだけ対立を回避する。言い争いがやまないと、「まあまあ」と仲裁が入って、意見の対立は一時棚上げしてその場の和が保たれる。
会社の会議などで、ある案件について反対論が出ると、反対された方は、まるで自分の人格を否定されたかのように受け止め、反対者に対して、顔をつぶされたと遺恨をおぼえたりする。反対論が正論であれば、なおのことである。会議で議論した当事者は、以後しばらくお互いに口をきかないようなこともある。
日本人は繊細で傷つきやすい。そういうわれわれが人間関係を良好に保つために、古来発達させてきた知恵が対立の回避ないし和ではなかろうか。
欧米人は、概して対立を回避しない。それどころか、むしろ対立をよしとする気風さえある。欧米には、個人はそれぞれ利害と意見が異なり、潜在的に対立しているという人間観がある。彼らにとって意見の対立は自然なことで、むしろ対立のない方が不自然な状態である。
欧米人は意見が違えば、お互いに譲らず延々と議論を続け、しばしばけんか腰で激しくやりあう。われわれが見ていると、あれでしこりを残さないのだろうか、と気になるほどだが、当人同士は終わればケロリとしている。そして、双方が対立を避けなかったおかげで議論が深まり、対立の中からよりよい意見が創造され、公正な結論に到達できたと考えるのである。
この違いはどちらが優れているか、というような問題ではない。だが、日本の社会には対立ないし議論を避ける文化風土があるために、欧米的な民主主義をそのままの形で移植しようとしてもうまく根づかない、と私は考える。少なくとも、このことを念頭において政治の諸制度を設計すべきであろう。
7月22日のこの欄(雑種文化と雑居文化)で述べたように、われわれは日本固有の文化と外来の文化を融合させることが巧みである。それにもかかわらず、政治の世界に限って、いつまでも欧米を範とするばかりで文化融合が進まない。経済界が日本型経営を作り上げたように、日本の文化風土にあったやり方、つまり日本的民主主義を追求すべきではないだろうか。