ひろじいのエッセイ(葦のずいから世の中を覗く)

社会と個人の関係という視点から、自分流に世の中を見ると、どう見えるか。それをエッセイ風にまとめ、ときには提案します。

いのちのかけら-少年少女の自立支援に生きる その3

2014年04月21日 | エッセイ
いのちのかけら-少年少女の自立支援に生きる その3

自己を育てられない子どもたち
 事例4 F子
 登校拒否、母親への暴力という理由で、中学2年の3学期末に入園したF子は、ポッチャリ太ったなんにもものを言わない子どもだった。名前を呼ばれても、「はい」の返事が声にならず口だけ動かしていた。
 F子は一人っ子で5年生のときに父が急病死し、小さな寿司店は焼き肉店に変えられて、母が続けた。父が亡くなったあとの母親は、以前にも増してF子を可愛がり、小学上級生になっているのに、洗髪から衣服の着脱までかかわった。
 中学に入ると学校を嫌い、先生がいやといえば、母は転居までしたけれども結局学校へは行けなかった。
 そのうち、F子の暴力が始まった。終日家に蟄居して、何か気に入らないことがあると、部屋中にマヨネーズ塗りたくりトマトケチャップをぶち撒いて、自分のうっぷんを晴らした。そのとき母は独りでせっせと片づけ拭いた。やがてF子の暴力はそれくらいでは済まなくなり、しまいにはアイロンで母を殴るなどして、青黒く腫れあがった顔で外出もはばかられるようになった。
 さすがの母も我慢しきれなくなって、児童相談所に相談し、学園に入ることになった。
 母はもちろん被害者の一人に違いないが、それ以上の被害者はF子自身である。F子は全く自己自身を育ててもらえず、自分の命を生きるのは自分であることを見失ってしまった。

 事例5 K子
 K子は、実の両親があるけれども、小学5年生頃から家出、盗み、セックスなどを経験し、中学1年夏からは本格的に家出、不純異性交遊へ発展し、性病まで持つに至った。年に似合わず大柄な子どもだった。
 学園に入所したが、すぐ逃げだした。K子は母に電話し「私を施設に入れるのなら、家には帰らない」と言い、母はその要求を呑んだ。
 辻は、こうした事態を予想し「家に帰った時は、すぐ引き取りに行く。親の心情もわかるけれど、子どもの言い分に負けず、学園への連れ戻しに協力して欲しい」と頼んでおいたのだが、母は「学園へ帰してもまた飛び出すでしょう。もしそのとき、途中でヤクザにでもつかまったら、責任を持ってくれますか」と取り合わなかった。
 K子は家に戻っても10日もしないうちにまた家出し、シンナー吸引の現場で警察に補導された、と連絡があった。

 事例6 A子
 A子の出生時、実父は服役中で、実母はこの子が6歳のとき家出した。慢性腎炎であったため、虚弱児童施設に預けられた。そこで仲間を誘って無断外出を繰りかえし、手に負えなくなって別の施設に移されたが、やはり問題行動を続けてまた別のところに移されるという具合に施設を転々としていた。
 そのうち中学3年の義務教育を終わり、押し出されるように美容院に就職した。しかし、翌年1月、職場での不和から無断外出、2月に化粧品店に再就職したものの、6月には不適応状態になり、自殺未遂事故を起こして病院に運ばれた。一応回復したが、施設に送られることを嫌って、一時保護された児童相談所で食事を拒否したり無断外出したりした。
 A子は、再就労までのオリエンテーションをするということで阿武山学園にやってきた。大人に対しては、ひがみとふてくされに終始し、何を尋ねても顔をそむけてものを言わず、何とも手のつけようのない不信感の固まりのような少女だった。
 辻夫妻は、もともと手に負えない子どもを育てることを業務にしているわけだが、あまりに無茶な言動が続くと「この子さえいなかったら」との思いがふとよぎったりすることもあった。しかし、辻夫妻は「A子がどんなに自己破壊的な言動を続けようと、自分たちにできる精一杯のことをしよう」と腹を据えた。
 A子の扱いに困惑し切っていたころ、退園生のM男が訪ねてきたので、A子の就職先の話をしたところ、M男が勤務している会社の社長の親類に食堂などのチェーン店を経営している人がいるとのことで、そこはどうかということになった。A子はこの話に乗り気で、学園を去るとき「施設の先生とは二度と会いたくない。もうここへは来ることもないでしょう」と言い、お粗末な別離をした。
 ところが、それから1ヶ月もたたないのに、人が違ったように生き生きした顔で訪ねてきて、辻夫妻をびっくりさせる。ひそかにM男に恋心を抱いていたようだ。A子はそれからM男と連れだって、しばしば来訪するようになった。
 抵抗の限りを尽くしたA子の面影はもうみじんもなく、翌年の秋には結婚もして、かわいい女の子にも恵まれた。結婚後心身共に安定した生活をいとなんでいるというのではないが、ただ人間不信をつのらせ自己喪失の極限にあった状態を抜け出したA子を見ると、人の生きる縁の不思議さを感ぜずにはいられない。

自己喪失とは何だろうか
 自己というのは、人が主観的に把握した自分自身である。幼児期には自己を意識することはないが、成長とともに自分の存在を意識し、やがて自尊心の獲得や自己開示(自己を他者に示す)などを経て自己を段階的に発展させる。自己を認知するということは、他者を認知することであり、そこから他者とよい人間関係を結ぶことができるようになっていく。自己は、まず幼少期に主に母親という他者との関係で形成されるといわれる。良い母子環境があれば自己イメージは現実と呼応したものになる。
 辻は次のように言う。「何らかの理由で、このような自己を自身のうちに育てられなかった子どもは、つらあて、あてこすり、居直り、自暴自棄、非行などに走りやすい。これらはすべて自己を持てぬ行為であり、言い方をかえれば甘えの変形である。どんなに表面的には家出、浮浪、迷惑行為を繰りかえしても、こどもたち一人一人は、その奥底に人生の悲哀をたたえている。
 子どもの問題は根が一つで、自己が自己を失わざるを得なくなったことといえる。なにびとも代替しえないこの自己にいつどのようにして目覚めさせるかが重要である」。
(以下次号)

いのちのかけら-少年少女の自立支援に生きる その2

2014年04月11日 | エッセイ
いのちのかけら-少年少女の自立支援に生きる その2

孤独な子
事例1 T子
 中学3年の6月に売春を理由に保護され入園してきたT子は、幼いころ父母が離婚し父親に育てられたため、母親の記憶がほとんどない子どもだった。それでも小学生の頃までは近くに住む叔母が面倒を見てくれたようだ。しかし、中学生になってからは、その叔母も去り、父も兄も帰宅の遅い毎日だった。
 T子は不定期にもらう1日1000円の小遣いで3度の食事を好きなようにしてきた。この子の盛り場徘徊が始まると、父と兄はただ暴力的に叱正するのみで、何一つ語らうことのない家庭だった。
 辻は預かっている子どもたちに対して日記指導をしているが、学園でようやく自分の心を取り戻したとき、次のように日記に書いている。
 「このごろお兄ちゃんやパパのことを思い出して涙があふれてしょうがない。悲しいことばかり思い出す。たとえばお母さんのこととか。誰もいない家でポツンとごはんを食べていてさみしくてしょうがなかった。子ども心にお母さんをにくんだ。お兄ちゃんやパパもにくかった。一緒に食べてほしい時にいなかった・・・」

事例2 K子
 K子は生後6ヶ月で祖母に預けられた。ものごころついたとき(2~3歳くらい)から父母にたたかれたり、ののしられたりしていた。食事は弟とは差別され、菓子もろくにもらえなかったので、つい人のものを取ってしまったこともある。つらいから保育所から帰らなかったら、ひもでくくられて家に閉じ込められた。
 世間体が悪いので、九州のおば(父の姉)のところに預けられたが、おばは自分の子だけかわいがって、K子にはつらくあたった。
 小学校へいく年齢になって、父母のもとへ戻ったが、父母は相変わらずK子をいびり、学校でもいじめられた。朝は3時か4時に起こされて仕事を手伝い、学校から帰っても、遊びたいのに仕事を手伝わされた。
 中学2年のとき、4、5日から10日と比較的長期間家出をするようになった。中学3年になる春休みに阿武山学園に入所した。かわいらしい顔立ちの子であったが、家出だけでなく、ときに粗暴な行為があって、児童相談所でも注目されていた。
 やがてK子は保護者に引き取られて退所したので、在所期間は長くなかったが、退所後この子が焼却場へ捨てていったノートが辻の目にとまり、次のような文章(詩)が見つかった。
 「マッチのように
 一瞬のうちに消えたい
 何もかも忘れてしまうのに
 こんなつらい思いをして
 生きていくなんてもういや
 うちのせいじゃないのに
 燃えてしまえば
 それで終わり
 そんなマッチのような
 人生であったらいい」

 少女の叫びのような悲しみが伝わってくる。

事例3 T男
 T男は家出、浮浪、窃盗を理由に中学1年で入所してきた。知的な障害があるわけでもないのに学力が低く、自分の名前さえ漢字で正確には書けなかった。
 入所して1年近く経過した頃、何でもいいから一つ文章を書いてみなさい、と促されて次のような短い文章を書いた(一部修正、省略あり)。
 「ぼくのおかあさんとおとうさん」 
家におるときは、人にめーわくがかかることばっかししていた。ぼくが小学校1年生のときから、おとうちゃんとおかあちゃんは、けんかばっかししていた。2年生のときおかあちゃんはしんぞうをわるくして血をはいたりしていました。
そしてある朝おかあちゃんはおりませんでした。おとうちゃんにきいたら、おばあちゃんの家にいったとゆいました。日ようびにおばあちゃんの家にいったら、おかあちゃんはおりませんでした。もう1かいきたらほんまはびょういんにいっていました。そしてたまたま日ようびにおとうちゃんといっしょにおかあちゃんのめんかいにいきました。おかあちゃんのかおをみたらすごくやせていました。
ぼくが4年ごろから、おとうちゃんといっしょにおかあちゃんにあいにいくことはありませんでした。ちいさいときからばんになると、おかあちゃんのことをおもいだしてなみだをこぼしたこともなんかいでもあります。そしていまはおかあちゃんはどうしているんかなあと思います。

 この子は幼い日から繰りかえされる父母のけんかや父親のいい加減な扱いの中で育ち、やがて家出、浮浪するようになり、「人に迷惑のかかることばかりしやがって」と怒鳴られ、体罰を受けるようになり、手に負えない子となって、児童相談所を経由して入所した。
1年近く経過して、ようやく落ち着きを取り戻して出てきた言葉が上の作文である。尽きせぬ母親への思いが切ない。

 学園で辻夫妻と一緒に生活している学園の子どもは、どの子も例外なく寂しい、孤独な子である。一つ屋根の下で寝起きし三度の食事を共にして一人一人深く触れると、この子たちはなんと孤独な生活を送ってきたのかと実感する。ほっとするものを持たない、いわば錨をおろす港のない子どもたちである。
 それで寂しいということを変に突っ張ってごまかそうとしたり、まぎらわせて慰めようとしたりする。心と裏腹な行為の一つが非行といえるのではないか。
 子どもは形だけでなく、根底のところで深い心のつながりを求めている。その欲求にだれかが応えてやらなければいけない。
 問題の子と言われて教護院に来る子は、かかわる大人との人間関係において大きく躓いている。大人との間によい人間関係が保たれてこそ、子どもはその安心感の中で自分の本来的な能力、よさを発揮、成長させていく。
 人間の土台は人間同士の深い信頼関係である。それがないとひっくり返ったら元に戻らない。けれどもヨットに復元力があるように、よい人間関係のなかにある子は、やがて回復する。それが形成されなかった子、あるいは失った子は、そうとわかった時点からその問題に取り組まなければならないのである。
(以下次号)

いのちのかけら-少年少女の自立支援に生きる その1

2014年04月01日 | エッセイ
いのちのかけら-少年少女の自立支援に生きる その1
 会社勤務時代に私の同僚だった人のお兄さんに、辻光文(こうぶん)という人がある。問題児といわれる子どもの教護を一生の仕事にした人である。いわゆる非行に走った子、周囲と調和せず迷惑ばかりかけて親も学校の教師も扱いかねている子などの問題児をあずかって、共に生活しながらその立ち直りを支援した。
 この方は、教護関係者が読む雑誌や印刷物に寄稿したり、人々の集まりで講演したりしており、それらをまとめて一冊の本が出来ている(「いのちのかけら」1988年<株>クイックス発行-非売品)。
 最近この本を元同僚から見せてもらい、この方を初めて知ったのだが、その思想と教護実践に衝撃といっていいほど感銘を受けた。
 そこで、この本の内容から私なりにつかんだ辻光文氏(以後敬称を略し「辻」とする)の事績をかいつまんで紹介したい。ただし原本は300ページ近い大部なもので、記述の内容も人生万般にわたっており、そのすべてを簡潔に記述することは、私の能力を超えている。ここでは教護活動に絞って、この本からつかみ得たことを何回かに分けて紹介する。著者の趣旨を損ねていなければ幸いである。
 なお、これまで読書から得た知識、感想などは読書日記という形で発表してきたが、この本の紹介は、通り一遍の批評には収まりきらないという気がするので、通常のブログ記事として発信する。

 辻は1930年秋田県の禅寺に生まれ、臨済学院専門学校(現花園大学)で学んだ。このとき彼が生涯の師と仰ぐ柴山全慶師(当時臨済学院教授)に出会っている。柴山師は臨済宗の高僧で、以後生き方に思い悩んだときは師の教えを請うようになった。
 卒業後3年ほど秋田県で中学の教員をしたが、中学の卒業生が集団就職して働いている小石川の印刷工場の苛酷な状況を知ると、人が困っているとじっとしていられない生来の性格が頭をもたげ、中学教師を辞めてそこへ赴く。自身は、昼間小さな出版社の編集員をしたり、トラックの運転手をしたりしながら、夜はその子たちと同じ屋根裏部屋に寝起きして、生活指導をしつつ3年ほど暮らした。
 子どもたちを追いかけて東京に出てきたものの、それほど役に立っているという実感もなく、あるとき経営者に子どもたちの待遇改善を要求して、追い出されてしまう。
 それから辻は生活運動団体の一灯園に入って懺悔、奉仕、托鉢の生活をしたが、「生きるとは、どういうことか」の答えを得られず、柴山師に「月謝を出すから、もういっぺん学校に入ったらどうだ」とすすめられて、27歳のとき花園大学の仏教福祉に再入学した。
 その課程を修了してから、大阪市の艀(はしけ)で働く人々の子供達を育てる養護施設で実習中の婚約者から指導員と保母を必要としていることを聞き、夫婦で福祉施設での住み込みの生活を始めた。
 夢中で働いて4年目に入ったとき、盗みをする小学6年生の子が出てきた。そのほかにもいろいろ問題をおこして手に負えない。施設長と相談してこれはもう教護院(問題児を預かって生活指導する施設)に入れるしかない、ということになった。
 しかし、辻自身教護院のことをよく知らなかった。教護院は各都道府県に一つずつあって、関西の施設を見学して歩いた。子どもたちはいろいろ問題を持ってはいるが、広大な施設のなかでのびのびと生活している。
 こういう施設に入って子どもたちと共に暮らそうと決意したが、そこで生活指導するには、武蔵野学院という国立の教護職員養成所をおえていなければならない。そこに入って一定期間、非行少年のなかでも特に手に負えない少年達と一緒に生活したあと、大阪市立阿武山学園に来た。31歳のときである。
 そのころ阿武山学園はまだ出来たばかりの施設で、こぢんまりした家庭舎といった感じの寮舎が7寮あり、それぞれの寮は小舎夫婦制で、一組の夫婦(教護、教母)と10人前後の子どもが三度の食事をし、同じ屋根の下で寝て、一緒に生活するようになっている。
 小舎夫婦制というのは、教護にかかわる大人と子どもたちとの間によい人間関係を保ち、その安心感のなかで子どもに自分本来の能力やよい性情を発揮、成長させる、という趣旨で設けられた。辻は、はじめの9年は男子と、その後女子と一緒に暮らしながら、55歳の定年まで24年間この教護活動に従事した。
 以下、この本に出てくるたくさんの事例の中から選んだものを折り込みながら、辻の実践の跡を追い、彼の思想といってもいいほどに昇華された教護の信念や子どもの見方を記述したい。

子どもの逃亡
 教護院(現在の名称は児童自立支援施設)には逃亡を防止する塀がないから、ときどき逃げだす子どもが出てくる。
 あるとき、子どもたちがトランプをしようというので、一緒に遊んでいたら「先生誰と誰はいません」といわれて気がつき、その辺を探してもいないし、夜になっても帰ってこない。調べてみると、子どもたちがグルになって辻の注意をそらし、そのすきに逃げだしたということがわかった。
 こうした逃亡に対して辻はどういう態度で臨んだかというと、まず手を尽くして探し、見つかれば学園に戻るように説得を試みるが、首に縄をつけるようにして無理に連れ戻すことはしない。子どもが戻る気になっていなければ、再び逃亡することが目に見えているからである。
阿武山学園のような開放施設では、しようと思えば無断で飛び出すことができる。だが、子どもたちに自ら律することを教えるために、厳重な監視や閉じ込めはしない。教護する側がどんなにやりきれない思いをすることがあっても、この一線は守っている。
閉じ込めるよりも、むしろ辻は子どもに逃げだしたいと思わせないような集団の雰囲気を作ることに力を入れた。もちろん、これは一朝一夕に出来ることではないが、詳細は後述の「集団の風土作り」の項で紹介する。
-以下次号-