ひろじいのエッセイ(葦のずいから世の中を覗く)

社会と個人の関係という視点から、自分流に世の中を見ると、どう見えるか。それをエッセイ風にまとめ、ときには提案します。

若者の職を確保するには-その2

2010年04月29日 | エッセイ
2010・4・29
若者の職を確保するには-その2
4)中間職の海外進出
 先日テレビで、外国にいってすし職人をやりたいという人が紹介されていた。外国人が日本へ働きに来るように、日本人も適職を求めてもっと外国へ働きに行くべきだ。今まで外国で仕事をする人といえば、主として日本企業の駐在員、学者、高度プロフェッショナル型労働者などであった。これからは国境の垣根が低くなって、中間職でも外国が受け入れるようになり、外国企業に直接雇用されたり、自分でビジネスをしたりする機会が増えると思われる。
 厚生労働省ももっと海外に目を向けて、日本人ができそうな職を探すべきだ。
5)職業教育
 現代の若者は、汚れ仕事や肉体労働をいやがる。そのどちらでもないが、忙しくてきつい仕事もつらくて辛抱できない。やむなく雇用する側は外国人を連れてくる。
 豊かな社会の病理がここにも現れている。幼少のころから、欲しいものは何でも手に入り、欲求のおもむくままに暮らしてきた若者は、学校を卒業して職業生活に入ると、厳しさに耐えられないのだ。
 厚生労働省は、若年層の失業を減らそうと、職業教育(職業意識を持たせる、手に職をつけさせるなど)に力を入れはじめた。少し手遅れの感はあるが、やらないよりはいい。
 それと、もう一つ大事なことは、職業教育を学校や職安(ハローワーク)にまかせっきりにしないで、家庭でもすることだ。小さいときから「大人になったら何になりたいか、それは可能か、その職業に就くためにはどんな修練をつまねばならないか」親子で話しあうべきだ。
 これまでたいていの親は、学校を出ればうちの子にも何か職があるだろう、と考えてきた。高度経済成長時代はそれでもよかったが、今は違う。小学校高学年になったらそろそろ適職探しを始めなければいけない。
6)技術軍縮と共生
 中間職を増やす手立てとして、より根本的なのは、技術進歩を止めることだろう。
 技術進歩とそれを武器にした経済成長のあくなき追求が地球温暖化を始めとする自然環境破壊を招き、放置すれば地球と人類を破滅に導くことは、つとに指摘されている。技術進歩がもたらすものは、それだけではない。社会的な環境悪化をも同時に招いている。
 現代のサラリーマンは私が会社勤務を始めた約50年前に比べると、大変忙しい生活を送っている。新幹線、車、携帯電話、コンピュータなどの便利な道具は、仕事の効率を高める。けれども、仕事の効率が上がった分、労働時間が減って余裕が出来るのならいいが、実際にはそうならず、効率上昇分だけ人が少なくなるから、労働時間は減らずに労働密度だけが濃くなってしまう。
 特にコンピュータは怖い。コンピュータが一見便利であれば、人々はそれがどんな毒を含むかを十分検討せずに、仕事に利用する仕組みを作り上げる。その仕組みに乗らなければ、仕事が遅れ競争に負けるだけだ。コンピュータが職場の隅々に入り込んだ結果として中間職が減ったことは、既に前々回述べたとおりである。
 便利な道具は麻薬と同じようなものだ。初めはいい気分にしてくれても、気づいたときには毒が全身にまわって、抜き差しならない中毒症状になっている。
 産業革命が進行する18~19世紀のイギリスで、職を失ない、あるいは低賃金労働を押し付けられた労働者が、機械打ち壊し運動を起こしたことはよく知られているが、このまま技術革新が進んで中間職が更に減れば、現代のわが国でも職よこせの打ちこわしが起こりかねない。もっとも、現代の打ちこわしは、実際に建物や機械を壊すのではなく、コンピュータ・ウィルスの侵入による通信システムの破壊など、非暴力的な手段を使うかもしれない。
 もはや、これ以上技術が進歩しないよう、科学技術の開発をやめて立ち止まるしか、根本的な治療法は残されていないように思われる。技術によってもたらされた生活の便利さと物質的な豊かさが、かえって人の心をむしばんでいる。技術を部分的に利用する専門家が増え、知識、技術を総合的に解釈する知恵者がいない。自己増殖して大きくなりすぎた科学技術という怪物に人類は振りまわされ、破滅しそうになっている。現代は技術の進歩に、人間の知恵が追いついていない時代といえよう。
 しかしながら、どうやって技術進歩を止めるかという方法論になると、簡単に妙案は浮かばない。地球環境の悪化を食い止める技術のように、残したい技術もある。一気にすべての技術開発を差し止めれば、社会的な大混乱を招くから、徐々に行わなければならない。どこからどのように手をつけるか、それを論議するために国民的な規模の技術軍縮会議を組織すべきだ。
 今やほとんどの問題は、国際的な枠組みでなければ解決しなくなっているから、国際技術軍縮会議も作る必要がある。「二酸化炭素の排出規制ですら世界各国の足並みがそろわないのに、そんなこと、できるわけがない。荒唐無稽の発想だ」と冷笑していては、人類に未来はない。核軍縮は不備ながらもできた。核兵器の脅威ほど差し迫っていないだけで、地球と人類の将来を危うくする点では同じことである。
 「冗談じゃない。技術開発を止めたら、経済成長も止まる。それでなくても、日本は生命科学(バイオサイエンス)や情報技術(IT)など先端技術でアメリカやヨーロッパに後れをとっているというのに、技術が停滞したら日本は食べていけなくなる」とたちどころに反論されそうだ。
 だが、経済成長しないと豊かになれないというのは、神話に過ぎない。日本の経済規模はすでに年間GDP500兆円に達している。経済成長がゼロでも、少々マイナスでも充分食べていける。高度成長は多くの負の遺産を作った。われわれは後続世代のために、残された負の遺産を少しずつ修復しなければならない。
 アメリカにはアーミッシュといって、宗教的な信条から約200年前の電気も自動車もない質素な生活様式を、かたくなに守っている地域集団がある。いったん手に入れた便利な暮しを捨てることは極めてむずかしいけれども、200年前とは言わず、せめて20年前の生活に後戻りすることは可能ではないか。
 それにもかかわらず、日本政府はマイナス成長を避けることに躍起になっている。景気を刺激しようと、もがけばもがくほど財政赤字は増え、孫子の代に国債残高というツケを回して、負の遺産を増やすばかりである。政府は今、借金を返すために借金を重ねるサラ金地獄に陥っている。経済成長の呪縛から解放されなければ、地獄から這い上がることはできない。
 これまで日本社会の背骨となった倫理は勤勉だった。懸命に知識、技術を学び、頑張って働いて、富と繁栄を勝ち取る。これが資本主義の精神であり、学校と企業はそれを注入する装置であった。自然環境や資源の限界が明確になり、社会環境も悪化しつつある現在、これまでの生きかたを支えた倫理は、主役の座を降りなければなるまい。
 これからの時代の中心となる倫理は、相互扶助と共生であろう。実力主義という強者の論理を振りまわして幸せになるのは、一握りの人だけだ。効率一本槍の価値観は非効率な弱者の切り捨てにつながる。勝者と敗者がはっきり分かれるような社会より、弱いものにやさしい社会、強者と弱者が助け合い、共生する社会の構築をこそ目指すべきではないか。


若者の職を確保するには-その1

2010年04月22日 | エッセイ
2010・4・22
若者の職を確保するには-その1
 前回、社会全体の人員構成からいえば最も人数の多い中間的な能力の持ち主、いわば普通の人の職が減少していると書いた。では、そういう人の職を確保するには、どんな方策があるだろうか。これは一個人、一企業の努力ではどうにもならない政策の問題であるが、私見を述べてみたい。
1)非正規雇用はなくせるか
 政府は、製造業派遣の原則禁止などを盛り込んだ労働者派遣法の改正案を国会に提出して、非正規雇用を減らそうとしているが、派遣という雇用形態にいくら規制を加えても、非正規雇用が減るわけではない。
 日本の製造業はもう何十年も前から、期間社員、パートタイマー、アルバイト、嘱託、実習、請負などの形で非正規を多数雇用している。製造業への労働者派遣が解禁になったのは近年のことで、派遣が再び禁止されれば、もとに戻って派遣以外の非正規が増えるだけだろう。
 製造業以外の業種でも非正規は増加の一途をたどっている。全雇用労働者に占める非正規の割合は、全産業でみると1988年には約18%であったものが2008年には約34%になっている(総務省、労働力調査)。
 なぜ非正規がこれほど増えたのか。前回述べた中間職(高度の知識技術は必要としないが、単純作業でもなく、一人前になるのに2~3年から数年かかるような仕事)が減ったからである。雇われたその日から普通にこなせるか、せいぜい2~3ヶ月の実務経験で1人前にこなせるような仕事なら、非正規でこと足りる。かつて企業が正規社員を雇用したのは、何年もかけて養成した労働者でなければこなせない仕事がたくさんあったからである。
 非正規雇用という局面だけとらえて、「正規を雇え」と政府や労働団体がいくら言っても、その通りにできるほど経営は甘くない。世界中の企業がコストを下げようとしのぎを削っているのに、自社だけ正規雇用を増やせば、人件費が上がってコスト競争に負ける。
 私が在籍した電機メーカーでも、20年ほど前から製品を海外で生産する動きが加速され、日本には製品の企画、開発、設計などの頭脳労働が残り、中間職が減った。
2)福祉の仕事を増やす
 いま福祉分野(医療、介護、健康増進、子育て支援など)では人手が足りない。それは分かっていても、地方自治体、NPOなどの公的な機関は、予算がないから福祉分野の人を増やせないし、現職者が他の職業に流れないように給与を上げることもできない。そこで増税を容認し、消費税、所得税、固定資産税を徐々に、しかし最終的には大幅に(国民負担率が50%くらいになるまで)引き上げ、それを財源にこの領域の雇用を創出する。
3)ローテクの仕事を残す
 企業の自動化、ハイテク化にブレーキをかける、何らかの規制をするのはどうだろうか。国際的な市場で競争しなければならない業種は、ローテクに戻せば、たちまち外国企業との競争に負けるから無理だとしても、まだ手仕事に頼る部分が多く、当分国際競争にさらされる心配もない業種なら不可能ではない。
 昔「手に職をつける」という言い方があった。これは、ホワイトカラーのサラリーマンのように、オフィスで仕事をするのではなく、腕一本で食べて行けるような技能を身につけることを指していた。
 例えば、調理師、美容師、理髪師、庭師のような仕事は、今のところ自動化、大規模化の波が押し寄せていない。生菓子職人、パン職人、大工のような仕事の領域は、そろそろ大規模工場やコンピュータ制御機器に侵食されつつある。
 そこで、こうした業種についてはコンピュータ制御が入り込む前に、自動化や一定規模以上の企業化を規制するのである。規制緩和、市場原理という時代の流れに逆行するようだが、この辺で歯止めをかけないと、更に職人の手仕事が失われてしまうだろう。
 かつて、大店法の規制がゆるめられて、大型店やスーパー・マーケットの進出が容易になった。そのせいで閉鎖に追いやられた個人商店は数限りない。大型店で労働の主力になっているのは、接客の技術も仕入の知恵もない、非正規雇用の人々である。小売業の分野でも中間職はジリ貧になっている。
 スーパーで安い買い物ができることと引き換えに、給料も安く、雇用も不安定な非正規社員しか若い人の職がないという事態が起きるとしたら、消費者は喜んでばかりいられない。もしかしたら自分の家族がそういう目にあうかもしれないのである。大型店やスーパーの再規制が必要ではないか。
 現在、日本の企業は消費者の自然環境問題への関心の高まりから、環境にやさしいことを標榜しないと、事業がやりにくくなっている。ゴミ処理、二酸化炭素排出、大気汚染などは、少しずつ改善されよう。これと同様に、企業に「わが社は中間職を多数採用します。極端な効率化によって雇用を減らすことはしません」と言わせるようにする、さらに一歩進めて、二酸化炭素排出に関する京都議定書のように、自動化率を15年か20年前の状態にまで引き戻すというような方策を検討してみるのはどうか。
 -長くなるので続きは次回に-


なぜ若者に職がないか

2010年04月15日 | エッセイ
2010・4・15
なぜ若者に職がないか
 ここ数年、若者の失業率が高止まり状態になっている。2009年12月の失業率で見ると、全年齢の平均では5.2%なのに、15~24歳の若年層に限ると9.9%と倍近い値である(総務庁統計局 労働力調査)。
 今は景気が悪いから、学校を卒業しても就職できない人が多いのはやむをえない、と思われているが、この失業は需要と供給の不一致という構造的なものなので、景気が回復しても改善されないだろう。
 構造的というのは、日本の産業から急激に中間職(高度の技術や熟練は要しないが、さりとて単純作業ではなく、平均的な能力の人が数年以内の実務経験を経て一人前になる仕事)が減少して、労働者の能力構成がいびつになっていることをいう。
 中間職の減少傾向は、1980年代の初めに、日本の製造業が大挙して人件費の安い海外に進出したときに顕著になった。拠点を海外に移せない事情のある製造業も、必死に自動化、省人化を進め、現場作業者を極限にまで減らした。工場の現場で働く若い人の姿は次第に消えていった。
 1999年の秋私は某ビール会社の茨城工場を見学した。39万平米の広大な敷地に工場棟や貯蔵タンクが立ち並び、年間7億数千万本(大瓶換算)のビールを生産する巨大な工場だが、働いている従業員はわずか300人である。工程内は目視検査をする人が目につく程度で、ほとんど無人といっていいほど自動化されている。
 「もし10年前に今と同じ量のビールを生産したとしたら、人員は何人必要でしたか」と質問したら、「そのころは今ほど自動化されていなかったので、1500人くらいは必要だったでしょうか」という答だった。つまり、自動化によって人数が5分の1に減ったのである。
 しかも、人員構成のおおざっぱな内訳を聞いてみると、醸造技術者、自動化設計技術者などの頭脳労働者は減っていない。会社の従業員ではないけれども、別会社から派遣されて工場内で掃除、雑役などの仕事をする人も減っていない。減っているのは中間職ばかりで、要するにコンピュータを中心とする機械に置き換え可能な仕事は、ほとんど人間の手を使わなくて済むようになったのである。
 大量生産の工場だけでなく多品種少量生産の工場でも、大企業、中小企業を問わず、技術革新の波が押し寄せ、省人化が進んでいる。例えば、日本のお家芸と言われる金型産業では、職人の技を保存するため金型をコンピュータ制御で作るようになった会社がある。こうなると、年季をかけて匠の技を身につけた熟練工は不要になり、工場はソフトウエアを開発するエンジニアとアルバイトで動かせるようになる。
 熟練工は中間職とはいえないけれども、熟練工になる前の段階にはいくつかの中間職があるはずだ。コンピュータ技術は、人々からこれらの諸職務を一挙に奪って、労働の二極分化を引き起こした。
 省人化は事務労働にも及んでいる。私の在籍した電機メーカーでは、1980年代には、東京の本社や都内に散在する事務所、技術センターなどの補助職として、短大新卒者を毎年500人前後採用していたが、今はほとんど採用していない。コンピュータによる大幅な省人化が可能になったし、まだコンピュータ化できていない一部の補助的な仕事は非正規社員がこなすので、補助職正規社員の新規採用が激減したのだ。このような動きは、第3次産業、なかでも中規模以上の企業に急速に広がりつつある。
 いずれ各企業の必要とする能力構成はおおむね一致してくるに違いない。高度の知識技術が要る専門職、技術職の需要は今以上に高まり、中くらいの知的能力を持つ労働者の需要は少なくなり、単純ではあるがコンピュータでは置きかえられない仕事や肉体労働をする人は今までと同様に必要、ざっとこんな構図が描けるのではないか。
 しかしながら、社会全体の能力構成は、経済の都合に合わせて変化してくれない。知的能力の人数分布は、上も下も少なく中央が大きく盛り上がる正規分布をなしている。高い知的な能力を要求される仕事は力量不足でできないし、単調労働も肉体労働もイヤだという日本の平均的な若者は、労働力として当てにされなくなっている。
 それに加えて、今は若年層の失業率を押し上げる要因がいくつもある。不景気、定年後の高齢者やパートタイマーなど賃金の低い労働者との競合、若者自身の勤労意欲の低下といった要因である。
 仕事は人間存在の基本なのに、若い人にその仕事がない。人は仕事上の役割を分担することで自分が役に立っているという存在感を自覚し、仕事に習熟する過程で自ら技術、技能を鍛え、仕事の苦労を通じて人間関係を良好に保つすべを学ぶ。若いときは特にそうだ。その大事な時期に非正規社員などをして、あの仕事この仕事と渡り歩いたりしていたら、技能も身につかず、精神的な成長も止まってしまう。
 若者が労働によって自分を磨くことができない社会は、健全とはいえない。これは日本の危機である。―この続き(非正規雇用はなくせるか、政策提言など)は次回に―

神様の値段

2010年04月07日 | エッセイ
2010・4・7
神様の値段
 ヨーロッパ、アメリカ、東南アジア、オーストラリアの国々で、2ヶ月から半年くらい生活したことがある。外国で暮らしてみると、日本の物価高を実感する。特に住居、食品、サービスにかかる費用が高い。地価と人件費が高いから、ある程度物価が高くなるのはやむをえないにしても、それに加えて日本を物価高にしている要因は、日本人の消費行動ではなかろうか。
 外国は物価も安いが、サービスも悪い。家電製品が壊れて修理を頼んでも、すぐには直しに来ない。何回も催促して、ようやく来たと思ったら、部品がないとかなんとか言って、すぐには直らない。
 電車やバスの時間は不正確だし、しばしば運休になって、ひどい迷惑をこうむる。買った商品の宅配はしてくれないし、返品、交換にも応じない。銀行や切符販売の窓口で長蛇の列を作ることも多い。
 アメリカでコインランドリーの両替機を使おうとしたら、「札を挿入するときは、おもてを上に、肖像の上部を右側にして」と指示が書いてあった。そうしないと、機械が札を認識しないのだ。客も不親切な機械に文句を言わない。
 それに比べると、日本は親切の網の目が張り巡らされた社会である。電話やインターネットで注文すれば、直ちに商品が届く。乗り物の中では「次はどこそこ」と放送してくれる。高額紙幣を出して、つり銭がないからと販売を断られることもない。
 何しろ「お客様は神様」が、顧客を相手に商売をする人々の合言葉になっている国だ。客の意に逆らうようなことは、決してしない。
 しかし、消費者が神様になって、ふんぞりかえっていると、サービスのコストは全部値段に転嫁されて、高い買い物をすることになる。
 サービスの水準を下げれば、物価も少しは安くなるはずだろうに、日本人はサービス好きというか、おうようというか、ついサービスに金を払ってしまう。
 私はいつも1600円の床屋にいっているが、友人は値段もかける時間も倍以上のところにいく。「月に1度のことだ。少々の金を惜しむより、気持ちよく散髪するほうがいい」と言う。ある女性と仕事の打ち合わせをするために、安いセルフサービスのコーヒー店に入ろうとしたら、「自分でコーヒーを運ぶなんて味気ない。普通の喫茶店に入りましょう」と言われた。
 これらは、サービスの有無を選べるからまだいいが、消費者が選べないものもある。たとえば、東京の鉄道車両は、私の知る限り世界一といっていいほど新しくてきれいだが、その車両の減価償却費は運賃の一部になって、利用者が否応なしに負担させられる。電車はボロでもいいから運賃を安く、という選択はきかない。
 とにかく、日本の物価は世界一高い神様の値段になってしまった。その上消費税の税率を上げようという論議が出たり消えたりしている。ある程度の増税はやむをえないにしても、ヨーロッパ諸国の消費税率までは上げてもいいというような発想は願い下げである。
 日本のサービスは、まだまだ過剰気味で、首を傾げたくなるものもかなりある。デパートなどでは、商品は依然として二重三重の包装だし、スーパーで売っている野菜は洗ってあるし、果物はつやだししてある。宅配便は翌日の指定時刻に先方に届く。
 われわれが身の回りのサービスの質を見直し、時々神様になることを控えば、物価も少しは下がるだろう。