忘れられた日本人 宮本常一 岩波文庫
民俗学者の著者は、昭和14年頃から昭和20年代の終わりまで日本各地を歩いて、そこに伝わる民間伝承を克明に調査した。この本は、日本の辺境ともいうべき奥地の山村や、離島の漁村を訪れ、農山漁村の文化を築き支えてきた人々がどんな心情を持ち、どんな環境で生きてきたかを村の古老たちに語らせた聞き書きである。
著者は日本中をくまなく歩いているようだが、この本では西日本の話が多く取り上げられている。著者の出身が山口県の島であることから、四国や島根といった地域は、言葉も理解しやすく、質のよい聞き書きが作れたのかもしれない。これらの地方の言葉が、私の育った広島県因島の方言によく似ていることにびっくりする。
昔は、性について開放的だったようで、夜這いの話、田植え時の女たちの猥談なども収録されているが、屈託がなく健康的である。
なかでも、「土佐源氏」と題する一編は、秀抜。土佐の山奥の村に住む「人をだますこと、おなご(女)をかまうことですぎてしもうた」盲目の元博労一代記で、博労稼業の傍ら農家の嫁に近づき次々とものにする体験が語られる。あまりおもしろいので、これを著者の創作ではないかと疑った人もあるようだ。著者は否定しているが、語り手が話の真実性を補強するためにフィクションを巧みにおりまぜて話し、聞き手もそれを感じながら記録したのかもしれない。
猥談ではないが、「女の学校」という一編もおもしろい。かつて〈明治のはじめ頃まで)瀬戸内海の島々には、年頃の娘を母親が手引きして、四国や九州、岡山、広島などへ旅に出す風習があったという。
娘たちは連れだって旅し、旅先の文化を知り、道連れができて他人と知り合い、見聞を広めた。これが学校にも行けない当時の娘たちの女の学校であった。
終わりの2編では、文字を持つ伝承者と題して、有意の篤農家が村人の生活向上のために私利私欲を忘れて働き、同時に古い伝承を記録し、研究者に伝えることで民俗学研究に大いに役立ったことを伝える。昭和に入っても、資本主義経済に一歩距離を置いて、村人のために一身を投げ出す人がいたことに感銘を覚える。
本書に書き留められている時代の村の人々の暮らしぶりは、「どちらが得か」で判断する現代の都市型の生活とは異質のものである。「こういう暮らし方、楽しみ方もある」という「違う生活の仕方」が語られているわけで、近代化や高度経済成長の陰で失われていった民の生活が活写されているといえる。どうやら、著者は現代の日本よりずっと生きやすい時代を紹介したらしい。
最後に網野善彦の解説が置かれているが、内容理解に役立つと同時に、宮本常一の業績を俯瞰して秀逸である。
民俗学者の著者は、昭和14年頃から昭和20年代の終わりまで日本各地を歩いて、そこに伝わる民間伝承を克明に調査した。この本は、日本の辺境ともいうべき奥地の山村や、離島の漁村を訪れ、農山漁村の文化を築き支えてきた人々がどんな心情を持ち、どんな環境で生きてきたかを村の古老たちに語らせた聞き書きである。
著者は日本中をくまなく歩いているようだが、この本では西日本の話が多く取り上げられている。著者の出身が山口県の島であることから、四国や島根といった地域は、言葉も理解しやすく、質のよい聞き書きが作れたのかもしれない。これらの地方の言葉が、私の育った広島県因島の方言によく似ていることにびっくりする。
昔は、性について開放的だったようで、夜這いの話、田植え時の女たちの猥談なども収録されているが、屈託がなく健康的である。
なかでも、「土佐源氏」と題する一編は、秀抜。土佐の山奥の村に住む「人をだますこと、おなご(女)をかまうことですぎてしもうた」盲目の元博労一代記で、博労稼業の傍ら農家の嫁に近づき次々とものにする体験が語られる。あまりおもしろいので、これを著者の創作ではないかと疑った人もあるようだ。著者は否定しているが、語り手が話の真実性を補強するためにフィクションを巧みにおりまぜて話し、聞き手もそれを感じながら記録したのかもしれない。
猥談ではないが、「女の学校」という一編もおもしろい。かつて〈明治のはじめ頃まで)瀬戸内海の島々には、年頃の娘を母親が手引きして、四国や九州、岡山、広島などへ旅に出す風習があったという。
娘たちは連れだって旅し、旅先の文化を知り、道連れができて他人と知り合い、見聞を広めた。これが学校にも行けない当時の娘たちの女の学校であった。
終わりの2編では、文字を持つ伝承者と題して、有意の篤農家が村人の生活向上のために私利私欲を忘れて働き、同時に古い伝承を記録し、研究者に伝えることで民俗学研究に大いに役立ったことを伝える。昭和に入っても、資本主義経済に一歩距離を置いて、村人のために一身を投げ出す人がいたことに感銘を覚える。
本書に書き留められている時代の村の人々の暮らしぶりは、「どちらが得か」で判断する現代の都市型の生活とは異質のものである。「こういう暮らし方、楽しみ方もある」という「違う生活の仕方」が語られているわけで、近代化や高度経済成長の陰で失われていった民の生活が活写されているといえる。どうやら、著者は現代の日本よりずっと生きやすい時代を紹介したらしい。
最後に網野善彦の解説が置かれているが、内容理解に役立つと同時に、宮本常一の業績を俯瞰して秀逸である。