ひろじいのエッセイ(葦のずいから世の中を覗く)

社会と個人の関係という視点から、自分流に世の中を見ると、どう見えるか。それをエッセイ風にまとめ、ときには提案します。

恥と恥じらい

2013年10月21日 | エッセイ
恥と恥じらい
 アメリカのコロラド州立大学で日本語教育の手伝いをした時に、日本語上級クラスでこんな経験をした。テキストに日本の大学生の会話が出てきて、そのなかに次のようなやりとりがある。

「さっきの君のレポート発表、なかなかよかったね。よく調べているし、まとめ方もい
い。話し方がうまいのにも感心したよ」
「そんなにほめられると、てれちゃうなあ」

 ところが、この「てれる」という心理がアメリカ人の学生にはよく理解できない。日本語の教授が苦労して説明して、どうにか分かったようだが、なんとなくまだ不審顔である。
 どうしてそうなるかといえば、一般にアメリカ人は、他人にほめられたら、すなおに「ありがとう」と言うことが多く、日本人のように謙遜して「いや、私なんかまだまだですよ」などと言ったり、照れ隠しに笑ったりすることはないからであろう。
 これも国民性ないし文化の違いといえる。もちろん、アメリカ人にもみんなの前で賞賛されてちょっと当惑した(embarrassed) とか、子どもや若い女性が人前に出ることを恥ずかしがる(be shy)とかこれと似た感情はあるけれども、ここでいう「てれる」とは微妙に差異がある。
 私もこれと似たような経験をドイツでしたことがある。ミュンヘン滞在中に通っていたドイツ語学校の初級クラスで学期終了時のパーティをすることになり、先生が私にバイオリンを弾けという。みんなの前で演奏するほどの腕前ではないから恥ずかしいと言ったが、「別に悪いことをするわけじゃなし、なんで恥ずかしいの」と理解されず、結局弾かされてしまった。
 話は少し飛ぶけれども、2012年のロンドン・オリンピックのバドミントン女子ダブルスで銀メダルを取った垣岩令佳・藤井瑞希のペアにインタービューした記事が新聞にのった。垣岩は温泉好きでよく行くらしいが、「温泉でもよく声をかけられます。めっちゃ恥ずかしいですけど」と言っていた(2012・9・18朝日夕刊)
 声をかける人には賞賛の気持ちがあるはずで、それを感じた当人が「恥ずかしい」というのも、日本人独特だ。
 われわれは「恥ずかしい」という言葉を倫理・道徳的に不名誉なことをしたときにも使うし、何か面はゆいと感じたときにも使う。英語のshame(恥)は道徳にもとる行為についてだけ使われる。欧米人の恥とわれわれの恥は、意味内容が少し食い違っているようだ。
 この問題を分析しようとすると意外に根が深く、一筋縄ではいかない。ルース・べネディクトは欧米の文化は罪の文化、日本の文化は恥の文化と言ったけれども、そのあたりと関係があるように思われる。しかし、まだ考察が十分でないので、もう少し時間をかけて考えをまとめ、その2として発表したい。

なぜ日本は没落するか

2013年10月11日 | 読書日記
なぜ日本は没落するか 森嶋通夫 岩波書店
 1999年に書かれた本である。ある人のブログを読んでいたら、「14年前に書かれているが、昨日今日書かれた本だと言われても信じてしまいそうな内容である」として紹介されていたので、読んでみた。
 いろいろ問題点のある本だが、それは後にまわして、まず著者の主張を要約する。
「日本はいま危険な状態にある。このまま放置すれば2050年ころ没落するであろう。なぜそうなるのか。
 マルクスは経済が社会の土台であると考えたが、著者は人間が土台だと考える。経済は人間という土台の上に建てられた上部構造である。それ故、将来の社会を予測する場合、まず土台の人間が予想時点までの間にどのように量的、質的に変化するかを考え、予想時点での人口を土台としてどのような上部構造―経済を含む―が構築できるかを考えるべきである。
 1999年当時の13歳から18歳の人を見れば、2050年ころの政財界のトップがどうなっているかがわかり、日本の全体像が見えるのだが、見通しはまことに悲観的である。著者は、平等主義にむしばまれた日本の戦後教育の問題点を厳しく指摘する。
 日本は、底辺からよりもむしろ頂点から崩れていく危険が大きい。そういう事態は、現在の学生や子供たちが社会のトップになった21世紀中頃にやってくるであろう。
 こうした教育問題へのなみなみならぬ関心を示すとともに、過去の高度経済成長の原動力になった日本の産業体制、金融体制についても批判の眼を向けているが、後述のように必ずしも正鵠を得ていない。
 また著者は、今世界の中での日本の政治的・経済的地位の「没落」は現実のものとなりつつあるが、それを救うただ一つの方法があると主張する。その救済案は、中国、南北朝鮮、台湾と「東北アジア共同体」を作って、これら諸国の産業開発に日本の資本と技術を提供し、日本の雇用を増やすことである。そのためには、中国・韓国などとの歴史の共同理解がまず必要である。日本人はいまだに中国や韓国を蔑視し、嫌悪している。
 アメリカはアジアで現在パックス・アメリカーナを推進していく上で日本をとるか中国をとるかの岐路に立っている(1999年当時)。過去にもアメリカは何回かそういう選択をせまられ、太平洋戦争直前には中国を選んだことを忘れてはならない。
 アメリカが、将来中国を選ぶようになるならば、日米関係は一挙に悪化し、日本はアジアで孤立するであろう。こういう事態が生じれば、それは明らかに激しい逆風である。いかに巧妙に船を操っても、船は風下に流されてしまう。それは明白な日本の没落を引き起こす強風である。
 日本という民族国家は、やがて力を失い、広域共同体の中に吸収されるだろう」。
 以上が私なりの要約だが、さまざまな意見が出てくる中で、「教育の荒廃」、「東北アジア共同体」、「日本の将来像」の考え方には大筋で賛成できるけれども、大いに異論を唱えたい部分もたくさんある。
 異論をいちいち書いていては、長くなるので要点をかいつまんで書く。
 第3章精神の荒廃 1996年のニューズウイークの記事を根拠に、日本は性的なモラルが他国より桁はずれに退廃しているとみてよい、と言っているが、日本に居ないで1冊の週刊誌の記事を見てそういう判断をしたとすれば、全く学者らしくない。
 また、コンピュータ化によって、管理職を含めて労働者の仕事は単純化されてしまい、何の判断も必要としなくなると述べているが、企業の実態を知らなさ過ぎる。たしかに、単純労働は増えているけれども、すべてがそうなったわけではない。今問題にすべきは、増えた単純労働を若者が嫌って、外国人が肩代わりするという事態なのだ。
 第4章金融の荒廃 日本型雇用システムは、西欧型の典型からかなり逸脱しているから、これを改修ないし破壊しなければならないと、日本企業の内面を知らない学者と同じことを言っている。
 日本型雇用は日本の集団主義文化に根ざしたもので、高度成長期には賞賛されていた。今日本経済の足かせになりつつあるとしても、簡単には変えられないから、それをひきずりつつ、どうすべきかを考えなければならないのだ。
 企業がどのように意志決定し、行動するかについても無知で、経済学者の経営知らずというべきか。
 第5章産業の荒廃 金融のことはよく分からないが、年功序列、終身雇用については、日本企業の実態をよくつかんでおらず、事象を表面的にとらえて批判している。日本的経営は日本の文化に根ざしたもので、これが大量生産方式を根底に置く日本企業(製造業)の屋台骨であった。イギリスとは文化が違う(個人主義と集団主義)ので、単純な比較はできない。
 ただし、これは製造業に適した方式であるから、ITを含む3次産業で食っていかなければならない、これからの日本には適応しないだろう。過去の日本的経営を捨てきれず、新しい労務管理方式を模索しない企業は没落をまぬかれないと思われる。だが、著者のように過去の日本的経営をイギリスと比べて批判するのは見当外れである。
 第8章救済案への障害 ここでも物議を醸すことを書いている。「新しい歴史教科書を作る会」は間違っているという。日本の教育が左翼史観、自虐史観に侵されているのを見かねてこの会は生まれた。その経緯を見ずにバッサリと切り捨てることこそ間違いである。
 東北アジア共同体の構想は11年後の鳩山首相と一脈相通ずるものがあって、一考に値すると思われるが、日本の第2次大戦への参戦について、少ないページ数で一方的に批判するのには賛成できない。
 これを論ずるには優に1冊の本が必要で、ろくに史料も調えずに主観的な批判をするのでは、床屋の素人談義と選ぶところがない。
 だいたい、この人は専門外の領域で見当外れの議論を展開しすぎる。随筆ならそれでもいいが、こうした論文調の本にまで持ち込まれると、データを示せ、根拠は何かと反論したくなる。
 それに肝心なことは少ししか書かず、あとは寄り道、余談の連続というのも感心しない。

サッカーは嫌い

2013年10月01日 | エッセイ
サッカーは嫌い
 テレビで時々スポーツ中継を見る。私が見るのは少し偏っていて、野球(特に高校野球)バレー、テニスなど。サッカー、ラグビー、アメリカン・フットボールなどは決して見ない。
 なぜかというと、サッカーなどの球技は相手の邪魔をすることで成りたっているようなものだからである。球を蹴ろうと身構えると、相手方の選手が横合いからちょろちょろ出てきて、それを横取りしようとする。そうはさせじと、邪魔をかわしながら、ゴールに向かって進む。ときには、まんまと横取りされて、相手のゴールに貢献してしまうこともある。だから、各選手ともいかに相手の邪魔をするか、邪魔をかわすかという技量を磨いている。そこがおもしろいのだろうが、私は邪魔を公認するようなスポーツは好まない。
 それより、たとえば野球のように、投手が「おれの球を打ってみろとばかり力一杯投げ、打者がなにくそと自分の打撃技術を駆使して打つという勝負のほうがいい。バレーもテニスも球が相手コートに行ったら、どんな球が返ってくるか予測はできても、邪魔はできない。
 それに、私が好まないスポーツでは、謀略と言っていいほどの戦術が駆使される。進藤栄一氏がアメリカ留学中にアメフトの練習試合をしたときの経験を書いているが、読むとそれがよくわかる。
「『ボールは左に投げるふりをするから、お前は右に回り込め。そしてボールを取ってすぐ、敵の裏をかいて今度は左端のジョンに飛ばせ』
 試合開始前、綿密な作戦会議をおこなう。ハーフタイムごとに戦略を練り直す。まさに戦略と謀略ゲームの極致である」(「アジア力の世紀」岩波新書 70ページ)。
 いかにもアメリカ人が好みそうな試合運びであるが、ヨーロッパ人が好むサッカー、ラグビーなども似たり寄ったりである。進藤氏は、まわし1本以外防具をつけず、土俵に塩をまいて、不正をせずに技を競い合いますと観客の前で誓う日本の相撲を、アメフトに対置している。
 実はアメフトや相撲の話はまくらで、このあと同書は日本の外交論になるのだが、ちょっと寄り道をしてそれを紹介しよう。
「日本の外交は、正義論が好きな国民性を反映して、外交ゲーム、とりわけ米国流外交につきものの、謀略に気づかず、リスクも真の脅威も見極めることをしない。正義はいつも我にありと考える。相手方の行動を善か悪かで判断し、同盟国の善意を信じ好意に期待する。逆に非同盟国は悪意に満ちていると疑わず、その崩壊を期待する。領土問題でも拉致問題でもそうだ」。
 スポーツから転じて外交や国民性の話になってしまったが、どうやらスポーツにも国民性が反映するようだ。サッカーなどを好きな人が見るのを非難するつもりはないけれども、少なくとも私は、そういう謀略に満ちたゲームを見たくない。