ひろじいのエッセイ(葦のずいから世の中を覗く)

社会と個人の関係という視点から、自分流に世の中を見ると、どう見えるか。それをエッセイ風にまとめ、ときには提案します。

忘れられた日本人

2013年01月21日 | 読書日記
忘れられた日本人 宮本常一 岩波文庫
 民俗学者の著者は、昭和14年頃から昭和20年代の終わりまで日本各地を歩いて、そこに伝わる民間伝承を克明に調査した。この本は、日本の辺境ともいうべき奥地の山村や、離島の漁村を訪れ、農山漁村の文化を築き支えてきた人々がどんな心情を持ち、どんな環境で生きてきたかを村の古老たちに語らせた聞き書きである。
 著者は日本中をくまなく歩いているようだが、この本では西日本の話が多く取り上げられている。著者の出身が山口県の島であることから、四国や島根といった地域は、言葉も理解しやすく、質のよい聞き書きが作れたのかもしれない。これらの地方の言葉が、私の育った広島県因島の方言によく似ていることにびっくりする。
 昔は、性について開放的だったようで、夜這いの話、田植え時の女たちの猥談なども収録されているが、屈託がなく健康的である。
 なかでも、「土佐源氏」と題する一編は、秀抜。土佐の山奥の村に住む「人をだますこと、おなご(女)をかまうことですぎてしもうた」盲目の元博労一代記で、博労稼業の傍ら農家の嫁に近づき次々とものにする体験が語られる。あまりおもしろいので、これを著者の創作ではないかと疑った人もあるようだ。著者は否定しているが、語り手が話の真実性を補強するためにフィクションを巧みにおりまぜて話し、聞き手もそれを感じながら記録したのかもしれない。
 猥談ではないが、「女の学校」という一編もおもしろい。かつて〈明治のはじめ頃まで)瀬戸内海の島々には、年頃の娘を母親が手引きして、四国や九州、岡山、広島などへ旅に出す風習があったという。
 娘たちは連れだって旅し、旅先の文化を知り、道連れができて他人と知り合い、見聞を広めた。これが学校にも行けない当時の娘たちの女の学校であった。
 終わりの2編では、文字を持つ伝承者と題して、有意の篤農家が村人の生活向上のために私利私欲を忘れて働き、同時に古い伝承を記録し、研究者に伝えることで民俗学研究に大いに役立ったことを伝える。昭和に入っても、資本主義経済に一歩距離を置いて、村人のために一身を投げ出す人がいたことに感銘を覚える。
 本書に書き留められている時代の村の人々の暮らしぶりは、「どちらが得か」で判断する現代の都市型の生活とは異質のものである。「こういう暮らし方、楽しみ方もある」という「違う生活の仕方」が語られているわけで、近代化や高度経済成長の陰で失われていった民の生活が活写されているといえる。どうやら、著者は現代の日本よりずっと生きやすい時代を紹介したらしい。
 最後に網野善彦の解説が置かれているが、内容理解に役立つと同時に、宮本常一の業績を俯瞰して秀逸である。

私の会社員時代 その2

2013年01月11日 | エッセイ(自分史から)
私の会社員時代 その2
同族会社の悲哀
 F社は同族会社で、私が入社したとき、創業者の息子たちが社長、専務、常務といった、経営の主要な地位を独占していた。会社の成長期に株を公開し、高値がついた持ち株の一部を手ばなした経営者兄弟は、そろって高額所得者番付に名を連ねた。
 この会社の経営者に共通していたのは、会社を自分たちの持ち物だと思っていたことだろう。会社の経営を始めて多数の社員を雇うようになれば、社員の生活が自分たちの肩にかかり、私企業といえどもなかば公器になるのに、そういう社会的責任の自覚が弱かった。あるいは経営者と社員は同じ船に乗り組んだ運命共同体だという意識が薄かったともいえる。
 他社の経営者で「会社を経営する目的は、会社を存続させることである」と言う人がある。「利益をあげることである」と言わずに、こういういい方をするのは、やはり社員や取引先の生活維持が念頭にあるからだろう。
 もちろん、適正な利益なしに、長期的な会社の存続はありえないし、社員の生活を維持することもできないので、「利益をあげる」と言ってもやましいはずはない。どちらを強く意識するかの問題である。
 F社では社員はあくまでも雇い人で、持ち主の経営者には、利益を生み出す器としての会社がより大切である。経営者がそれを社員の前で公言するわけではないけれども、日常の部下たちへのことばのはしばしににじみ出る。経営者のふところを肥やすために働かされているという意識では、社員はやる気が出ない。
 社員の意欲を最もそいだのは、創業者からは孫にあたる、3代目たちが成人して入社し、若くして課長や部長に昇進したことだろう。早くも3代目たちにはとりまきができ、とりまきになるのを、いさぎよしとしない人々は、うだつが上がらなかった。
 会社の将来に希望をなくした人々は、私もその一人だったが、つぎつぎとやめていった。優秀な人ほどさっさとやめるので、一時期「会社に残っているのは、能力のない人ばかり」というような雰囲気さえ生まれた。
 社員はせめて労働条件だけでも世間なみを確保したいと、労働組合を頼りにするようになった。組合幹部は一般組合員の強い支持を背景に、ストライキも辞さない態度で会社側との交渉に臨む。
 実際、賃上げや賞与の交渉時期には、しょっちゅうストライキを打たれて、私も人事部員としてその対策に走りまわった。ストライキに入ると、一般の顧客に迷惑をかけ、ひいては顧客を失うので、これには経営者も弱い。結局、組合に譲歩して交渉をまとめることが多かった。
 強い組合をなんとかおさえこもうと、経営者は労務対策の専門家を採用して、人事部の要職につけた。しかし、この人たちの打った手は、交渉上の駆け引きとか組合幹部の懐柔とか、小手先の対策が多くて、広く会社の労務管理全般に目配りすることが少なかった。
 社員が経営者に不信感を持ち、会社より組合を頼りにするうちは、小手先の対策を打ってもきき目がない。「会社は社員の行く末をよく考えてくれている。会社を信頼していれば、悪いようにはならない」という安心感があれば、社員の顔は会社を向き、組合運動に対する熱はさめてくるものである。
 私が埼玉県の志木にある工場へ移ったとき、廊下といわず階段といわず、建物内の至るところに組合の掲示が貼ってあった。工場内では組合用掲示板を使うことになっているのに、それを守っていない。はがすように申しいれても言うことを聞かないので、私は自分ではがして組合に突っかえした。すると組合は、いつのまにかまた貼る。そのころ、こんないたちごっこが各事業所で繰り返されていたのである。
 実を言うと、いよいよこの会社がいやになって転職しようと腹を固めたのは、埼玉県の工場に転勤になる前である。転勤辞令を受けとったとき、私は埼玉県草加の団地に住んでいた。その工場まで通勤に2時間かかり、普通なら転居するところである。だが、就職活動をするとなれば、転居どころではない。しばらく通勤しながら、転職先を探した。
 幸い電子機器メーカーのS社が採用してくれたが、すぐにはやめることができず、入社を1970年1月まで3か月ほど延ばしてもらった。第1次オイルショックが来る3年ほど前のことだった。


私の会社員時代 その1

2013年01月01日 | エッセイ(自分史から)
私の会社員時代 その1
 これから10回程度、私の会社員時代と早期退職後の経験を自分史から転載します。高度成長期に一サラリーマンがどんな思いで仕事をしていたかを、知っていただければ幸いです。なお、読書日記はこれまで同様、適宜挿入する予定です。

1千万円ためたまえ
 大学を卒業してから4年間東京目黒にある高校で社会科の教師をしていたことは、すでに書いた。教師の職は好きで選んだわけではなく、文学部の哲学専攻では、学校の先生くらいしか就職口がなかったからである。
 しかし、教師という職業は私には合わなかった。生徒は勉強嫌いが多く、授業中私語ばかりしてさわがしい。聖人君子でもないのに「したり顔」で訓辞をたれたり、こまごました校則に基づいて生徒の服装を取締まったりするのも好きではなかった。
 教師をやめて民間会社に入ろう、と決意して新聞の募集広告を物色し、大きな広告を出した製菓業のF社に応募して拾ってもらった。
 転職が決まったとき、大学時代の恩師H教授のお宅へ報告にいった。先生には大学を卒業するとき、就職のことでお世話になったし、日曜会に伺うことも多かった。
 先生は月1回日曜の午後、自宅を学生や卒業生に開放して、弟子たちにさまざまな話をしてくれた。これを私が勝手に日曜会と名づけていたのである。先生の専門は中国思想史で、大学の講義や演習は孔子や荘子の話だったけれども、自宅での話題は中国の歴史、政治、経済から始まって人生談義にまで及び、つきることがなかった。
 転職のことを話すと「そうか、君は菓子屋の手代になるか。それなら1千万円ためたまえ」。当時の1千万円は、今の貨幣価値で1億5千万円くらいだろうか。私が不思議そうな顔をしていると、わけを話してくれた。
 「実業界は公務員のような身分の保証がないから、いつやめなければならないような事態になるかわからない。生活がかかっているとなれば、経営者や上司にたてつくのはむずかしく、自分の信念を曲げることもあるだろう。
 しかし、卑屈になってはいけない。卑屈になっている人の意見は重んじられないものだ。いつ会社をやめても生活できるだけの蓄えがあれば、自分の信念を曲げなくてすむ。それには1千万円必要だ。自分の利害を越えた立場でものを言えば、発言は重みを持ち、君の評価は高くなる」
 なるほどと思ったが、1千万円たまるはずもなく、はじめから自分の節を曲げるかどうかと迷うほどの重要な地位につくはずもない。とりあえず、与えられた仕事を順に仕上げていけば一日が終わり、教員時代と違って、自分のやっている仕事がどれほど役に立つのかと悩まなくてすむので、気楽だった。
 配属されたのは人事部人事課で、人事給与統計、就業規則と労働協約の改訂、諸規則の立案といった、数字や文言の一つひとつに正確さが求められるのに、間違っても誰も気づかないような地味な仕事をした。
 このころ社内で注目された唯一の仕事は、会社の生産性と人員の関係について意見書をまとめ、警告を発したことだろう。1960年代は会社の高度成長で、売上も社員数も伸び続けて止まるところを知らなかった。社員数は私の入ったときで6千人、やがて1万人に達すると、人事部はのんきな予測をしていた。
 このまま人をふやし続けていいものか。一抹の不安を覚えた経営者は、人事部長に長期の人員計画を作るように指示し、その仕事が私のところにまわってきた。私は直感的に、賃金も毎年10%以上の高率で伸びているから、利益は確保できないのではないか、と感じた。
 経理部にいりびたって、事業部門別の労働生産性を過去数年にわたって調べあげ、それをもとに計画書というより意見書に近いものを作って提出した。「この調子で人を増やしていったら、数年で利益は出なくなる。人員増をおさえ、生産性の向上を図る必要がある。部門別の人数の上限と生産性向上の目標はこれこれ」
 これを見た専務は、「これぞまさしく私の望んでいたものだ。部課長を全員集めるから、説明しなさい」。
 そのうち係長になった。この時代に私が手がけた仕事で最も大きなものは、管理職の職能資格制度作りである。本当は全社員に適用する制度を作りたかったのだが、係長以下は労組の合意をとりつけるのに時間がかかりそうだから、まずは管理職からということになった。
 現実の役職等級にほぼ見合った職能等級を設定し、職能等級別給与表、人事考課表を作った。新しい制度に移行すると、低い格付けをされた人は給与が下がることもありえる。それではまずいので、当面下がらないような経過措置も考えた。
 新制度案ができたところで、労務管理を専門とする、ある大学教授に見てもらったら、「制度としては、よくできています。あとは運用ですね。運用がまずければ、どんな立派な制度も骨抜きになります」
 教授の言うとおりになった。課長級の管理職を評価する部長は、いったいどこに目をつけているんだろうと思うくらいに、いい加減な能力査定をした。頭から誰は何等級と決めて、その等級になるように、能力項目別の評価点数を調整している。人事考課表を精緻に作っても何の役にも立たなかった。
 これは、理想論で机上プランを作って、現実の壁にはねかえされた仕事のいい見本である。しかし、見方を変えれば、当時能力給を導入した日本の企業は、多かれ少なかれ同じ悩みを抱えていたはずで、ひとりF社のみがうまくいかなかったのではない。
 能力の評価は、人事側の見方と現場の見方が一致しないものだ。のちに私が「欧米流の能力主義は日本の風土に根づかない」という確信を持つようになったのは、この経験が出発点になっている。