ひろじいのエッセイ(葦のずいから世の中を覗く)

社会と個人の関係という視点から、自分流に世の中を見ると、どう見えるか。それをエッセイ風にまとめ、ときには提案します。

若い人と派遣労働

2015年09月21日 | エッセイ
若い人と派遣労働
「労働者派遣法」が改正され、9月30日から施行される(9月12日東京新聞朝刊)。改正法は、これまで最長3年となっていた同じ職場での派遣受け入れ期間の制限をなくし、人を替えれば派遣を使い続けられるようにした。派遣社員として働いていた人は、3年以上同じ職場には居られなくなって、別の職場を探さなければならない。
 採決前の国会討議でも「改正案は正社員になりにくくなり、一生派遣の若者が増える。女性に多い専門業務(通訳など)は3年で雇い止めになる。安倍首相の政治は弱い者いじめだ」と批判された。批判的論調はこのほかにもあまたある。それにもかかわらず政府が強行するのは、経団連などの経済団体とその傘下にいる企業が強く望んでいるからである。
 企業はコストをさげたいから派遣を多用する。昔はこうではなかった。私が勤務していた電機メーカーでは、約30年前の1980年代には、東京の本社や都内に散在する事務所、技術センターなどの補助職として、短大新卒者を毎年500人前後正社員としていた採用していた。
 だが、今はほとんど採用していない。コンピュータ・システムによる大幅な省人化が可能になったからである。もちろん、まだコンピュータ化できていない補助的な仕事も一部残っているが、それは派遣社員がこなすので、補助職正社員の新規採用が激減したのだ。
 こういう実態は工場でも同じである。昔生産ラインにはりついていた作業者は自動化によってほとんど姿を消し、昔と変わらないのは、製品設計や自動化設計を担当する技術者と工場内で掃除、雑役などの仕事をする作業者である。しかも掃除、雑役などは派遣社員に依存している。
 いわゆる中間職は日本の企業から姿を消しつつある。中間職というのは、半年やそこらで仕事を覚えられるような単純労働でもなく、高度の知識・技術や熟練が必要な仕事でもない、中間的な仕事である。
 高度の知識・技術を要する仕事は能力的に無理でも中間職ならこなせる若者も、今はそれも少ないので、単純労働の派遣をするしかない。昔なら中間職であっても、仕事に必要な知識・技術、あるいは仕事を進める手順や段取りを覚え、職場の人々と円満に仕事を進める人間関係術を身につけていけたが、その機会も失われつつある。
 いったん派遣労働に身を置くと、仕事に必要な知識・技術を身につけられず次の雇用機会もまた派遣になって、一生派遣が続くことになりかねない。
 それでも、企業はコスト重視だから安上がりの派遣で間に合う仕事に正社員をつけることはしないだろう。労働の需給関係を変えないで雇用だけ変えようとしてもうまくいかない。この種の企業行動は法律で規制しようとしても、抜け道が考え出される。
 そもそも、派遣社員と正社員はどこが違うのだろうか。第一に賃金が違う。身分保障(簡単には解雇されない)や福利厚生も正社員に手厚い。昔は中間職がたくさんあったから、企業は良質の労働力を確保するために、新規学校卒業者を採用して手間暇かけて育成した。社員側も育成を受けている半人前のときにやめるのは、本人の損失だから簡単にはやめない。
 30年ほど前からこのような雇用慣行が一気に崩れたのは、今述べた技術革新による省人化と、もう一つ製造業の海外移転のためである。この二つによって消費者は低価格の商品を手に入れることができるようになった反面、生産、販売の単純労働に従事する労働者の低賃金と技能未習熟を招いている。
 
 この国会ではもう一つ「同一労働同一賃金推進法」という、注目すべきだが生煮えの法が成立した。「同じ労働ならば同じ賃金を支払う」ことを推進し、正社員と派遣社員との賃金格差の解消を狙っているが、事業主には努力義務を求めるだけで、強制力には乏しい。
 この問題を論議するためには、同一労働とは何かということをはっきりさせる必要がある。仮に正社員Aと派遣社員Bの二人が見た目は同じ仕事に従事しているとしよう。しかし、そこだけを見てこの二人の仕事を同じ仕事と決めつけてはいけない。
 機械が故障した、部品が足りなくなったといった緊急時に対応ができるのは、普通は正社員のほうである。かつては正社員が一つの仕事を覚えると、管理者は別の仕事にまわし、次々と仕事を変えて数種類の仕事を覚えさせ、いわゆる多能工を育てた。
 誰かが病気で欠勤しても、多能工がいればすぐ代わりに仕事ができる。職場に新人が入ってくれば、その指導もする。資材の入手、出荷日程の調整などで他職場と交渉することもあるだろう。ある日ある時の仕事が同じであっても、二人の仕事は同一労働とはいえない。
 ある派遣社員の女性がこんなことを言っていた。「職場に高卒の新人が入ってきたけれど、右も左も分からないから、私が仕事を教えています。それなのに給料は新人のほうが高いのです。こんな矛盾したことがありますか」
 これも見た目でした判断である。企業は賃金を仕事の内容だけでなく、世間相場、労働能力、期待度(将来どれほど仕事の能力を伸ばせるか)などを総合勘案して決めている。これらの要素の中で、最も大きな要素になるのは世間相場であろう。
 将来の監督職、管理職、技術職などにあてる人材が必要な企業は、通常、新規学校卒業者の中から選考して正社員として採用する。賃金は、いくら仕事ができない新人でも、学歴別に出来上がっている初任給相場を支払うのである。
 よく欧米では同一労働同一賃金なのに、どうして日本はそうでないのか、という疑問を耳にする。これは欧米と日本では、雇用の仕方、賃金相場の成り立ちがまったく違うからである。
 欧米の雇用では仕事を提示してそれができる人を雇う。面接の時に「できます」といって採用されて、実際には十分できなかったら即刻解雇される。賃金は、こういう仕事ならいくらと職種別に世間相場ができている。雇った企業が大企業か中小かはあまり関係がない。
 また欧米では企業内で人材を育成することは原則としてない。仕事の能力を身につけるのは本人の責任で、先輩社員や上司が手間暇かけて育成はしてくれない。
 また企業内では一旦雇い入れれば、その仕事につけたままで、本人の能力が上がっても上級の職に就けることはあまりない。上級の職にはすでに相応の人が就いている。日本の企業のように「彼もかなり能力をつけてきたから上級の仕事をあてがうか」というような配慮はないのである。
 欧米では、自分の給料を上げたかったら、会社をやめて社外で仕事を探すか、社内で上級のポストが空いたときに「その仕事私にやらせてください」と挑戦し、上司の評価を受けてそのポストに上がるか、どちらかである。
 欧米でも仕事の情報化、電子化によってして職務内容が変動することも多いから、必ずしもこの通りではないにしても、育成とか昇進は基本的にこのパターンである。こういう労働事情だから同一労働同一賃金がなり立つ、というよりも同一労働同一賃金でなかったら、労働市場が混乱して、採用も就職もうまくいかなくなってしまう。
 だから日本では、同一労働のように見えてもそうでないことが多く、仮に同一労働であっても、正社員には将来更に上級の仕事についてもらうという期待が込められているから賃金が高くなる。
 実は今から50年くらい前に、どこの会社で働いても仕事が同じなら賃金も同じという横断的な労働市場がなぜ日本でできないか、という議論が労働組合団体、企業の人事担当者、労務管理を研究する学者の間で盛んにおこなわれた。しかし、それは日本企業の労務管理が上述のように欧米企業と違うことや、日本企業の著しい躍進によって日本型経営が絶賛されたことによって、沙汰止みになった。
「同一労働同一賃金推進法」は、そのような過去の歴史も踏まえず、中間職減少への危機感もなしに成立させた一時しのぎのように見える。

日本の失敗

2015年09月11日 | 読書日記
日本の失敗 松本健一 岩波現代文庫
 著者は著名な評論家だが、麗澤大学で講演を聞いたことはあっても、著書を読むのは初めてである。目のつけ所といい、要所を掘り下げた論述といい「なるほどそうだったのか」と蒙を啓かれるところが随所にあって、どうしてもっと早くこの人に注目しなかったか、読書能力の落ちた今からでは少々遅いと悔やまれる。
 この本は日本がなぜ大東亜戦争という「失敗」を犯したかを著者流に分析した、一種の歴史書である。ただし著者は、歴史の流れを追って主要な事実を解説するような通史の形をとっていない。通史を線とすれば、この論考は散在する点といえるが、その点一つひとつの掘り下げ方が深く、当時の記録(著作、新聞雑誌、議事録、私的な日記など)を丹念に調べて逐一著者の見解を述べている。多少昭和史の知識がある者には、著者が構想する線を引いて見せなくとも、それがおのずから見えてくるだろう。
 著者の論述する「点」のなかから、特に興味深かったところを以下に要約してみる。

発端としての対支21カ条要求 
 大正4年(1915)に大隈重信内閣が中国に突き付けた「対支二十一カ条の要求」は、まとめれば、①青島と山東省のドイツ権益を日本が継承する、②満州の租借権の期限を99年にわたって延長する、③鉄鉱山を日中で共同経営する、④日本人の商工業者と耕作者のために土地の貸借権や所有権が得られるようにする、⑤必要に応じて中国全土における日本人警察官の配備ができるようにする、となる。領土を拡大し、資源を確保し、軍備警護に手を出すという狙いである。
 ヨーロッパがつくりあげた帝国主義的侵略をまるごと踏襲したような内容だが、どう見てもかなり過剰な要求だった。ところがこれに真っ先に反対したのは中国ではなくて、中国に野心を抱くアメリカだった。とくに⑤の条項をアメリカは絶対に認めないと「待った」をかけた。これは中国全土に日本の支配権を認めるもので、後から中国に進出したアメリカの権益をいちじるしく阻害するからである。
 大隈内閣はアメリカの注文をのんで、あっさり⑤を削除し、中国の袁世凱政権は⑤を除く要求を承認した。一部削除があったとはいえ、この屈辱的な要求を中国が飲んだことは、中国の民衆を怒らせ、排日運動をまきおこした。
 石橋湛山はこの要求を次のように批判している。「軍事力を主体として領土を拡張し、資源を獲得するテリトリー・ゲームは、長い目で見ると経済的に引き合わず、民族主義的な抵抗も引き起こしやすい。それよりも、資本主義国がしっかりした産業を持ち、貿易を盛んにするウエルス・ゲームをすれば、自国発展ができる」。湛山がこの時期に、時流に流されず、こういう卓見を発表していたことを(たとえそれが外国の学者の説を下敷きにしていたとしても)高く評価すべきである。
 この21カ条要求が大東亜戦争の発端となったと松本は見ている。

満州国の設立
 関東軍の作戦参謀石原莞爾は、満蒙問題について次から次へと東京の参謀本部に提案した。いずれ日米は決戦せざるをえなくなるはずだが、おそらく持久戦になるだろうから、その前に満蒙問題を解決しておかなければならない。日本が満蒙を領有することによって、重工業発展のための資源供給を確保し、ロシアの南下と東進を食いとめ、あわせて朝鮮の統治を安定させる。張作霖なきあとの張学良を掃討して、満州を平定するのが一番ではないかというのである。
 事態の打開を迫る石原の示唆をうけた参謀本部は、ようやく「満蒙問題解決方策大綱」をつくる。関東軍の計画を否定しないけれど、最初から満蒙を植民地にするのは無理だから、まずは満州に親日政権をつくるというものだった。
 そこへ満州で調査にあたっていた参謀本部の将校がスパイ容疑で中国軍に殺され、さらに満州で中国の農民と朝鮮人民が衝突するという万宝山事件がおきた。
 ぐずぐずできないと見た石原は、東京に頼らずに作戦を実行する決断をした。関東軍が単独行動で、柳条湖付近の満州鉄道を爆破し、これを中国側の仕業と称して、軍事行動を起こした。
 作戦決行に対し、政府と軍中央は事態の「不拡大方針」をとり、関東軍の満蒙領有は認めなかった。石原は土肥原賢二、板垣征四郎、片倉衷らと鳩首協議をし、やむなく溥儀を執政とする親日政権をつくるという方針に後退することにした。のちに石原はこれをみずからの「転向」とよんだ。「王道楽土」と「五族協和」の理念が通るなら、満州国をつくるのもいいだろうという気になったというのだ。
 軍事の天才ともいうべき石原は日本の将来像を描き、それに向けて行動した。その人となりが活写され、通史では分からない彼の人物像に接して、私の彼に対する見方(単なる軍国主義者)はだいぶ変わった。

統帥権干犯
 ロンドン軍縮条約が主要国間で締結され、その結論をめぐって日本は「統帥権干犯」問題でおおいに揺れた。当時、陸海軍の統帥権は天皇に属し、政治家が関与できないとする明治憲法の解釈があり、軍縮を政権が勝手に決めたのは、天皇の統帥権を犯していると政友会の犬養や鳩山が騒いだ。
 しかし、こういう「魔法の杖」を政争の道具に使っては、かえって政党政治を破壊してしまう。松本はこのときの鳩山一郎の未熟な政治判断をかなり手厳しく批判している。
 いっぽう、軍部が統帥権干犯を呪文にして、権力を手中にしていったとき、これにブレーキをかけようと踏ん張った政治家がいた。斎藤隆夫である。彼は軍部の権力独裁をイデオロギーによってではなく、日本の政治的現実に即して批判した。
 なお、統帥権条項は明治憲法の欠陥であるが、伊藤、山県など明治の元老がいなくなって、軍部を押さえることができなくなったことにも軍部跋扈の原因がある。

北一輝と2・26事件
 5巻にわたる北の評伝(岩波書店・中公文庫)を書いた松本は、「北は事件を起こすことについて事前には知らされていなかった」とする説はとらず、「北は、将校たちの決起が統帥権干犯にあたるとみなされ、反乱軍と呼ばれることを予想し、その危険性を断ち切る措置を講じている」(成功しなかったが)と事前の関与を認めている。
 北は日米が戦えば必ず第二次世界大戦になると読んでいた。日米両国が戦うだけでなく、アメリカにイギリスが最初に加担し、ついでロシアが加担するだろうと予想し、日米決戦だけが進むなどと考えるのは机上の空論だと断定した。さらに北は、このような事態になるのを避けるには、日米の中国での権益を分配するための手を最初から打っておけばいいと唱えた。
 北については、22・6事件を起こした青年将校たちの精神的な後ろ盾になった右翼思想家という程度の知識しか持ち合わせていなかったが、彼の思想と行動をみると、ただならない見識の持ち主であったことがわかる。

国体イデオロギー
 大東亜戦争中よく「八紘一宇」(はっこういちう」という言葉がお題目のように使われた。これは、世界を一つの屋根のもとに置き、天皇のしろしめす統治を世界に広げていく、という意味だが、松本はこの理念が武力を背景にしているかぎり、帝国主義と選ぶところがないと言う。
 この思想を理論的に裏づけたのが、京都学派の哲学者西田幾多郎、高山岩男、高坂正顕らで、大東亜戦争を「世界史的使命」として位置づけ、戦争を正当化しようとした。日本には「道義的生命力」があるから勝利できるなどという青二才の将校のような発言は、熱に浮かされていたとしか言いようがない。それでも当時の知的エリートたちは、国体(皇室)に依拠して、日本が世界を支配すると信じた。開戦に至った当時の日本人には「精神的鎖国」があったといえる。
 そしてこの国体イデオロギーを和辻哲郎や丸山真男がどうとらえていたのかを検討し、佐久間象山の「東洋道徳・西洋芸術」や吉田松陰の開国議論、あるいは太宰治や福田恆存の思想とも比べている。

開戦の詔勅と国際法
 昭和16年12月8日の「開戦の詔勅」は国際法にまったくふれていない。日清、日露のそれには「国際条規を遵守」してという趣旨の文言があり、陸海軍はこれを守っているが、大東亜戦争では軍人達にそのような意識が欠けていたことを指摘する。
 日本は満州事変のときすでに「支那に関する9カ国条約」(1922年)や「不戦条約」(1928年)を破っており、国際連盟も脱退しているから、国際的に孤立しており、国際法を守るという宣言はなしがたかったのである。
 その結果、『戦陣訓』の「生きて虜囚の辱を受けず」という思想と相まって、軍人・民間人の多量の無駄な死と捕虜の虐殺を招いた。

戦後の憲法九条の先例
 第1次大戦後に西欧諸国間で締結された不戦条約(日本も参加)、国際連盟規約などに、条文の先例がある。